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2011年09月03日

変らなければ意味がない?

2000年10月29日が私が洗礼を受けた日です。今年の10月で満11年目です。クリスチャンになってからひたすら邁進して来ました。毎日、最長時間で10時間も机に座って聖書を学んだ歳月が5年ほどでした。とにかくイエス・キリストに関する事をすべて学びたいと熱心でした。

私の熱心の一つには、恋をした少女が大好きな人のことを逐一知りたいと思う気持ちと一緒でした。イエス様の事を思うと何も手につかなくなり聖書を読む事でイエス様を身近に感じていたいと心は燃えていました。本当に恋する乙女状態でした。

二つ目は、ユタをしている時に多くの人を間違った教えに従順させた罪責感でした。どうしても彼らを救いに導かなければならないと言う思いで一杯でした。先ず、自分自身が聖書を擁護出来なければとの思いが強かったのです。聖書知識を蓄えなければと必死でした。自分が外からも内からも変らなければならないと熱心でした。

しかし、心のうちでは自分の信仰に小さな疑問があるのも感じていました。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」そして「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」マタイ22:37・39の御言葉を知っているにも関わらず人を愛する事ができていない自分にいつの日にかジレンマを感じ始めていました。

ガラテヤ5:22~23の御霊の実が自分の上に満たされますようにと必死に祈り続けていました。キリストを愛する者はガラテヤ22:22~23の人格に変えられると学んでいたからです。言葉を知らない高慢な私、「私が私が」の自己主張ばかりの変らない自分がいました。

色々と叩かれて削ぎ落とされて自分を誇れなくなったある日から気がついた時に私の中ならマグマが消えているのに気付きました。家族間でその事が一番分りますね。自分の状態は家族が証人です。まず、(つぶやかなくなった)(どんな人の話でも忍耐して愛を持って聞く事が出来ている)(怒りがなくなった。)(親切になった)(他人のために労を惜しまない)(イエス・ノウがきちんと言えるようになった)です。

年取って元気がなくなっただけと言わないで下さいね。私が変りたいと思いを起したのは遠方の友のKさんとの半年間の時間の中ででした。死に掛かっていた私のつぶやきを聞いてくれて軌道修正してくれたのです。しんどかったと思います。Kさんはシュレッダー役とゴミ箱の役割を引き受けてくれました。「ごめんなさい」今は恥ずかしい限りです。Kさんがいなかったら私の鬱は癒されませんでした。精神科への入院まで考えていましたからね。

神様は本当にその時に叶った人材と方法で導いて下さいます。Kさんでなければ自分の中にある高慢も気づかないままだったでしょう。「神は高慢な者を退ける。へりくだった者を祝福する」とありますからね。際どいところで神様は私の高慢を気付かせて変りたいとの思いを導いたのです。

私が変わりたいと願った時に神様は大澤先生に会うようにとはっきり示されました。大澤クラスでの学びで自分が日々に変えられて行く事が実感出来ました。毎週の土曜日の聖書の学びはこれまでの注解書や聖書会での学びでは得られなかった聖書の真理を受け取れました。「目からうろこ」状態でした。

もう私は倒れません。主の御用のために余生を献げます。御霊の実がこのはしためと全てのクリスチャンの上に満たされますようにお祈りします。

「霊の結ぶ実は愛であり、喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」ガラテヤ5:23~24



Posted by 金城米子 at 10:18│Comments(0)
 
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