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Posted by TI-DA at

2011年04月29日

植えられた場所でベスト尽くす事~

慣れた場所からの移動は痛みがあると先のブログで記しました。教会も例外ではありません。教会は信仰を立ち上げていく場所ですから移動するのには痛みがあります。神様から離れることが出来ないから尚更の事です。

私自身も三回の教会移動です。ストレスが溜まりに溜まっていました。私は超教派の教会信徒との関わりを持っているために誤解をされていました。教会のはしごしていると思われていました。

私の伝道は超教派の牧師や信徒からの依頼があるからです。母教会ではその事が受け入れてもらえずにいました。私は時間に関係なくパニックに陥っている人がいれば出来るだけ祈りに出向く働きもしていました

その事もカウンセリングも必要に迫られてしていますから自分の時間はありません。未信者の伝道もあり多くの祈祷課題を抱えていますからいつ寝ているのかと近い人には不思議に思われていますが決して無理はしていません。聖霊に守られている事がとてもよく分かります。でも、私が健康だというのではありません。

私は子供の頃から腎疾患を抱えていますし難病があります。でも、元気が支えられています。難病があっても健康なのですと言うのはおかしいかも知れませんが事実です。聖霊の助けでなくて何んなのでしょうか?時折、パウロや三浦綾子姉妹の事を思います。神様は自分の弱さの中に「主にあって強い」と言わせる信仰を与えられるのです。

自分の弱さを誇る事の出来る者としてパウロや三浦綾子姉妹を用いられたことを覚えるとき私も励まされます。私も「主に会って元気です」と言うのが口癖です。それは主の助けが一分間でも途絶えたら健康を維持できないと知っているからです。ベットから起き上がることも立って歩く事も出来ないと知っているからです。それゆえ信仰の友、背後での祈りの友が与えられる事をいつも神様に祈っています。

新しい教会は神様に導かれて行きましたが私の本意ではありませんでした。しかし、神様は問題のない教会では霊的な成長はないのだと叱咤激励しました。愛のある訓戒を受けました。「信仰の弱い人を裁かないで愛して兄弟姉妹を助けていきなさい。「わたしがあなたをその教会に植えた」と示されたのです。

確信と確認が欲しいですと祈った時に教会では前代未聞のことが起こったのです。大きな揺さぶりが起きた教会の中で席もまだ暖まらないうちに分裂した教会での居残りを神様から命じられたのですが教会役員に立てられたのです。

「植えられた場所で最善を尽くしなさい」と示され本意ではありませんでしたが受け入れました。前途多難である事は目に見えています。しかし下記の御言葉が与えられました。どうぞ、自分の教会での信仰生活に戸惑いのある方がいましたら神様にだけ期待してくださいますように・・・人ではなくて神様にだけです。期待も信頼も神様だけです。人ではありません。人には依存しない事です。神様に依存して下さい。人は愛するだけの存在です。イエス様の十字架を見上げて下さい。

十字架を知れば神様がどれほど私達を愛しているのか分かるはずです。私達が苦手な兄弟姉妹を愛する事が出来るのはその兄弟姉妹の中にイエス・キリストが存在する事を見ているからです。愛するイエス様が苦手な兄弟姉妹の中にも存在している事、すべての人間は神様の作品である事を知って下さいますように・・・主の導きが豊にありますようにお祈りします。

「わたしが備えている日に彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ」マラキ3:17

教会に残された信徒達は弱者です。彼らは「私達はあるじに捨てられたような気分です」とつぶやきました。その言葉が私の心を刺し貫きました。私自身も以前の教会から出る時に「牧師や教会の兄弟姉妹から捨てられた」との痛みがあったからでした。主が弱者をどれほどに憐れんでいるのか今回はこの出来事を通して理解できました。ハレルヤ感謝でした。  


Posted by 金城米子 at 07:27Comments(0)

2011年04月28日

人生を取り戻す

信仰の友のM・Kさんとは五年のお付き合いです。三年前から彼女は祈祷課題をあげて祈って欲しいと頼んでいる事がありました。私は祈りの中で彼女の仕事に対する情熱が的外れであることを示されて何度と無く遠まわしに注意を促していました。勿論彼女の為には熱心に祈っていました。去年の暮れから彼女が非常に混乱状態にあり精神的に危ういことを示されていました。

「会いたいけど時間をつくって欲しいのですけど・・・」と頼んでも彼女は明らかに私を避けていました。「hanna7さんは厳しい事を言うからね」とかわされていました。彼女の無事を真剣に祈り続けていましたが二ヶ月前に彼女の方から「会いたい」と連絡がありましたので会うことになりました。ようやく会うことが出来たのですが彼女は中々話を切り出してくれません。

しびれを切らした私は「Mさん。あなたは今とても混乱しているのじゃないですか?わたしはあなたのお役には立てませんがでも祈ることは出来ますよ。あなたの問題はすでに私の手から離れているようだし弁護士に依頼して全てを正直に話して法律のプロに助けて貰いなさい。でも、神様はこの出来事を通して必ずあなたを立て直してあげるから失望はしないでね。私も祈っているからね」と結論を先に話しました。

Mさんは「なぜ、こういう状態になったのか、錯乱気味で分からない」と打ち分けました。彼女は営業所長の役職でしたが商品を数百万円をこげつかせてしまいそれが結局は彼女の負債になってしまったそうでした。

彼女は多重債務で数千万円に膨らんでいるとの事で企業からだけではなくて個人からも高利で借金している事を話しもう、支払う事が出来ない状態で親しい友人を保証人に立てているので迷惑をかける訳にいかないのでどうして良いのか分からなくなっているとの事でした。そういう状態になる事を避けさせる為に私は彼女に何度か注意をしたつもりでしたがもうどうすることも出来ません。彼女は自分が消えるしかないところ迄きてしまっていると泣き出してしました。

hanna7「M子さんそう言う考えはサタンの罠だよ。あなたは自分がキャリアウーマンである事を誇っていてそれがサタンを引き込む事になったのを知っていますか?でも、そういう事よりもこれからどうしてこの状況を乗り切るかですよね?」と話してまず、債権者に正直に話して詫びを入れる事にして破産宣告の手続きをする事を事前に連絡して下さい。

弁護士に相談しながら破産宣告の手続きをして自分が楽になる事が先だと話しました。彼女は違法な金融業者からも借金していて恐れていました。20万の負債に対して5日おきに元金と利息の計2万5千円を支払わなければ保証人に迷惑をかけると言うのです。

何回支払ったらチャラになるのか分からないと言うので「それはおかいしから警察に通報するべきじゃないのか」とアドバイスをしましたが彼女は普通の人たちじゃないからと恐怖を訴えたので彼女の為に少し動かないと駄目かなと考えて過去に似たようなことで暴力団まがいの闇金業者とやり合った経験を生かして取引をしました。20万の件はすぐに一件落着でした。

M子さんにこれから本当の人生を大切にしなさいと聖書からの話をしました。この世には何よりも大切なものがある事を確認する事、仕事よりも名声よりもお金よりも恋人よりも自分の人生を選びなさいと話しましたが彼女は何よりも人生を選ぶってどう言うことなのか分からないと言いました。人生は真理の道です。真理に導く力は真理の神様の主イエス・キリストだけです。

多くの人は仕事が人生にとって最も最優先されるべきだと信じて疑わない人がいます。仕事を優先する、その為に家族を犠牲にすることも許されるべきだと思っている人が多いです。でも違います。それはサタンの罠です。サタンの罠は、この世の名誉,財、金銭、物欲を追い求める生き方か逆に怠惰の霊に支配される生き方になってしまいます。それは人生ではありません。M子さんと人生を取り戻せるように一緒に神様に悔い改めて祈りました。

クリスチャンの人生はイエス・キリストなのです。そうすればあなたの人生は花も実もある人生に導かれます。主にある喜びが満たされますようにお祈りしています。聖書に「私は日の下で、もう一つの悪があるのを見た。それは人の上に重くのしかかっている」とあります。神様はこの世に「祝福」と「のろい」を置きました。あなたの心が光に向かって歩まれますようお祈ります。

「神が富と財宝と誉れとを与え、彼の望むもので何一つ欠けたもののない人がいる。しかし、神はこの人がそれを楽しむことを許さず、外国人がそれを楽しむようにされる。これはむなしいことで、それは悪い病だ」伝道の書6:2  


Posted by 金城米子 at 23:38Comments(0)

2011年04月28日

海歩人(うみあちゃあ~)

イエス・キリストは伝道の初期には漁夫を弟子とされました、漁夫たちは一人の船頭のもとに7~8人の組をつくり魚の捕れない日もあったが、その利益は平等に分けられました。また大漁の後は踊りまわって喜んでいました。

漁夫の生活は勇気と忍耐と直感力を必要とし、彼らは激しい気性、熱烈な精神の持ち主でした。イエスは伝道の初期にこのような勇気と熱意に満ちた若者の中から弟子のペテロやヨハネを選びました。アンデレとペテロは兄弟です。

