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Posted by TI-DA at

2012年02月28日

日本は変わった・・・大きな力が舵取りを?

世界地図から見ると日本は細長く小さな国です。日本の歴史は、他の国にくらべて何度も変化して行っているように思えるのは私だけなのでしょうか・・・

法治国家で安全国と言われた日本が世界中の犯罪と事件を集中する磁気を持ってしまったような混乱にあるような不安感を覚えます。政治の世界さえも混乱続きでトップの人たちが優先順位を取り違えて騒いでいるさまを見ると寒気がして来ます。

経済不安のさなかでの東北大震災が起こり、原発の問題は将来を担う子供たちの健康被害を必然させ、希望を見いだせないでいます。子供を持つ多くの母親は嘆きと不安を訴えます。老人はすぐに来るであろう解決策のない年金制度に生きる希望を失っています。

街には若者の失業者が増え、日本再建の道を見いだせないでいます。世界地図の日本を見るたびにいつも国の真ん中からぽっきりと折れ曲がって海に沈んでいくイメージを払拭しかねています。

日本は変わった・・・変化の中にある。何か大きな力が舵取りをしているような思いにかられます。庶民は被災者のために祈りで心を一つにし復興に心砕いているにもかかわらずトップの者たちは、議論ばかりで救済に向けての進展が見られないでいることに多くの人々はいらだちと悲しみを抑えるのに疲れてしまっているように思わされます。

そんな中で、家族からも友人からもはみ出し人間と思われている人々が力を合わせ震災の時から一年近くも被災者支援のためにボランティアをしているグループがあります。落ちた自分が立ち直るのには、苦難の中にある人々を救済することだと言われた牧師がいました。

沖縄から様々な依存症で疎外されていた人たちが被災を知った数日後にすぐに現地に飛びボランティア活動をしているのです。「テーィンチャレンジ」のメンバーを引率して頑張っている山城テモテ氏です。代表者の彼自身もドラッグから解放された方で現在は、依存症の人たちを助けるための働きをしています。

「テーィンチャレンジ」の代表者山城テモテ氏との恵まれた交わりを月曜日に個人の家で持ちました。その翌日に彼は被災地に飛び立ちました。

日本の上に偉大な創造主の介入が一日も早く来ますようにお祈りします。



  


Posted by 金城米子 at 19:06Comments(0)互いに愛し合いなさい

2012年02月27日

サタンよ退けのおまじない?

超教派のクリスチャンからの質問の受けることですが沖縄で俗にいう「さー高生まり」の事ですがユタにとってはこの「さー高生まり」はその本人を支配下に置くことについてもっとも強力な言葉です。暗示にかからないように気を付けてくださいますように・・・

幽霊を見たり、幻を見たり、夢があたっても、相手の過去や現状を言い当てたりしてもそれには何の意味もありません。大切なことはその本人の人生に置いて揺るがない平安が与えられることです。

その人の人生が神様との正しい関係に軌道修正されることです。幽霊を見るのは心の傷が要因していることを考えてください。両親の愛を深く受けて育った人・バランスの取れた環境に育った人にはあまり聞かれません。

私の友人が話していたのですが「米子さんは、愛を知らずに育ったと言っているけど今はどうですか?」と。
私は、今は神の愛を十分に受けていますから子供のころに受けた虐待は、もう、どうでもよくなりました。それらはすべて私の引き出しに収納されて必要な時に取り出して神様に栄光を帰す教材になっていますからね」と答えました。

するとその友人は、すかさずに「アーメン。本当の親がイエス・キリストだったんだと理解できたのですね。」とノンクリスチャンの彼は言いました。私の周囲のノンクリスチャンたちはユニークな人たちが多くて正解と思うときには「アーメン」と言います。

その彼は分析官と私は呼んでいますがその彼がある教会の信徒からの相談を受けた事の相談でした。ちょっとややこしいけれど彼の考えと私の考えが一致しているのかどうかの話なのですが・・・