ヤコブとヨハネも兄弟です。マタイは取税人でルカは医者でした。熱心党員のシモンも情熱家で熱心な国粋主義者でした。マルコはバルナバのいとこですが若くして弟子に加えられ伝道の邪魔になるとさえパウロに言われましたが神の恵みは人を造り変えます。後日のマルコは別人のようになって行きました。

バルトロマイについては使徒の名簿に名前が記されているだけで働きは語られていません。しかし、働きがあるなしに関わらず主の弟子は主に覚えられていると言う恵みで十分であり、その事を感謝することです。いずれも12弟子達は激しい気性の持ち主や熱情家でした。教会の初期の頃ですからイエス様はそのような人達を選ばれたのでしょう。

12弟子達の性格は互いに相容れないものがありましたが弟子達は主イエスにあって霊の一致がありました。神は弟子達の人格形成し愛の実践者として立ち上げました。教会に置いては情熱を持って使える者も必要です。

現在は痛みの社会です。痛みを覚えていない人は殆どいないと思います。そのような人々にキリストの憐れみの心でキリストの愛の施しが出来るようなイエスの弟子となれますようにと祈らずにはおれません・・・

主にある全ての教会が良きサマリヤ人の宿となりますようにお祈りします。主のお導きがお一人おひとりの上に豊かに注がれますようにお祈りします。アーメン

「神である主は私に弟子としての舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼び覚まし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる」イザヤ50:4  


Posted by 金城米子 at 10:18Comments(0)神の計画

2011年04月27日

サービスは要らない心を見て!

神の家族と言葉を簡単に私達は相手に押し付けて「何でも話して祈りあうことが必要よ」と言います。正論ですが正論が全て正しいとは限らない事を理解して下さい。私のところには多くのクリスチャンが教会内での悩みを打ち明けるメールが来ます。

人の心はとても微妙でその人の環境や体調にも左右されます。相手の事を大切に思うなら言葉を発するのにも心を用います。私は結構シビアな言葉を吐くと言われますが痛んでいる人には祈ります。その人のためにはどのような接し方をしたら良いのか祈ります。教会の一人一人の為に私は毎日祈りを欠かしません。

祈っていると相手の状況が心に迫ってきます。これは賜物だと言う方もいますが違うと思います。相手を思いやる心があれば適切な言葉と行動がある事が解ります。移動する事を命じた箇所が聖書には幾つかあります。移動すること環境を変えることには人は色々な身体的な負荷がかかります。それだからこそ聖書は移動、転勤、それらが語られているのです。「出るのも入るのも祝福なさる主よ」と祈りがある事でも心理状態に変化があることが解るでしょう。

だからこそ祈りなのですね。妊娠初期から出産や子育て中の女性の身体的な事も女性なら充分理解できます。教会の奉仕や交わりは大切ですが身体的に大変さを抱えている兄弟姉妹には負担になることもあるのです。信仰が弱いと思ってはいけません。どんな些細な事でも出来た事に感謝ですから教会に礼拝に来る事だけでも私達は兄弟姉妹として感謝なのです。自分の考えを押し付けないように気をつけて下さい。生真面目で熱心なクリスチャンに多く見られるタイプですけどね・・・(牧師のお気に入り信徒?)(笑い)

教会を変る事も痛みがあるのです。慣れた環境から慣れない環境へ行く事も痛みなのです。そして、戻ってくるのも痛みがあるのです。どうぞその人たちの心を支えてくださいますように教会のメッセンジャーやリーダーの方々は求道者や信徒にはサービスをしなくても良いのです。心を見て欲しいと思います。

教会で人の言葉が満ちると混乱が起こります。神の御言葉が相手を立ち上げる為に語られて欲しいと思います。私も出来るだけ祈り心で兄弟姉妹との交わりをしようと努力しています。それは、教会生活で錬られた結果論です(笑い)私はどんなに親しくなっても相手の状況を示されても本人から打ち明けない限りは聞きません。祈るだけです。無難な選択であると知っています。

あくまでも聖霊の導きを期待します。無難なのです。自分から動くのではなくて聖霊に導いてもらうことを祈るのです。そうすれば不思議が起こります。心を見て全てが祝福されるようにお祈りするだけでいいのです。

祈られている事は不思議と解るのですよね。霊が受け入れるのですね。(私の為に誰かが祈ってくれている)と解ります。
全ての疲れた人が荷物を降ろせて帰宅出来るような教会であって欲しいと願います。

「謙遜と柔和の限りをつくし、寛容を示し、愛を持って互いに忍び合い平和の絆で結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい」エペソ4:1~3  


Posted by 金城米子 at 13:45Comments(0)

2011年04月27日

屋敷拝み伝道

あるクリスチャンから「今日、家のお祈りがあるけれどおばあちゃんが牧師のお祈りだけでは納得がいかないみたいなので牧師と一緒に来てくれませんか?」との依頼があり訪問しました。主導権は勿論牧師でした。おばあちゃんは全く納得していませんでした。「アメリカの神が沖縄の事が何わかるねえ」でした。

おばあちゃんとの話の中で重箱は要らない事は納得しました。以下、私とおばあちゃんの会話です。私はお年寄りでも名前で呼ぶようにしています。相手の人格を認めている事を理解させる為です。
hanna7
「M子さん。重箱が要らないのはね、この宇宙を初めから造った御天親加那志~のひとり子が宇宙の終わりが来るまでの全世界の人々の為に十字架刑で死んだ訳さ~。だからもう、三枚肉は要らなくなったのよ。クリジシ(肉)はイエス・キリストが代わってくれたのでね。もう、シシカマブクは要らなくなったし餅も今はねヤマト世からアメリカ世としょちゅう変わるからね。神様は餅は受け取らない、食べないさ~。嫡子押し込め(チャッチうしくみ)は人間の事じゃなくて神の一人子のイエス・キリストの事だった訳よ。

M子さん
「あんすみ。(そうなるの)はじみてちちゅるはなしやっさあや。ひるまさぬ話やしが姉さんやうぬ話やちゃあし解たがやあさい」
(初めて聞く珍しい話だけどどうして解ったの?)
嫡子押し込めの話がM子さんの興味を引きました。M子おばあちゃんは、翌日に連絡をくれて屋敷の拝みに対して納得をさせてくれと頼みました。しばらく猶予をお願いしお祈りをしました。沖縄の人はどうしても目に見えるもの象徴的なものを要求します。

祈りました。そうしたら北部のある教会の牧師を訪問して聞きなさいと示されまして訪問しました。そこで私はこれだと言う沖縄人用の屋敷拝みを知りました。

四隅の拝みには紙線香を置くのではなくてぶどう酒をかけて「父なる神・子なるキリスト・聖霊の名によりこの土地と屋敷が聖化された事を宣言する。主イエスの御名によって邪悪な者、全ての諸霊と悪霊に告げる今、この場所から出て行け!」と宣言します。
(玄関にお供え物を置いてお祈りする方式が沖縄の屋敷拝みです。玄関や門に沖縄の人は一目置いていますから)
四つの石を置きます。祭壇に見立てます。赤いぶどう酒をふりかけてパンとぶどう酒の祈りをします。キリストの象徴です。

「創世記35:9-14)
四つの石を置いて祭壇に見立てます。赤いぶどう酒をふりかけながら「神がヤコブの名をイスラエルと変えられ「あなたから多くの民が生まれるので、約束の地を与えよう」と語られ地、ベテルにヤコブは石の柱を立て、その上にぶどう酒を注ぎました。

「ヘブル9:22」
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」
(神が造られた最も良い作品は人間です。神と交わりを持つために造られたので、悪魔は人間が大嫌いです。だから、人間に罪を犯させ、その罪を犯した所にのろいがあり、さばきがあるように仕向けます。しかし、イエス・キリストの血潮はすべての罪を覆い、赦して下さっています。赤いぶどう酒はイエス・キリストの血潮を象徴しています。

レビ記の箇所から御言葉を語り宣言しオリーブオイルを注ぎます。
解放と主に立ち返る祈り。悔い改めの祈りに導く。先祖代々の罪からの解放。地域に置いてなされたすべての偶像崇拝の罪の悔い改めと解放の祈りをします。キリストの血潮によっての贖いと罪の赦しを御言葉で語ります。パンと赤いぶどう酒がキリストを象徴してのお祈りとお供え物です。

マタイ3:1.
「勤勉で怠らず~」
沖縄屋敷拝みでも「手墨学問にある子供たちのための精進の祈りがありますので、御言葉から語ります」

労働する人の祈りもします。創世記から「それゆえあなたは額に汗して糧を得なければならない。(主の祈りの日ごとの糧を与えたまえを解き明かしします。「愛する者たちあなたが魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康でありますように祈ります」第三ヨハネの御言葉です。

この聖書的な屋敷拝みは一時間の時間を要しますから拝みに対して重きを抱いている沖縄人には非常に説得力があり福音に繫がります。私はこのようにノンクリスチャンの依頼で屋敷拝みをしていますがお金がかからないこと一度きりで済むことに安堵感を覚えているとの声が多いです。幻覚幻聴で眠れない人も癒されたと聞きます。

聖書の御言葉に力があるのです。ノンクリスチャンとの接点をこのように持つ方法も神様からの知恵だと確信しております。
体力も時間もお金も要りますが沖縄人への伝道は知恵と忍耐と寛容を要求されます。神様からの知恵を頂いて訪問伝道が祝されますようにお祈り下されば感謝です。

「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、誰にでも惜しげなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」やこぶ1:5  


Posted by 金城米子 at 10:53Comments(0)

2011年04月27日

すべてのものの上にあるキリスト

沖縄拝みのトップは先祖崇拝です。そして日常生活では火の神を通して旧暦毎月の1日と15日が節目の拝みです。
屋敷の拝みは年に3回です。旧暦2月、8月、12月です。問題が起きると12支の干支拝みから沖縄中の拝所巡りになります。

人間生きていると問題がない生活はありません。そのたびに屋敷が荒れているからと屋敷拝みとあっちこっちとこまねずみのように重箱、紙線香を持って日にちを選んで拝み人を上げ奉り「うーさり。あーさり」と言って無いお金をはたいて拝所まわりです。

過去の話です。末子の息子の心臓手術の為に12箇所拝みをしました。ぎなまの山に登らなくてはならないのでどうしても担がなければなりません。私は上のKに弟のTを背負ってくれるように頼み込んで背負ってもらい山に登り拝みをしました。息子のKはずっと不機嫌な様子でそれでも弟を気遣ってくれていまいした。

下山してから私が「お疲れさん」と言うと上の息子は「お母の神様は不便な神様だね。病気の子供のお願いもわざわざ目の前に連れてこないと聞こえないの?解らないの?」と言ったのですが私は他の拝みの依頼人も一緒に連れ立っていたので聞かれないようにするのに必死でした。突然の兄である息子の発言に戸惑いがあって何と答えたらよいのか解らなかったのです。

その言葉はずっと私の胸にとげとなっていました。そして、帰りの車中で息子は「お母が人知を超えたキリストの愛を知る事ができるようになればTの病気やお母の苦難も意味があり希望がある事を知るようになるさあ。本当の神様はお供え物は要らない。紙線香も要らないと却下していると思うけどね・・・」私は無言でした。

キリストが愛の人であることは何となく知ってはいました。神様だとは知りませんでした。息子のKはアルバイトしてアパートの家賃を払い大学生をしていたので居候も抱えながらですから(弟達)(笑い)かなり厳しい生活をしていました。それでも拝みの運転手をしたらお金をあげると言っても聞き入れませんでした。難儀なバイトをするよりは割が良いのにと説得をしても耳を貸さない頑固でした。

沖縄拝みは年から年中ありますが死者を通じての拝みです。拝み人の方法もみんな違います。教えも違います。神様が沢山います。おかしいとは思いませんか?混乱の神を実は崇拝しているのです。死んだ者を通しての拝みが何になるのですか?生きている者の数よりも死んでいる者の数(先祖)が明らかに多いのに拝みをしている者達の心の中には「平安」がありません。

問題が起きると騒ぎ責任転嫁します。真理の神。主イエスは問題は個人の霊的な成長だと教えています。問題が問題なのではなくて平安がなくなり目に見えないもののせいにして拝み不足だと騒ぎ立てる責任転嫁して身内同士がいがみ合う事が問題なのです。

『平安でありなさい』と私達の神様は世の誰がも与えることの出来ない『平安』を与えます。あなたの心のうちを深く探ってあなたが何処にいてもあなたを守りあなたの祈りを満たしてくださいます。どうぞ近くの教会を訪ねて下さいますように・・・

「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべての父なる神は一つです」エペソ4:6  


Posted by 金城米子 at 07:54Comments(0)神の計画

2011年04月26日

スーカー渡いの拝み?

遠い親戚の男性が出張先で突然亡くなったけれど魂を本土から連れ戻さなければならないから「スーカー渡い」の拝みが必要だとどうしたものか悩んでいると聞きました。昔は私の仕事でしたがクリスチャンになったので私には拝みは頼めないと遠慮しながら聞かれました。

私は「大丈夫だよ。拝みは私の専売特許だからね。」と答えました。依頼人の伯母さんは「そうだよ。拝みはHANNA7が神様から任命されているからね。でも、キリストの神は拝みはご法度じゃないの?」と言いながらも安堵しているのが解りました。

時間を合わせて身内の者が30人ほど集まりました。キリスト拝みは重箱は要らない、お供え物はいらないと言う事でいったいどうやってするのか興味しんしんの様子がよく解りました。私は重々しく聖書を開きました。イザヤ書の60:17~22節までをはっきりと大きな声で読み上げました。

ユタ時代にはお経を読み上げましたが聞いている人たちは理解出来ないのにも関わらずに安心します。でも聖書の言葉は標準語のわかる人ならその人なりに言葉通りで理解できます。

「わたしは青銅の代わりに金を運び入れ、鉄の代わりに銀、木の代わりに青銅、石の代わりに鉄を運び入れ、平和をあなたの管理者とし、義をあなたの監督者とする。あなたの国の中の暴虐、あなたの領土のうちの破壊と破滅はもう聞かれない。あなたは、あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼ぼう」「太陽がもうあなたの昼の光とはならず、月の輝きもあなたを照らさず、主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの光栄となる。あなたの太陽はもう沈まず、あなたのつきはかげることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである。あなたの子孫は正しくなりとこしえにその地を所有しよう、彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝、わたしの手で造ったもの。最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強固となる。時が来ればわたし、主がすみやかにそれをする」イザヤ60:17~22

身内の者はとても素晴らしい拝みの祝詞だねでした。意味を知りたいとおば夫婦が聞いたのでイザヤが750年後に人類の救世主イエス・キリストが誕生するのを預言したことから十字架の贖いのゆえに罪赦されて神様との隔たりが取り除かれた事など等を話しました。伯母さん夫婦は「信じるよ。さっきの神様の言葉は心に深く入って来たよ。今日はありがとうね。誰も難儀しないで済んだし不安も解消されたし、ありがとうよ。時々は家に来て神様の話を聞かせてよ」でした。

私は初めから聖書箇所を決めていた訳ではありませんでした。何とか偶像礼拝はやめて欲しい事とイエス様の福音を伝えたかったので心の中で神様に助けを求めていたらイザヤ書の箇所が思いの中に入ってきたのでした。

ウコール依存症の親戚が一日も早くキリスト門中になりますように祈って止みません。主の守りがありますように・・・

「  


Posted by 金城米子 at 22:10Comments(0)

2011年04月26日

あんたは死んでからウコールの中にいたいのか?

クリスチャンのR・M姉妹からの電話です。母親が熱心な拝み依存症です。その事に腹を据えかねた姉妹が母親に話した言葉がおかしかったのです。

R姉妹「母ちゃんは火の神、火の神としょっちゅう言っているけど火の神が何なのさ」
母親 「火の神は魂が入っているんだよ」
R姉妹「じゃあ。母ちゃんは死んでから魂をあのウコールの中に入れられたいの?毎日、アンダ(油)かぶってヒング(汚れ)のウコールの中にいたいわけね。私達クリスチャンはすぐに天国に入るけど天国とウコールの中とどっちがいいの?」
母親 「天国がいいに決まっているさ~」
R姉妹「じゃあ、もうヒッチ~(終始)あま拝み、くま拝みはしないよ。拝みを止めないと灰とヒング(汚れ)のウコールの中に魂を入れられるよ」
母親 「わかったよ。あんたの言う通りにするよ。天国に行きたいからね」

その会話を聞いて私は大笑いをしました。火の神信仰も先祖崇拝も歴史的には200~300年位なのですが短期間で人間は行事が数千年も前からあったように錯覚します。

火の神は元は「父・子・聖霊」を現す三位一体の神信仰から移行して行ったもので今は悪魔に利用されて偶像の支配の中に
あるものなのだと口伝で沖縄拝みを教えられた私は確信しております。しかし、その教えも元を探ればソロモン王時代に偶像崇拝者になった民が真理の神の怒りをかい流浪の民となった者達からの教えと土着宗教と混合宗教になったのではないでしょうかと言えます。何がどうであれ「主イエス・キリスト」を告白しないものは全てまやかしであると私は思います。

私もウコール信仰の人たちには「あなた方の頭の上には燃えている線香がウコールから溢れているのが冠として置かれているよ。私達クリスチャンの頭には金の冠があるさ~。どっちが良いかねえ。灰は罪を意味するんだよ。』線香の火は落ちたらやけどするしね。毎日頭から火の粉が降る生活と毎日ね。頭から天使の歌声が流れて来てルンルン元気で幸せ気分でいるのとどっちが良いねえ。考えてよ」と話しています。