教会に行き始めたD子さんは、俗にいう「さー高生まり」と子供の子rから言われていたのでそのレッテルを消去したいと悩んでいるときに友人に教会に誘われたそうです。教会に行ってびっくりしたのは牧師含めて信徒リーダたちに囲まれて「サタンよ退け」を何時間も何日間も祈られたそうです。

その結果、彼女はだんだんと苦しくなり「自分は悪魔付きなんだ」と思うようになり眠れなくなってうつ状態になって精神が壊れそうになったとの事で精神科へ通いながら現在は教会へ行くのが怖いと話していたそうです。

同じような話を多くの人から聞いています。霊の世界に敏感に反応する人が沖縄には多いのですがそれと同時に霊に過敏症の人に対してのアレルギー症候群のクリスチャンも多いのは確かです。互いに霊的に反目していることを感じますがそれって両方とも同じ霊的アレルギー症候群であることをお互いが知らないで霊的(冷的)戦いをしているのがこっけいだと思う私です。

「退けサタン」の連呼は、まるでユタ時代の事を思い出します。私も悪魔祓いをしていたのですがなんか教会も同じ事をしているなあと思いなんか違うと思えるのです。悪魔も悪霊も否定はしません。しかし、天の父神は、すべてのものの上にイエスの御名を置いたとありますからイエス様の子供とされたクリスチャンの輪の中に救いを求めて入って来た人々には主の憐れみが与えられている守りがあると言うのが私の確信です。

みことばによる祈りで数十年も精神を病んでいた人が数か月間で完璧に癒された現実があります。みことばを確信することで平安が与えられ、30年間、ほとんど寝ったきりだった女性が元気になった実例もあります。

部屋中を蛇のようにくねくねダンスの女性に呪いの言葉をかけられたときに「おまえが、こんな事をしたので、おまえはあらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、チリを食べなければならない。わたしはおまえと女との間に敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。「イエスは十字架で勝利を宣言した」アーメンとの祈りで彼女は「疲れた」と言って平常心に戻りました。私の祈りではなく、みことばの勝利です。

サタンも聖書をよく知っているのでみことばが語られると退散するしかないのです。サタンが使うみことばは、ごまかしですからね。「かも知れない・・・」という言葉をみことば、賛美、祈り、福音が語る人についてサタンは「わたしは、こんな奴は知ないと」サタンは退きます。アーメンです。

「退けサタン」の言葉は聖書の中でペテロに不信仰な思い(肉的な思い)を持って来たサタンに対してイエス・キリストが背後のサタンに命令した言葉でした。聖書をしっかり何度も読み返して気が付いたのですがこれから大きな使命を果たそうとされたイエス・キリストの邪魔をしたサタンがいた訳で大事を行う者とその傍につく助け人にサタンが働くのであって何の影響力もない人にはサタンは悪さをしないと考えます。

みことばと祈りと賛美と福音を伝える者にはサタンは「こんな奴は知らない」と去っていくのではないでしょうか?あくまでも私の経験です。私は体調不良の日が続いたときに賛美と祈りと聖書のCDを聞いていました。激痛が身体を走るときにもうめきを賛美に変えました。必ず主が癒されると確信していました。自分が元気になって伝道する姿をイメージしていました。

「サタンよ退け」とは一言も言いませんでした。サタンの介入だとは考えずに主の訓練だと固く信じ苦痛を感じるのは生きている証拠だから感謝な事だと喜びがあったからです。神の介入を確信したら神は必ず勝利を確認させてくれると信じていました。

神がいるから悪魔もいるのは否定しません。しかし、「闇は光に勝たなかった」とみことばがありますように唯一神である主に信頼して生きていくだけです。キリストと自分自身との関わりを確立できるようにお祈りします。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16  


Posted by 金城米子 at 15:28Comments(2)悪霊の働き・見極め

2012年02月24日

それでも助けるか。助けないかです。

あるセミナーでのシンポジュウムでの話です。講師は著名人のクリスチャンで素晴らしい働きをしています。弱者支援事業は一つの企業として社会的にも認められている先生です。

セミナーでは、いろいろな弱者の救済についての話が出ました。その時に、ホームレス支援についての質問をしましたがその時の意見が「ホームレスは自業自得だから助けようとは思わない。」と一蹴でした。