次回は屋敷の拝みの話をしますね。主の導きが豊かにありますように・・・
  


Posted by 金城米子 at 15:14Comments(0)

2011年04月26日

夢をかなえて下さる神

夢がなければ人は生きて行けません。どんな逆境の中にあっても夢がその人を生かせてくれると私は思っています。私は音楽やリズムに合わせて体を動かすことが好きでした。子供の頃の夢はバレエリナーでした。

私の家は子供の夢になど全く関心の無い家だったのでバレエのレッスン料どころか内緒に通うのに必死でした。学校の帰りにはバレエ研究所に行き窓の外からみんなのレッスンを覗き見していました。

その私の真剣さにバレエの先生が教室に入れてくれました。そして、皆と一緒に基本的なレッスンをしてくれました。そのうちにその事が母に知れて母がバレエ研究所に訪ねてきました。私のレッスンの様子を見て母は「hanna7があんなに喜んでいるのを見たことはなかった」と驚いていました。私は笑わない子だったからです。その日を境に母がレッスン料を工面してくれました。

百万人の味方を得たようで嬉しかったです。親が味方になってくれることって子供にとっては神様を味方にしたような力強さを覚えます。ですから私は喜んで明日を生きる事に希望がありました。雨の日も風の日も台風の日にも私はレッスンを休みませんでした。

その間に悲惨な現実が私を襲い登校拒否をする事になりましたがバエレのレッスンは休みませんでした。ある日、本土の法からバレエの偉い先生が着ました。沖縄の生徒のレッスンを見てもらいながら意見を聞いていた私達の先生が私を紹介して踊ってご覧と言われて踊りました。その後に先生が私の家を訪問して私を東京のバレエのクラスに移して欲しいと相談しました。
母は内心では喜んでいたそうですが私がいなくなったら家の仕事や幼い弟妹達の世話人がいなくては困ると考えたそうでした

それで母もすまないと思いながら反対をしたと後になって話していました。結局は父の逆鱗に触れて私は夢を諦めました。私のたくましさは次の夢を探すことです。良いのか悪いのか判断しかねるのですが日舞の教室を見つけて日舞教室へ日参して窓からのぞいていました。その時に荒城の月と後二曲ほどを覚えました。それから数年が立って妹達が琉球舞踊を習いました。送迎は私が担当になりました。

やがて私が琉舞を習う事になりました。一年ほどでやめる事になりましたが楽しかったです。一生踊りで自分の心を表現したいと思うのが私の夢でした。でも、状況に負けて夢は遠くに置いてしまいました。二つ目の夢はウエンlディングを着けたかった事でした。60代になってからはさすがの私もその夢はかなえなられないし馬鹿げていると思っていました。

ところが教会の姉妹からの連絡で2500円で着付け写真、ヘアもメイクすべてが出来るとの事を知ってだまされたつもりで参加しました。ダイエットは成功しませんでしたがそれなりに花嫁になりました。隣にはイエス様がいました。主の花嫁です(笑い)(等身大のイエス様の写真が必要だなあ・・・)私の心の声でした。

三つ目の夢は100歳現役で100歳まで真っ赤なドレスが似合うおばあちゃんになりたい事です。真っ赤なドレスはイエス様の血潮で贖われた私が聖められ癒され続ける人生をイメージしています。召天する時にも真っ赤なドレスを着た写真を飾って欲しい。それが将来の夢です。

二つ目迄の夢はすでにかなえられています。ゴスペルフラダンスを通して神様に礼拝をすることが出来ていますから感謝です。
イエス様の踊り子ですね。賛美フラダンスチームです。

三つ目の夢までは35年あります。35年現役で主を証して賛美して喜んで福音を伝えていければと願っております。孫達の中から牧師や伝道師が出てくれる事、信仰の継承者が出てくれる事が私の最大の夢であり希望です。

あなたには夢はありますか?どうぞ夢を持って下さい。私達の神。主イエス・キリストは必ず夢を実現化させて下さいます。信じて諦めずに祈っていきましょう。

「神はみこころのままにあなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわさせて下さるのです。すべての事を疑わず。つぶやかず行ないなさい。それはあなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子供となり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光りとして輝くためです~」ピリピ2:12~16
  


Posted by 金城米子 at 09:49Comments(0)

2011年04月24日

人に頼らない信仰

私がクリスチャンになって間もなくは教会は異次元の世界でした。見るもの、聞くものが真新しくて、わくわくどきどきでした。そして、聞いた事が無い教会の専門用語には戸惑いを覚えました。ですから誰が自分を受け入れて助けてくれるのかと教会内で親切そうな信徒を物色していました(笑い)

しかし、教会の人はみんな愛想笑いはするものの決して他人を温かく心に受け入れない用心深さと心のガードが堅い事を感じました。聖書についての質問も何をどう聞いて良いのか理解できません。

そんな時に神様の声を聞くデボーションの事が大切だと知り教会の姉妹や牧師に方法を教わり実践しました。しかし、神の声は聞こえず御言葉を通して神の御心が具体的に理解できません。どうしたら良いのか再び姉妹に聞きました。「私は五時間かかった」と答えました。牧師は「忍耐して祈りなさい。求めなさい」でした。

その間に私は悪霊からの攻撃を受けたり誘惑があったりで苦しかったので助けを求めましたが「神様だけにすがりなさい。人じゃないよ。どこまでも自分と神様との絆をしっかりと握る事だからね。神様はすでにあなたの手をしっかり握ってくれているのだから絶対に離さないでいるのよ。」と姉妹達に言われました。

具体的に目に見える形では何もしてくれない教会の牧師や信徒に対して寂しさはありましたが私は私の為にイエス・キリストが十字架で生けにえとなり血を流されたそして神と私の間を隔てていた罪の壁を取り除かれた事を信じて疑っていませんでした。

神の子どもとされた私を父なる神が見はなす訳はありません。キリスト的な祈りも出来ない私は祈りの代わりに聖書の箴言を繰り返し繰り返し朝から晩まで時間の赦す限りトイレの中にいても読み上げていました。悪魔との闘いは電気を消して寝ることも出来ない程に強烈でした。

ある夜、ついに悪霊の正体を見ました。そして無残な敗北を見ました。私の周囲での悪さ、思考に働くことは出来るが私の霊にふれることは決して出来ない事をその時に聖霊によってはっきりと示されました。私は私自身の神への信頼と神が訓練を通して私を用いたいのだと理解でき感謝で満たされました。

「日ごと主を証しなさい。夜ごと主を賛美しなさい」と聖書は教えています。それは誰々さんとしなさいではないのですね。私はいつでもどんな時にも万軍の主が背後から守ってくださっていると確信して何処でも誰にでも主を証しました。お盆のときにも清明祭のときにも重箱の具材からも仏壇の中からも主につながる証しをしました。

祈れない人には『主の祈り』を教えて「神様はあなたの心の内を探って下さるから大丈夫だよ」と言います。それでももっと祈りが出来るようになりたいと言う人には讃美歌集の歌詞を『天のお父様』と呼びかけて読み上げて最後に『イエスのお名前でお祈りします」で充分だからねと教えます。

悪霊は私達の心の傷を利用して働きます。思考を縛ります。でも、私達の背後には「万軍の主がいる」前方には「イエス様が先駆けておられる」その事は事実であり真実なのです。信じるだけです。イエス様だけですよ。人には決して依存しない自分を助
けるのは神様と自分の信仰だけです。信仰的になれというのではありません。聖書を学べとも言いません。

信じるだけでいいのです。私があの苦しかった時に牧師や教会信徒から幼子のように扱われていたら私はいつまでも幼子のままだったでしょうね。成長は神様がしてくれます。でも、私が自分の内側に隠している心の傷がすでに十字架によってすべて無にされた私は神様に愛されるために生まれたんだと信じない限りはいつまでも誰かにすがって誰かを支配して誰かに支配されての生き方になります。

私の最初の牧師は冷静な方でした。でもこころの内側はイエス様だけを信頼しておられることがとてもよく分かりましたよ。決して自分の祈りに力があるからと言う方ではありませんでした。「hanna姉妹僕じゃないですよ。イエス様ですよ。僕はイエス様の御言葉を取り次ぐだけの働きです。僕には何も聞くことは無いですよ」と仰っていました。正直言って物足りなさを感じました。

だからこそ私は聖書の世界に没頭しました。没頭していると牧師に言いましたら「没頭するのは良いけど実践することですね。御言葉を引き出して御言葉を自分の生活に組み入れて行くことですよ。文字は人を殺す。愛は自我に死に人を生かすです。活字馬鹿にならないように・・・」と指示されました。

今は亡き牧師の教えが走馬灯のように私の中を駈け巡っています。人依存症はやっかいです。牧師を高慢にします。「謙遜の中にある高慢が一番恐い」と話されていたM牧師の言葉の意味が最近になって分かるようになりました。私も他人から特別な存在に思われたりしますが私はその事についてはM牧師のように無視しています。

イエス様以外には人の心の闇を取り除く神様はいません。「見よ。世の罪を取り除く神の子羊」(ヨハネ1:29)の御言葉をデボーションして下さい。私はM牧師に100回新約聖書を読んだらイエス様やイエス様の伝えたい事が解ると言われて50回ほど読んだときに「先生。読みました」と言いましたら「それで何が解りましたか?」と聞かれて『イエス様です』と返事しましたら牧師は「アーメン」とだけ言いました。

いま、戸惑いの中にある方に伝えたいのは人に依存するのではなくてイエス様にだけ依存してください。「苦しみに合ったことは私にとって幸いでした」と言える時が必ず来ます。「立ち直ったら兄弟を助けなさい」とイエス様は「イエスを知らない」と言ったペテロを憐れんでかえり見られました。ペテロでさえ信仰が揺らいだこともありました。私達に内在する聖霊は私達の信仰がなくならないようにとりなしの祈りを時にはうめきを持ってして下さっています。


「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」ヨハネ11:25  


Posted by 金城米子 at 08:10Comments(0)

2011年04月14日

天から降って来るもの

東北の震災から一ヶ月が過ぎました。厳しい寒さの中で着のみ着のままで飢えと渇きに忍耐しておられる事を思いますと何一つ力を発揮できない自分が情けなく思います。本当に申し訳なく思います。震災にあわれた皆様のご無事とご健康を祈り不本意ながらも天に召された方々のご冥福を心から哀悼の意をもってお祈りします。高齢の方の自殺者が出たとニュースで知りました。心が張り裂けそうな痛みを覚えます。

日本中が世界が今、日本の為に心を合わせて祈っております。人間社会において、本当に大切なのは心の一致をもって互いに愛しあい助け合って生きて行くことのように思わされております。平凡な暮らしの中では平凡な事がどれほど幸いな事か私達は自我のゆえに忘れがちです。すべての事に感謝して生きることがなかなかできない者です。

今は、被災に合われた多くの方々が絶望的と思っているかも知れませんが「朝が来ない夜はない」と言う言葉もあります。
生きてさえいれば必ず希望はあります。決して失望に終わる事はありません。「天から降って来るものは災いだけではない」と言ってくれた仲間がいます。天は人間の領域では計り知れないほどの大きな喜びもギフトもあなたが希望を捨てなければ必ず準備していてくれているのです。

私も母親の嘆きの中で出生し間引きと言う形で危うく殺されかけた経験がありました。命を救われたのは祖祖母の祈りでした。まだ見ぬシングルマザーの赤ちゃんのために祖祖母だけは未来を信じて世間の心無い人たちの噂には耳を貸さずに未来を祈ったのです。

皆様の経験に比べたら小さな悲しみかも知れませんがどんな時にも私達の人生には必ず希望があると言う事を受け入れて生きてほしいのです。そのために「日本の国民が心を一致しなさい」と天からの声が聞こえるような気がしております。助けてほしい事をはっきりと主張し続けて下さい。「求めなさい。そうすれば与えられます」マタイ7章。求めれば必ず与えられます。

私はどんな時にも必ず天が味方してくれると信じて逆境を乗り越えて来ました。暗闇ではどんな小さな光でもはっきりと見えます。必ず光はあなたの近くに見えます。究極な場面でこそ神との出会いがあります。私ももうだめだと思った時に天使の歌声を聞きました。天からの助けがありました。

信じた時にあなたは暗闇から全くの光の世界に移されます。信じて生きて下さいますようにお祈りしています。

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変らぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かないとあなたを憐れむ主は仰せられる」イザヤ54:10
  


Posted by 金城米子 at 08:34Comments(0)神の計画

2011年04月12日

人間社会の中でだけ生きる事って閉鎖的になる?

これまで人間関係修復の話題が多かったけれどここで神様が造られた動物と人間との関係を証したいと思います。過去に私が育った境遇が劣悪だったのに何故両親を赦せたのか人を愛せるのかとの質問に答えたいと思います。神様がどれだけ憐れみと慈しみとを持って人を導かれているか理解して欲しいと思います。

それは、私は体が弱かったので遊び相手が捨て犬だったのです。その犬とは私が那覇に出たときに別れました。そして小学校一年生の頃には警察犬を落第した犬が我が家に来ました。ジョンと言う名前をつけました。

ジョンとの六年間で私は互いの愛情交換が充分に出来たと思います。ジョンは心無い伯父達に食べられてしまいましたが・・・愛する者との悲惨な別れを経験しました。大人たちの身勝手さも経験しました。

赦せないと思っても赦さなければ私は子どもだから何処へも行き場が無いので我慢するしか有りませんでした。伯父たちとは同居でしたから・・・

しばらくして捨て犬で虐待されていて体中傷ついておできなっている犬との出会いがありました。その犬を飼う事を家族は猛反対しました。一生懸命に犬の傷の手当てをしていると伯父や母が手当ての仕方を教えてくれて手伝うようになりました。毛も生えて来て元気になりました。でもよっぽどいじめられていたらしく他の人にはなついてくれませんでした。

犬はジミーと言う名前をつけました。ジミーとは二年くらいの生活でした。病気だったのでしょう。突然嘔吐してしばらくして死んでしまいました。その後も捨て犬との生活は数年間続きましたが引越しが多くて犬は手離さなければならない事情で仕方なく他人にゆずりました。それからは私の寂しさを満たしてくれた犬達の出会いは数年間途絶えました。

結婚前には警察犬を卒業した老犬が我が家に来ました。とても賢い犬でしたが家族が大阪へ引き上げる事になり犬の「ハンコー」は私をシングルマザーにした男性に引き取られました。私は結婚してから再び捨てられた子犬が我が家の前に住み着くようになり子犬を飼いました。主人の親戚に囲まれての生活でしたので全員に猛反対されて結局は手離しました。

現在は、「もも」「ラブ」「ラッキー」の三匹がいます。この三匹は姉弟です。去年の七月25日に生まれました。三匹を引き取る決心をしたのは犬の誕生日が四番目の息子と同じ日だったからでした。なんか縁があるような気がしたのです。(笑い)そういうことで家族に理解して貰おうと思ったずるい考えでした。柴犬と小型の白犬との愛の子(?)です。

三匹とも性格も体力も違います。かわいいですよ。犬は世話をする事でセラピーになります。クリスチャンの中には動物セラピーを不信仰と思う方もいますけれど動物も人間にとって必要だから造られたのです。森の中で暮らしている動物はノイローゼはありません。群れから離されても緑に囲まれた森林のかげに身を置き他の動物との関わりを持ったりします。

人間には言葉と言うコミニュケーションの手段があります。人の言葉は互いを知ることに置いては大切です。しかし、人はその言葉で傷つけ合っているのにも関わらず傷つけている方は気付きがなく傷つけられている方は心が萎えてしまいます。

そこには癒しはありません。人間関係には癒しを見つけることはなかなか出来ません。心の内側では優劣関係を払拭する事は出来ないからです。他人からの受け売りの先入観で人を判断してしまうからです。

自分の中に差別や偏見の測り縄がある事を認めているけれど信じていない聖職者たちや職業宗教者にこのような神の教えとはかけ離れた心のあることを知ろうともしないのは寂しい限りです。

動物(特に飼い犬)は信頼関係ができると何処までも主人に付きます。我が家の犬達は散歩の途中には何度も立ち止まり飼い主の存在を確かめます。子犬との関係で私が自分が沢山の癒しを神様から貰っているのを感じます。

神様は人間に仕事ばかりじゃいけないよ。人間だけとのお付き合いじゃいけないよ。機械だけと向き合ちゃあいけないよ。と言う事で動物を造り、緑や海や川などの大自然を創造されたのですね。

私には女の子は与えられなかったけれど「もも」と「ラブ」の二人?がいるので神様に感謝しています。世話をする事は忍耐も寛容さも必要ですが臭さも我慢しなければいけないけれど生きている証しだと赦せています(笑い)

知っていますか?刑務所の囚人に捨て犬や虐待されていた犬の世話としつけの訓練をさせる事によって囚人達が人格形成されていき再犯が無くなったという話です。人間には心の闇に触れることが出来ないけれど神様は弱っている犬を通して囚人たち自身の中にある弱さや傷を癒しているのでしょう。

私の歩みの中にも世話を必要とする犬がいた事は神様からのギフトだったのでしょうと振り返って感謝しています。  


Posted by 金城米子 at 12:18Comments(0)