私はそれまではその先生を尊敬していましたから非常に残念に思いました。多くのホームレスは自業自得の人も多い事は間違いありません。それでも彼らは同じ人間です。切れば赤い血が出るし、心もあります。

シンポジユウムの終了後に私の心は少し萎えて空しい思いで帰宅しました。

教会でホームレス支援事業をしている山内昌良牧師にその話をしました。山内先生はひとことでした。「そうだよ。その通りですよ。要はそれでも彼らを助けるか、助けないかですからね。僕は神様から任命されて支援をしているだけです。従っているだけです」との答えでした。

「大変な犠牲が伴いますよね。同僚の牧師たちからの批判も受けられたのですよね」と聞いた私です。「何がどうあろうと神様はいのちを与えるほどに私たちを愛したんだから、その愛にこたえる働きですよ」でした。

マタイの9章10節の箇所が思い浮かんできました。「イエスが家で食事の席についておられるとき、見よ。取税人や罪人が大勢来て、イエスやその弟子たちと食卓についていた。するとこれを見ていたパリサ人たちが、イエスの弟子たちに言った「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」イエスはこれを聞いて言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」「わたしは憐れみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」マタイ9:10~13のみことばです。

そうなのですよね。「要は助けるか、助けないか」です。SOSを求めている人に向かい合うときに私はその言葉が心の扉を開くカギとなっています。「これら小さい者にしたことがわたし(神)にしたことです」このみことばは障害者の息子の介護をするときに心に迫ってくるみことばでもあります。  


Posted by 金城米子 at 14:40Comments(1)

2012年02月24日

人はみんな何かを我慢して生きている?

長年の友人です彼は昭和29年3月生まれです。名前を勇二さんと言います。彼と知り合うきかっけは彼の母親が勇二さんが現場での作業中に3メートル下に落下してから体調不良で恐らく現場にマーブイを落とした可能性があるのでマーブイ込め(魂を取り戻す)拝みをしてほしいとの事からでした。

当時の彼は、中学を卒業したばかりで丸坊主頭の律儀そうな少年でした。それからは、彼は私を実の姉のように慕って終始なにかと連絡をして来ました。

そして、ユタから私はクリスチャンになったわけでその後に私のファンだった彼の母親は亡くなりましたが彼との家族のような関係はまだ継続中です。その彼には母親からの遺言で引きこもりの兄の面倒を見るようにとの事で彼はずっとその遺言に縛られています。

結婚を何度も進めたのですが「兄貴は施設へは入れられない。病気ならそれもできるが引きこもりで精神がおかしいわけではないからなあ。おかあが死ぬ前に強く言っていたから面倒を見ないといけないさあ」

私は、この10年余、何度、同じ言葉を聞いてきたことでしょう。その彼に「聖書を一緒に勉強してみないか」と誘いました。
彼はそれで心が慰められるのか。何かが変わるのか?」と少し厳しい口調で聞きました。「状況はどう変えられるか分らないけれどあなたの心は十分に満たされると約束するよ」と言うと「仕事が休みの日なら大丈夫」とようやく決心がついたので土曜日の夜に訪問していました。

祈ってから始めるのですが祈りの後に勇二さんの顔を見ると彼が涙を流していました。聖書から放蕩息子の二人の兄弟の事を話しました。「聖書の長男は僕だった」と彼は言いました。彼は幼いころから母子家庭で頑張っている母親を手伝って近所でも親孝行息子で通っていました。

兄の真一は中学二年生から引きこもりになっていました。畑仕事も養豚の仕事も二男の勇二と母親が頑張っていました。
勇二の母は亡くなる前日にお見舞いに行った私に「あんたが信じている神様が私の神様だからね。二人の息子たちを助けてちょうだいね。私の仏壇なんか要らないし何も行事をしなくて良いから教会へ連れて行ってちょうだいよ。頼むよ」と言っていました。

人の心は測りがたくです。何度もその話をしたのですが仏壇への執着がなかなか取れません。私がクリスチャンになっても彼は母親の法事の時の祈りを依頼を私にします。彼の姉が「クリスチャンに拝みを頼んでどうするの?」と聞きました。