2011年04月11日

弱者の中にある強さ

「弱者ほど強い者はいないよなあ」と言った遠方の友人のKさんがいます。どう言うことか私の中での体験から思い起こされたことを話します。弱者の息子から考えますと息子は自分では何も出来ないので自分の代わりにどうしても近くの人を動かさなければなりません。食事、水を飲むこと、オムツの交換など等です。

息子が側にいるときにはどうしても先回りして身の回りのことをしなければ気になって何も出来ません。彼が不愉快そうに奇声を発すればすぐに対応しなければ私自身の心に(人でなし。愛がない。偽善者)と言う思いが導入されて痛みが起こります。何はさておいても息子の要望を優先します。

「お前は凄いよなあ。いとも簡単に人の良心に介入して人を動かすからね」諦めと苦笑いをしながら息子の世話をします。友人のKさんも弱者は健常者を巻き込むのが上手いとそれらしい話をしました。納得です。そして、弱者こそ人の心の内にある邪悪なものを引き出させる事をいとも簡単に出来る存在であります。

息子の世話をしている時に(もう、限界だなあ・・・施設に入所を考える時期かなあ・・・)との心の声に息子の声が聞こえます。
「ごめんね」と。その度に驚かされますが同時に私の心に癒しが入って来ますから不思議を感じます。これも神様のギフトなのでしょうか。解りませんが楽ではない全面介護の息子との27年間の歩みは私には無かった忍耐と寛容が養われましたからやはり息子は神様からのギフトであり目に見える天使なのでしょうね。私の霊魂を救い訓練するための御使いとの共働者なのかも知れませんね。

次女の妹が過去に「愛情の深い者の元に神様は障がい者を贈るのよ。それは神様の選びだよ」と言ってくれた事がありました。
その一言はその後の私の人生において心の支えとなりました。本当に弱者との関わりは自分がどれほど惨めで浅はかな者で実は自分は何も持ってはいない者なんだと悟らせてくれます。

ですから精神に問題がある方々、心にいろんな戸惑いがあって自身を失っておられる方々、すぐにパニック障がいの方々、障がいを抱えている方々は神様の御使いと共にこの世の本当の病を持っていても自覚できない人々のために働きをしている事を理解して神様に愛されている事を感謝して下さい。

断言します。神様の御心を知るには机上での学びでは与えられません。聖書研究の中では下手すると霊的高慢者になりかねません。苦痛の中でこそ神様の御心を知ることが出来るのです。パウロもそうでした。ペテロや12弟子たちもそうでした。患難と苦痛の中でイエス様の御わざをが12弟子たちを通されて実現しました。痛みを伴わない霊的成長はありません。長年間、トップの座に君臨していれば弱者の痛みは理解できません。

神様の十字架の杭を固く打ち立てて行くことも出来ません。組織を守る為、自分の地位の安泰と権威ある地位を血縁者に受け継ぐ為にまい進してしまいます。組織の権威者が議会において議案の審議の前に「私はこう思いますが皆さんはどう思いますか?」と先に発言されたら誰も本音で意見が出来なくなると言う話を耳にした事があります。

健常者や偉い人って本音では生きていけない者なんだと思いました。私自身が持病を持っていますので自分を偽って生きても意味がないことを痛感しています。自分に与えられた時間はそう長くは無いことを充分理解していますので神様がどれだけの時間を与えられるのかは分かりませんが残された時間や力のすべてをイエス様の福音を伝える事にだけ時間を使いたいと熱心に実践しています。一日に五時間は福音や聖書を語りたいと思っています。

もし、私が経済と健康に充分に恵まれていましたら恐らく神様の為に使う時間も適当に決め、趣味の時間や世的な快楽の時間区分を作っていたかも知れません。そして信仰から遠のいているにも関わらず「クリスチャンでございます」と天狗になっていたかもしれません。自分の弱さを知る事によって私達は強くされるのです。その事を感謝できる者となりましょう。

「私達力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせてはなりません」ローマ15:1  


Posted by 金城米子 at 10:47Comments(0)

2011年04月10日

祈りの輪の中に身をおく大切さ

日曜日ごとの礼拝は一週間のうちの一日の休日ですからとても大変さを感じる方々が多いと思います。私も一時期は休んでも良いのでは神様は分かってくれるからと自分に都合の良い神様をつくりあげていました。礼拝は神様からの祝福ですが大切なことは教会は「祈りの家」と聖書でイエス様がはっきり仰っています。

教会が他人の集まりで煩わしいと思う方もいるかも知れません。精神的に他人との時間を共有する事が苦手な人もいます。
私もあまり信徒との交わりは苦手でした。私のバックグランドを見て内心では私の失敗を喜ぶ人の多いイエス様の弟子達が多かったですからね。

子どもの頃から人の心の中の声が勝手に導入される事が多かったので人間嫌いところがあったのは事実でしたが同じ神を愛する群れの中に自分の居場所が見つからない事こそ痛みが深いです。私に何が出来るか。私の言動をどうなのか。逐一測りにかけられているような思いがありました。

教会での礼拝を神様に免除して欲しいと願い出ました。「あなたの弟子たちは私について信仰を測ったり、噂話を喜んで受け入れてそれで私を罪と認めて裁きの場所に私を引き出しています。ですから家で一人での礼拝をさせて下さい」と懇願しました。

イエス様は「祈りの中に身を置きなさい。あなたが狼に襲われないためだ」とだけ言います。イエス様の話されている事が理解できませんでした。「愛と慈しみ」の神様なのに私の願いを退けるなんてと思いましたが従うほかありません。羊同士の小競り合いでは羊は死ぬことはありません。神様が見張っておられるからです。

私達はよからぬ思いを持った時、他人を傷つけた時、偏見、差別の心で他人を扱った時に神様は痛みを覚えさせます。それを一般の人は良心の呵責と言い反省はしますが何度も同じ過ちを犯しますがついにはなれっこになり、ポーカーフェイスを貫きます。表と裏の生き方ですね。

クリスチャンは必ずいつかは、悔い改める日が来ます。聖霊はいつまでも罪の中にクリスチャンを置きません。痛い砕きが必ずあります。そこで真の悔い改めがあります。ですからクリスチャンは忍耐して待ちます。子どものように泣きながら叫びながらも神を信頼して待ちます。そして霊的成長が忍耐と祈りの中で導かれるのを実感します。

赦せないと思った人を赦せるようになり、苦手で嫌いな人も愛せるようになりますし、自分が座る席でも不便な席に喜んで自分が座って他の人に上等の席を譲る事が出来るようになります。私がそうでした。真ん中の席は苦手でしたが進んで真ん中に座れるようになりました。

祈りの輪の中にいることは心が整えられていくことなのです。あなた方の祈りも聖別されて神に聞き入れてもらえる事なのです。苦てとする事の一つには自分が知らない忘れてしまっていても闇の部分で蓄えられている心の傷が絡んでいる場合もあります。それらは祈りの輪の中に身を置くしかないのです。

教会礼拝であなた自身が聖別され聖化されたあなたがたが帰宅すると教会に行けてない家族が聖別されます。職場も聖別されます。あなたがたを通してです。祈りも奪い去られる事はありません。聖化された者の祈りは誰も奪い去る事は出来ません。

人を見ればみんな不完全な者です。それでも神は神ご自身を愛する者を愛します。神を愛する事は子どもの信仰です。親に叱られても体罰をうけても泣きながら親にすがっていく姿です。家から追い出されたらどうしよう。「お父さん、お母さん、家に入れて」と泣き叫ぶ子どものように何があってもどんな状況に陥っても家出をしない、他の家族の親のほうが良いのにと比べない子どもでいる事です。

あなたは何処に植えられましたか?植えられた場所があなたの場所です。神様が植え替えをされるまでは実家に留まって実家
の家族を愛して下さい。祈りの家である教会へ足を運んで神様の御声を聞いて下さいますように・・・
皆様に神様の豊かな祝福と導きがありますようにお祈りします。

「わたしの家(教会)は祈りの家と呼ばれる」マタイ21:13

「わたしはかれらをわたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家はすべての民の祈りの家と呼ばれるからだ」イザヤ56:7  


Posted by 金城米子 at 08:42Comments(0)

2011年04月09日

何が何でもの信仰

子どもの頃から気管支喘息のあった私でしたが大人になってから改善されていたのが40歳を境に再び発病しました。気温や空気の変化に過敏に反応したり環境の変化や感情の高揚ても発作が起こりました。死ぬまでこの喘息とのお付き合いかなあと半ば諦めていました。病気と仲良く付き合う方法を自然に選んでいました。

クリスチャンになってからはしばらくは体調も整えられつつありました。ある日の夕暮れに突然喘息の発作が起こりました。救急車を呼ぶ寸前でしたが祈祷会に出かける所だったので教会へ行きました。病院よりも教会を選んだのです。教会に着いて20分くらいしてから喘息発作がなくなりました。月に2~3回は病院での入院だったのにそれ以来私は喘息発作は起こりません。