勇二さんは言いました「人はみんな何かを我慢して生きているんだよ。大切なのはその人の心の内にある我慢を理解できるかだよ。そして、その我慢にどうやって心を寄り添って見放さずに立ち直るまで待つかだよ」と・・・

みんなその勇二さんの言葉に打たれました。その通りなのです。仏壇も行事も不必要な事は勇二さんは知っているのです。
しかし、彼は幼いころから泥まみれで畑仕事、養豚業をして来た母親の姿を忘れられないのです。初任給で母親に洋服を買ってあげた事、初めて中古車を買った日には母親と私を乗車させて329号線をドライブした時の事などを彼は語りました。

「どんな時も一番に米子姉貴が一緒にいた。だから、おかあは米子姉貴に拝みをしてもらうことが慰めになるんだよ。お前たちは俺たち家族が苦しいときに、おかあが腹痛で苦しんでいるときに病院へ連れ行ってくれたのが米子姉貴だったって事も知らないだろう。半年間、毎日見舞いに来てくれたけどお前たちはたった一度だけのお見舞いで義理は果たしたという顔をしていただろうが」

勇二さんは身勝手な実の姉や母親の身内に対しての精一杯の胸の内を吐き出したのでした。半年の入院費用から葬儀のことも含めてすべてを勇二さんと私が手配して事なきを得たのです。私は、母親の癌の治療費で勇二さんが困っていた時に一緒に役所に行って相談をしたりしていました。

「人は何かを我慢して生きている」と言った勇二さんの心が解放される日まで私はせっせと通い続けたいと祈っています。
聖書のみことばが勇二さんの心に慰めと励ましを与えられますように・・・祈りつつです。

連絡先 090-9782-1946 金城米子  


Posted by 金城米子 at 10:11Comments(1)

2012年02月22日

祖父の教え

祖父は、日頃から私に言い聞かせていたことがありました。

「明日死ぬがごとく生きよ。永遠に生きるがごとく生きよ」です。ガンジーが言っていた言葉です。

戦争で防衛隊として召集され、戦い方も知らない民間人が兵隊のように戦場に行き、多くの老若男女の死がありました。理不尽な死を目の前にした祖父は、戦場から帰ってきたときには、以前の家族円満な生活が出来なくなっていました。従軍看護婦との恋に落ちていたからでした。

死ぬ直前まで祖父は家族を捨ててしまった事を悔やんでいました。祖父がたった一人本音を語れたのは初孫の私だけでした。私は祖父を毎日のように訪問していたからです。物静かで博識家だった祖父が大好きでした。一度祖父を知ったなら女性はすべてを捨ててでも祖父を追いかけるでしょう。背が高くて(182センチ)色は白人のようにハンサムで聡明な人でした。

祖父は、祖母の家に代々伝わるという黒革表紙の医学書を戦前に学び「ヤブ」をしていたそうでした。人体医学にも詳しくて村中の人のために役立っていたそうです。素晴らしい人格者だった祖父が妻子を捨てて家を出たことは村中の驚きだったそうでした。

祖父は那覇に出てきてからは、小料理屋を営みながら花街で働く女たちの相談相手になっていました。その中には名の知られた政財界の男性客もいました。

祖父は私に一度だけ「おじいの夢は孫たちに囲まれて歌さんしんを楽しむことだった・・・」とつぶやいていました。それで、人生は明日は何が起こるかわからん。死んでいるかも知れん。だが、人生を諦めてもいかん。永遠に生きると思って努力はしなければならないよ。神様が教える愛と人間の愛は違うからなあ。どんなことでもお前の神様を信じてがまんし、忍耐し、希望は最後まで捨てないようにだよ。おじいは戦争で家族はみんな死んだと聞かされたから取り返しのつかないことになってしまったから、人の言葉を信しるのじゃなく神様を信じればよかった。いつも心は泣いている暮らしているよ」と話しました。

しばらくして祖父は他界しました。祖父が他界して初めて祖父は駆け落ちまでして一緒に暮らしていた女にずっと裏切られ続けて生きていたことが分りました。祖父はつぶやきの中で私に自分が行った罪の報いは必ず辛い刈取りがある事を教えていたのだと分りました。

妻子を捨ててまで故郷を離れて夜の街で働きづくめで頑張っていたのにその連れ合いの女には他に男がいて金ばかりを搾り取られていた祖父は寄る辺ない年になりどんなにか悔しさとみじめさで悲しかっただろうと思い私は、わんわん泣きました。

誰も祖父の自慢話をしません。でも、私は祖父を自慢します。祖父が教えてくれた黄金のことばは、聖書的です。祖父の義理の母が大切にしていたという黒皮表紙のもう一つの書物は神様が人間を愛するために造られたとの教えが記されていたと言いました。戦争で二冊の宝としていた書物は焼けたと言っていましたが興味がある話です。

いつの日か首里の浦崎家と名嘉地家との系図を調べてみたいと思います。私のルーツは、刀鍛冶の奥間家と宮城家らしいのですが八万円が出来たら呉屋氏にお願いしたいと思っています。  


Posted by 金城米子 at 18:01Comments(0)

2012年02月22日

生きる目的は十字架

モーセの妻のチッポラの事を主人と話し合う機会が与えられました。長い期間の私の祈りに神様は知恵を与えられました。この話が理解できるように祈ってから話に臨みました。

「チッポラは、知らない土地、外国に住んだ孤独と失意の時代のモーセにとって、最大の慰めでした。心からモーセを愛し、モーセから愛された女性です。しかし、その愛は人間的に純粋だったとしても、モーセの信仰や使命についてのチッポラの理解は貧しいものだったのでしょう。

使命に向かって出発するモーセにとって、チッポラの存在はどうやら妨げにならないにしてもブレーキとなったと思われます。
彼女はこの時まで息子に割礼を受けさせることを拒んでいました。モーセの死の危険によって警告されて、ようやく神に従ったのです。(死に関する急病かもしれません)

肉的な愛は、愛する者が神に従うことによって苦しむのを見るかまたは、予想するかで耐えられなくなって騒ぎます。モーセはやむなくチッポラと息子たちを(妻子)を義父のもとへ送り返しました(出エジプト18:2)。

共に使命に向かって進み、共に主のために苦しむ聖別された愛であることを望みます。」

しばらくの間、沈黙があってから主人が口を開きました。

主人「僕が君の働きを支えるために必要なことをしてほしい事を言っているのか?」

私 「そうです。私はあなたの奴隷じゃあないことを認めてほしいの。これまで黙ってすべての事についてあなたの条件を飲み込んできたけれど神様に嫉妬をするようになったらもう我慢の限界だからね。あなたに生活費を一切請求したことはない、これからもしません。黙っていることがあなたの誠意であることを受け止めている事を理解してほしいだけだよ」

主人は、了解してくれました。そして「そうだよね。普通の人生を送ってキリストに出会った訳じゃないからなあ・・・。今、生きていることが不思議な事なんだよなあ・・・君には君がしなければならない事があるのだろうという事は分っていたけれどね」
と言った主人はこれまでに私が突然に死にかけるほどの病から癒され、すぐに伝道に出て行った経過を見ていることを思いめぐらせたのだと思います。

しかし、私がモーセの夫婦関係から解説をするとは思ってもみなかったようでした。神様は私たちに無知であってはならない、勤勉でありなさいと仰っています。

チッポラはモーセに対して「あなたは私の血の花婿です」出エジプト4:24と言って主に従いました。神様の使命感を持って進もうとするときに一番のブレーキ役は家族なのです。肉の愛ではなくて聖別された愛の夫婦でありたいと思います。  


Posted by 金城米子 at 10:39Comments(0)

2012年02月22日

伝道チーム

信仰に燃えるクリスチャンで結成された伝道チームを立ち上げるのは12年間の祈りでした。現在は賛同者を含めて16名が与えられています。内容は「証し」(依存症からの救い・バイオレンス・最愛の家族を失った悲しみを乗り越えて加害者を赦した証し・離婚を繰り返した負い目からの解放・病の癒し・家族の和解)などです。