バプテスマを受ける前は耳の難聴がありました。右は難聴左耳は全く聞こえませんでした。生後すぐに入浴の時におぼれさせたのが原因で内耳炎になり年中耳から血の混じった膿が出たりで難聴になっていました。左耳は10歳の頃に父親のビンタを受けて鼓膜が破れました。それが原因で学校ではいじめにあっていました。「みんかーネーコ」(つんぼのねーこ」があだなでした。

バプテスマを受ける前に水に全身はいる事を知ったときに耳のことが気になりました。耳の為に水泳はした事が無かったかでした。でも、勢ぎよしとして神に任せようと覚悟して水に入りました。三日間は、血の混じった膿がこれでもかと言うくらいに出ました。不安はありませんでした。それから耳が癒されて聞こえるようになたのです。これは、私がクリスチャンになった最初の神様からのギフトでした。

「わたしを癒して下さい主よ。そうすれば私は癒えましょう。私をお救い下さい。そうすれば、私は救われます。あなたこそ、私の賛美だからです。」エレミヤ17:14

私はこの御言葉で癒される事を確信して祈っていました。現在もそうしています。御言葉への確信こそ神の御手が働かれるからです。御手は力です。御言葉は信仰の確認でもあります。うつで悩んでいるか方々もこの御言葉で祈って下さい。

教会に来るメリットは祈りが悪しき者(悪霊)に邪魔されないことです。取り上げられないことです。教会を通して神は終わりの日に私達に報いてくださるです。二人の御使いによって教会で名前が帳簿に確認される幻を見た経験があります。それからは教会礼拝の意味を考えるようになりました。

主の祝福と導きが豊にありますように・・・

  


Posted by 金城米子 at 14:23Comments(0)

2011年04月08日

本当に大切な事は一つ

最近になってからクリスチャンからの問い合わせが増えている事です。同祖論やユダヤ教から沖縄行事の事に関連しての事です。教会に違う教えが入ってきた時に使徒たちはどうしたでしょうか?伝道のきっかけや導入方法としての策や技術にこだわりすぎてベビークリスチャンや信仰の弱い人をつまずかせてはいけません。聖書は何と言っているでしょうか?

私は沖縄拝みの中からクリスチャンに変えられた者です。要するに闇から光りの世界へ移された者ですから断言します。ユダヤ教もイスラム教も一神教ですがキリストは臨在していません。キリストが臨在していれば争いは起こりません。沖縄拝みや習慣が似ていてもそこにもキリストは臨在していません。

人類学を少しかじれば宗教に関しては非常に似かよった儀式や祝詞があります。でも、イエス・キリストをはっきり告白していない教えはすべて闇の力です。宗教行事が似ていてもキリストが臨在していなければまやかしです。

私は拝みをしていましたがある時に「あなたは真理を外れている。真理の神を見い出しなさい。霊と真をもって主を礼拝せよ」と声が心に入ってきました。本当に大切な真理の神を見つけ出さなくてはならない。「神の隠された義」とは何だろうか?と浜比嘉島などいろいろと歩き回って探しまくりました。神場にあると思い込んでいたからでした。

沖縄行事がキリスト教からのものであったなら神が認めておられるのなら何故あの頃にその因習行事を通してイエス・キリストの事を語らなかったのでしょうか?それどころか教会やイエス・キリストを否定していました。イエスを信じると真似かたをすると「あなたがたの身内からキリストのような残虐な死に方をする人出る」とか神の子と恐れ多い事を言って祭司たちを戒めた為に神殿侮辱罪となって十字架刑になったと私は言語道断していました。

そのように私達が神として拝んでいるものは、はっきりと断言していました。邪悪な者、サタンは非常に巧妙で策略な者です。
ありとあらゆる手段を持ってキリストから教会からクリスチャンの群れから私達を遠ざけます。私自身も毎日、戦いの中にいます。高慢の根が出るとサタンは静かに忍び寄って来ます。

本当に大切な事は一つです。十字架の真理です。恵みと真理は切り離せません。真理は十字架の贖いを信じなければ天国へは誰一人として行けないのです。神と私達とを遠ざけていた罪の隔ての壁を取り除く為に聖であられるイエス・キリストの血肉を犠牲として天地創造主は受け入れられたのです。

天地創造主が人類の罪の贖い主として受け入れられるのは罪のない神の子、マリアを通して降誕なされたイエス・キリストだけです。それはこの世を愛された神のご計画でした。天国のカギはイエスの十字架だけです。よみのカギもイエスの十字架です。沖縄拝みで私は幼い時に龍神に「天国のカギ(黄金サーシ)。よみのカギ(銀のなんざサーシ)。この世の人類のカギの子、世界盤のカギ)を渡された子として拝み所でサタンとの契約を交わされていた子でした。

でも、私の歩みは悲惨で愛を知らない人生街道まっしぐらでした。末子の障がいをもった息子がきっかけで私は目が開かされていきました。光の世界へ移されてはじめて知ったのはこの世の中がどれだけまやかしの世界、惑わしの世界で満ち溢れているのかがはっきり理解できたことでした。正に目からうろこ状態でした。

サタンは人に快い言葉で誘惑します。「あなたが一番偉い。出来る」と自尊心を満足させます。人間の欲望は罪ではないと生活意欲だと言います。罪の意識を失せさせます。火の神信仰もその一つです。結婚や子どもの誕生と同時に各家庭に仕立てられる火の神信仰です。御みちむん(御未知門)とも呼ばれています。生きている間は人間が見ることも出来ない未知の世界への門(御通し場)と言う意味合いで呼ばれる台所に置く香炉の事です。

皆さん。古いものは過ぎ去ったと聖書にあるように私達は聖書を通して神の御心を知ることが出来るのです。イエス・キリストを告白しない宗教は行事はみな偽者です。第三御国の天の父神がいるように第二御国の偽の父神がいます。私は両方を知っています。終わりの世にキリストは再臨します。私達は再臨信仰です。

希望はイエス・キリストの再臨です。語るのも十字架のイエス。見上げるのも十字架のイエス。希望は復活のイエスにあり、再臨は私達キリスト者の信仰です。新しい違う教えにも惑わされないように気を付けて下さい。

「もし、私達がこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私達は、すべての人の中で一番哀れな者です」
「すなわちアダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」
「しかし、おのおのにその順番があります。まず、初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。」
「それから(世の)終わりが来ます。その時、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、あらゆる権力をほろぼし、国を父なる神にお渡しになります」
「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです」第一コリント15:19~25

第一コリント15章を拝読して熟知してくださいますように・・・お祈りしています。

  


Posted by 金城米子 at 19:18Comments(0)

2011年04月08日

勇気がなければ信頼も出来ない

今年27歳を迎えようとしている障がい者の息子の上に常に神の隣在を見ている私ですが何と戸惑うことの多い事でしょう。私の信仰生活で人生の前半と後半の神は違いますが教会生活を通してでなければ神の御思いも知る事が出来なかった、奇跡を見る事も真の喜びを知る事もなかったと実感しています。息子の事も含めて多くの奇跡を体験しているものの人間社会の栄えに目を惑わされ他者の言動に過剰反応してしまい戸惑うばかりの日々です。

「信仰はどうした?」といつも自問自答している自分がいます。失敗を重ねてもそれでも神に愛されている事を霊と魂が知っていますから平安です。勇気を出して世の誘惑との戦い、霊的戦いはクリアしています。霊的戦いは幽霊とかの戦いではなくて自分の想念との戦いです。罪を犯しやすい本質との戦いです。

例えばどんな時にも神に信頼する心です。誘惑に負けない心。人の言動に左右されない心。怒らない心。これらは御霊の実の「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の最後の自制です。自制の中に神の御声を聞く力がより多く与えられます。愛されるよりは愛する事を望む。神に依拠し神の御言葉に従うのです。それらは勇気が無ければ実践できません。

医学用語では多重人格ですがキリスト的には悪霊のわざともいいます。そのような事で苦しんでいる方がいました。突然人格が入れ替わって別人になって暴れたり、深夜に出歩いたり、見ず知らずの男性と一夜を過ごしてしまう女性もいました。でも、記憶がありません。

その方々に共通する事がありました。幼い頃の親との関係です。親との関係で愛と信頼を築けなかった事です。愛を学習していなかったのです。結婚して夫や子供を愛していても愛し方が分らない、愛を与えるべき子供にまで「私を愛しているか」と求めてしまうのです。だから子供が言う事を聞かないとパニックになってしまい暴力をふるってしまうのです。夫が自分を理解してくれない族になってしまいます。疎外感は人格を変えてしまいます。自傷行為、自虐的行為、暴力行為などです。