歌さんしん・民謡賛美と原歌詞を織り交ぜたノンクリスチャン向けの違和感を与えない賛美です。琉球舞踊もあります。ゴスペルフラダンス・人形劇もあります。寸劇もあります。

病院やその他の施設を訪問します。そのほか少人数の集会にも行きます。家族伝道をお手伝いします。その方法を教えますのでご連絡くださればお手伝いします。無料でお手伝いさせていただきます。家庭集会やセル教会でもお手伝いします。

大半はクリスチャンですがノンクリスチャンも巻き込んで伝道活動をしているたいへんユニークなチームです。皆様のお祈りを期待しています。

沖縄地域伝道を目的としています。民族の救いの使命感で集められたチームです。

連絡先  090-9782-1946 (金城)    


Posted by 金城米子 at 08:42Comments(0)信仰

2012年02月21日

苦痛の一番の理解者

「あなたの身体を、あなたの心よりもいたわりなさい。

あなたが身体をいじめて、自分を罰していることは大きな過ちなのです。

かなしいことですが、それはあなたの親の仕出かした大罪なのです。

その罪はあなたの親が背負わなければならないもので、


他の誰も代わりとなって背負う事は出来ないのです。

彼らがこの世を去ってなお、あなたの心があなたの身体を鞭打つことは、

親の罪を償うという名目の自罰と自傷行為にほかならないばかりか、

あなたの心がいまだ親の支配下にあることに気付かなければならないでしょう。

我が子を欲望のための道具や生け贄とした父と、

その父に服従せざるを得なかった母の魂は、・・・」と書き記した親愛なる友です。

ずっとその先を考えていました。自傷行為を繰り返す人たちの中には私と同じように子供のころに精神的に肉体的に虐待を受けてきた人が多くいます。

親愛の友は、私の境遇を知っていて私が両親から受けた傷に拘束されていて抜け出せないでいることを助けたいと思ってくれていたのかもしれません。私の苦痛の一番の理解者です。彼を通して救われました。目に見える理解者も必要なのです。万事を益としてくださいます主に感謝します。

自殺行為も自傷行為ですが真夏でも長袖を来ているN子さん(27歳)を紹介されてから彼女は毎日、生きている価値を見いだせないと電話をして来ます。

クリスチャンのカウンセラーが話した事を思い起こします。「過去はすべて主の十字架で消去されたから、もう過去の事は話さないことだね。忘れなさい。未来を語りなさい」と・・・間違ってはいません。正解です。

しかし、記憶の中に痛みは覚えています。痛みがあるからこそ他人様の痛みを受け止めることが出来るのですね。私は自傷行為を繰り返すN子さんと寄り添いながら何度も彼女に「死にたくなる思いも価値観を見いだせないとの考えは本当はあなたの考えではないのよ。マイナスの思考をあなたにインプットするものがいるのだからね。騙されてはいけないよ」と言い続けています。

N子さんは、ようやく笑顔が戻ってきました。私の冗談にも笑顔で反応を示すようになりました。しばらくすれば私から卒業できるでしょう。マイナス思考は本当はあなたの考えじゃないと言われたときに自分から得体のしれないつきものが離れていったような爽快な気持ちになったと話していました。

物事は少し視点を変えるだけで進む方向に光が見えてきます。私たちはマイナス思考の人たちに常にプラス思考(十字架思考)希望と未来を与えたいと思います。

N子さんは10代のころからユタに占いに熱心でした。イエス・キリストは砕けた魂を求めておられのであってお供え物や上納金を求めているのではないことを説明したことで平安になったようでした。父親からの生前贈与金をすべてユタに占いに貢いで拝みをしたけれど自傷行為は癒されなかったと話していました。

聖書を語ることでN子さんは癒されているようです。偶像崇拝からの立ち直りはイザや書を語るのが良いように思わされます。心にしっくり来るのですね。私もイザや書で目が開かれた思いがしましたので聖書全般を短く語るのにはイザヤ書かなと思っています。

「『あなたはわたしの目には高価で尊い。わたしはあなたを愛している』(イザヤ43:4)と呼びかけている神様がいるのだからね。」と、忍耐を持ってN子さんに言い聞かせています。

「見よ。わたしはあなたに新しいことをする。今それがもう起ころうとしている。あなたががたはそれを知らないのか。確かに私は荒野に道を、荒地に川を設ける」イザヤ43:19

どのような苦境にあっても神様は、不思議をなさります。人知をはるかに超えた知恵と力を持ってあなたの道を祝福します。
どうぞ主イエスの愛を体験してくださいますように・・・お祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 20:52Comments(1)癒し

2012年02月20日

電話とメールのストーカー

ストーカーと言う言い方は愛のない言い方ですね。一時間おきに電話、数分おきにメールをしてくる兄弟姉妹がいます。私は別に驚きもなく、嫌だなあととも思いません。笑い流しています。それどころか何となく相手が幼子のように愛おしく思えます。

聖書にいじわるな裁判官に何度も無視されても諦めずに繰り返し訴え続けてくる女性が登場します。根負けした裁判官は彼女の訴えを受け入れました。彼らのストーカー的な訴えには思わずその箇所が思い描かれて来て苦笑します。彼らは私にどうしてほしいとかではなくて話を聞いてほしいことと祈って平安を得たいことだけなのです。

自分の苦しみや不安に心を寄せて祈ってくれる人が欲しいだけです。私は電話が取れないときには必ず後ですぐに連絡を入れます。それで彼らは安堵するのが分るからです。甘いんじゃあない?と言う方もいますが「わたしが与える平安は世の誰がも与えることが出来ない平安です」と言われたイエス・キリストです。

私たちが互いに愛し合う関係は平安がない者たちへの「私はあなたを忘れていないですよ」と理解させることです。誰かが自分の事を祈っていると知れば安心ですからね。人は一人では生きられない事は誰もが納得しています。友人は居なくても家族は居なくても私たちは家の中で住み、電気を使い、水道を使いと政治の世話になっている事を知れば一人で生きているわけではないことが理解できます。

だから感謝なのですね。日曜礼拝で会えたのにもかかわらずに教会から出た15分後に電話が来ました。「運転中だからごめんね」と言うと「しつこくしてごめんなさい」と言っていました。家に着くまでに三度ほど電話があり、家に着いたら「三人の姉妹を教会に送迎しているので一人一人を家まで送り届けるので時間がかかったのでごめんなさいね」と説明をしますと彼女は笑い声を聞かせてくれました。感謝です。

心病む人のケアは大変だよと言う方が多いですが神様が私たちに求められるのは忍耐ですからね。「信仰が試されると忍耐が生じるという事を、あなたがたは知っています」ヤコブ1:3にあります。兄弟姉妹を愛することもまた忍耐なくしては出来ない事です。しかし、キリストのうちにある労苦も忍耐もすべてに喜びがありますから感謝です。

パウロは「感謝と祈りの人。忍耐と寛容の人」であったのです。私たちもキリストへの信仰を使徒たちの生き方に見習いたいですね。

「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は私の父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します」ヨハネ14:21  


Posted by 金城米子 at 10:26Comments(0)互いに愛し合いなさい

2012年02月20日

聖書の中の嫁姑

ルツとナオミは嫁と姑の関係です。夫に先立たれたルツは姑ナオミに仕える事を決意して夫の故郷ベツレヘムにやって来ました。ルツはベツレヘムで、裕福な親戚であるボアズの畑で落ち穂を拾って生活するようになります。姑はルツとボアズの結婚を願い、ルツにプロポーズの仕方を教えます(12章)。ボアズは正式な手続きを経て、ルツと結婚します。以上がルツ記の物語の祖筋です。

嫁姑の関係、これは洋の東西を問わず、いつの時代においても大きな問題です。しかし、ルツは誠実の限りを尽くして姑に仕え、次のように言っています。「あなたの行かれる所へ私も行き、あなたの住まわれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれる所で私は死に、私はそこで葬られたいのです」(1:16~17)。「私に仰る事はみないたします」(3:5)