私も自分自身が親の虐待を受けていた経験から結婚生活では戸惑いがありました。子供が生まれた直後に夫から突き放されたような疎外感を感じました。夫は赤ちゃんがいるから母親になった私は黙って赤ちゃんと留守番役になるのが当然と言っていました。私が母親になった事で子供の世話で余計な事は考えないし出来ない、夫が家にいなくても不満など持たないと本気で思ったようで私は子供と一緒に捨てられたような悪夢の日々が始まりました。

私のほうがハグして支えて欲しいと願っていたのに「お前は母親だろう」で押し切られてしまいました。私の心は落ち込んで行くばかりでした。子供が生後三ヶ月してから日曜日ごとに夫の行きそうな場所を探して歩いていました。泣いてばかりいる子供と二人だけで家にいると気が狂いそうでした。体中が痛くなるのです。

夫の助けが欲しくて子供を抱いて那覇市内の遊技場で夫を探し回りました。みじめさも分らないほどでしたが私の姿を見て遊技場の従業員が同情しました。元暴力団だったのを親にお金を出して貰い自分の指を差し出して暴力団から抜け出たDさんと言う男性でした。

そのDさんが私達母子に痛く同情して「ミルクや子供の服と自分の服や履物を買いなさい」と会う度に小金をくれました。私はゴムぞうりで街中を歩いていたからです。「いつでも困った時は俺を訪ねて来い」と言ってくれました。私は夫には貰えなかった助けを周囲の人に貰いながら子供たちを育てて来たように思います。

パニック障害にならなかったのも気が変にならなかったのもきわどい所で他人の助けがあったのです。息子が少し大きくなって那覇市場を歩いている時にDさんに出会いました。Dさんは嬉しそうに「こいつがあの時の子か?いい面がまえしているなあ。この子は勇気があって心の優しい金太郎になるぞ。いや、桃太郎のようになってお母さん孝行になる顔しているぞ」と息子を抱き上げました。ご飯をおごってくれて帰りには「俺のような人間には絶対にするな。親の愛情を感じたら絶対に悪人にはならんからなあ。あんたなら大丈夫だ。良いお母さんをしているようだから」と言って励ましてくれ別れました。


聖書にモーゼの事が記されています。モーゼは80歳になってからエジプトの地にいるイスラエルの民を救い出すために神の召しを受けました。最初はモーぜは出来ない、荷が重過ぎると断ります。口下手を理由にしました。神はアロンを助け人としてつけました。そして神はモーゼに一本の杖を与えます。一本の杖と兄のアロンとでおおよそ二百万人とも言われる民をエジプトから救い出せと神は言われたのです。モーゼはついに従う決心をしました。

従った時にモーゼの杖は多くの奇跡を導き出しました。モーゼがどんな時にも勇気を持って神を信頼したからです。信仰の基は勇気です。どの宗教にも勇気に関する言葉が多くあります。「勇猛心をもって事にあたる」仏教にもそのような教えがあります。

エジプト王と強力な軍隊を敵にして200万人の民を杖一本を持って救い出しに行くのには勇気が必要でした。しかし、モーゼは人類史上例を見る事が無い神の奇跡をもってイスラエルの民を大海を二つに割って救い出し荒野で40年間も統率し養いました。神はモーゼの信仰によって「とりなしの祈り」を聞きいれて水を与え食物を与え衣服も与え不自由させませんでした。

アロンは神の怒りをかって滅ぼされようとしているイスラエルの民と神の間に入りました。火皿をもって神と民の間に入る事は命をかけて神にとりなしをすることですから勇気が必要でした。神はアロンの勇気ある行動を受け入れました。

私達の生活は多くの物を握っています。荒野でさそりや毒蛇や狼に襲われる心配はないのにもかかわらず少しの不足にも不平不満や恐れや神を疑う心が湧き上がります。最近はパニック障害と言う言葉を耳にするようになりました。モーゼの杖は比喩的には神様への「信仰と希望と愛」です。それらを貫徹するには「勇気」が必要です

神の国と神の義を求めるにも勇気が必要です。あなたが幻覚や幻聴、不安や戸惑いから解放されたい自由になりたいと望むならどうぞ勇気をもって神様のふところに飛び込んでくださいますようにお祈りしています。この世にあるもの目に見えるものには依存しないで見えない神に勇気を持って信頼して下さい。その時に神はあなたのすべての必要を満たされます。

私はどんな時にでも神の隣在を感じます。でも、神の御心を行えません。したくないと思っている罪を犯しています。それでも神は私が神を愛し覚えていて御名を呼び続ける事で憐れみと慈しみで満たして下っています。日々新しく軌道修正をしてくださる真理の神イエス・キリスト。十字架の意味するものは私達の罪を取り去り、赦し、神との正しい関係に導いて下さる約束なのです。私達は信じるだけで良いのです。何一つ努力する必要はありません。頑張る力も気力もすべてはその時に応じて神が与えます。
『応じて牧会』あなたの必要に応えられる神、それがイエスキリストです。勇気を持って教会のドアを入って下さいますように・・・主の導きが豊かにありますようにお祈りします。

「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強いものをはずかしめるためにこの世の弱い者を選ばれたのです」第一コリント1:26~27

「また、この世の取るに足りない者や見下されている者を神は選ばれました。すなわち、あるものをないもののようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは誰も神の御前で誰に誇らせないためです」第一コリント1:28~29  


Posted by 金城米子 at 10:02Comments(0)

2011年04月01日

恐れるな。わたしはあなたと共にいる

電気を消したら恐くて眠れない。一人では眠れない。霊の声が聞こえて不安である。押さえようと思っても押さえ切れない怒りの感情。不安で突然暴れだしたくなる。等の事を訴えてくる兄弟姉妹がどれだけ多くいる事でしょうか?その兄弟姉妹に御言葉を贈ります。御言葉を確信して14年間の統合失調症が癒されて仕事の復帰をした兄弟姉妹が多くいます。

祈りが出来なくても分からなくても大丈夫です。私は祈れない人の20人近くの方に賛美歌の歌詞を最初に「天のお父様」と呼びかけて一番から最後までの歌詞をずっと読み上げて最後に「イエス様の御名でお祈りします」と言うだけでお祈りになっているからと教えました。「賛美歌は曲をつけるから歌になるのであってそのまま読み上げたら素晴らしいお祈りの言葉になるのですよ。だから大丈夫です。

後は「主の祈り」を祈ればあなたの心を探って下さる私達の神様、イエス・キリストは万事を益に変えてくださいますから。人に頼らないであなた自身の祈りにイエス様が答えられる事を確信して下さいね。」と教えています。

私達の神様は全知全能の神様ですから詳しく自分自身の事を激しく訴えなくても大丈夫です。ただ、幼い子供が父親を慕って「パパ、パパ」と呼びかけてくる子供を愛おしく思い手を差し伸べるのと同じようにあなたがたが『天のお父様』と信頼して呼びかける言葉を聞かれますからね。

神のはしためからの伝言です。願わくばイエスの弟子と確信されている先生方にお願いします。教会の信徒リーダーを育てて下さいますように・・・メッセンジャーはメッセージに命をかけます。信徒リーダーは羊を守る柵の役割です。触れるだけで神の愛を感じるようなクッションのある柵です。

私は本土から現実逃避の目的で沖縄に来た大学生を拾って5ヶ月ほど我が家で世話をした経験がありますがその学生が両親との和解をして帰宅した時に質問しました。「クリスチャンを何に例えますか」とそしたら彼は「竹」と答えました。「竹は折り曲げられても手を離せばすぐにピンと元のように立ち直る。しなやかな強さがあるのにその強さを誇らないで柔和です。節があるように節目を大切に礼儀に反しません。貧しくても問題を抱えていても明るいです。うらやましいです」と答えました。

両親の元へ帰った後に母親と一緒に教会へ行っていると連絡がありました。私は彼に「教会に行けたんだから私の事は忘れなさい。思い出さなくて良いから」と強く言い聞かせました。私が3年目のクリスチャンでめちゃくちゃイエス様に燃えている時でしたからね(笑い)私がしている事はすべてがイエス様が先駆けてして下さっていると言う信仰でしたから何があっても笑顔で凛として歩んでいました。その姿勢が高慢に見られて妬みと裁きの的になったのですけどね(笑い)悔い改めています。

恐れの中にある兄弟姉妹に宣言します。「何をどうしなさい」と言う事はありません。あなたの弱さを神様が一番ご存知ですからね。御言葉を口にするだけでアーメンです。賛美を唱えるだけでハレルヤ(主の栄光)です。

「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ全能の神の陰に宿る人よ。主に申し上げよ。『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方」と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から。神は羽をもってあなたを覆い翼の下にかばってくださる。神のまことは大盾、小盾。夜脅かす者をも、昼、飛んで来る矢をも恐れる事はない。暗黒の中を行く疫病も真昼に襲う病魔もあなたの傍らに一千人の人あなたの右に一万人の人が倒れる時すらあなたを襲うことはない。あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ」詩篇91:1~8  


Posted by 金城米子 at 09:49Comments(0)神の計画