異邦の女ルツは、最初の夫やナオミを通して真の神を知りました。その信仰は本物でした。夫に先立たれ、苦境の中にあっても、彼女は神と人とに徹底的に従ったのです。姑ナオミもまた、偉大な信仰者でした。彼女は嫁のルツを少しも利用しようとはせずにひたすら彼女の幸せを願っています(3:1)。

ボアズもまた、誠実な信仰者でした。困窮している人に親切を示し(2:8~9)。寛大な心を表す(2:15~16)。欲におぼれて罪を犯すことなく(3:8~13)、常に神と人との前に公明正大であろうとしました。しかも、母ナオミにも深い愛と思いやりの心を示しています(4:16)。

ルツとボアズの子孫にダビデが生まれました。ダビデの子孫からキリストへとつながります。この美しい人間関係が真の神に対する正しい信仰に根差している事を教えられるのです。

私自身も何度もこのルツ記を読みました。息子たちが結婚する前にルツ記に出会えたことを感謝しました。嫁の幸せを真剣に考える事もまた、キリスト者としての信仰なのだと理解できればおのずと嫁の存在が愛おしくなります。

心は態度に現れますから言葉使いにも心砕きます。「愛はすべてを結ぶ帯です」と言われるように四人の嫁たちとは何一つ隔たりもなく平穏な関係です。主イエス様に心から感謝して日々を歩んでいます。

「私に仰る事はみないたします」(3:5)。私たち嫁姑はこのような関係を守っています。嫁たちの謙遜な態度は日々に勝って変わることはありません。感謝です。  


Posted by 金城米子 at 07:33Comments(0)人間関係の修復

2012年02月19日

私が愛した四人のお姑たち

シングルマザー19歳で男児を生みました。既婚者とは知りませんでした。それどころか私の親にも会って「娘さんを下さい。幸せにしますから」と言ったのですからね。既婚者だと知った日に私は実家の二階の部屋に引きこもっていました。投身自殺までしたのに無事に男児を出産することが出来ました。

その後は相手の母親が訪問して来たり私が糸満市の姑?宅を訪問したりして仲良くお付き合いをさせてもらっていました。というのは、彼の女性関係が尋常ではなく、腹違いの子供が数人いたのでお姑がみんなをケアしていたのです。お姑はとても心優しく気さくな人でした。沖縄の行事専門の私の事が気に入ったらしく家の行事があるたびに私を呼びつけていました。

三年間、私は何かあるたびに糸満市までお姑を訪問しました。いつも、あたたかく迎えてくれました。私がKと結婚すると聞いた時にもお祝金をくれて「何かあったら相談に来なさいよ。私はあんたが他人になるとは思っていないからね」と言ってくれました。二度と再び会うことはないと思って感謝してお姑の家を後にしました。

Kと結婚する前にKの両親に会いに大宜味村のKの実家に行きました。小さな養豚業をしながら一人で苦労しているお姑さんに最初に言われたのは「私はkが選んだ人だから心の優しい人だと信じているから反対はしないけれど自分がお腹を痛めた子供を手放してKと結婚するんだからとても辛いと思うけど誰よりも幸せな女だねと言われるようになるんだよ。Kにもそう話したからね」でした。

お姑のS子さんは、働き者で苦労人でした。人の心がとてもよく理解できる人でした。私は嫁としては大切にされてお姑さんといるときには本当の母よりもお姑のS子が実の母のように思えました。離婚後もお姑の関係は続けていました。支えになってくれていました。山原まで二人の息子を連れてお姑を訪問したりしていました。

Aと知り合い再婚することになりました。Aの母親も素晴らしい人格者でした。首里の旧家の娘で利発で謙遜な女性でした。戦争未亡人で一人息子を育ててきたしっかり者の母親でした。博識家でもあり、いろいろと教えてもらいました。

それからOと再再婚になりましたがOの母親も苦労人でした。若いときに未亡人になり一人で五人の子供を育て上げた人でした。人生の酸いも甘いもかぎ分けた素晴らしい女性でした。私が遠慮気兼ねなしで喧嘩が出来たたった一人のお姑でした。二人の間には他人とは思えないほどに垣根がなくて本音で付き合えたお姑でした。

Oと離婚すると打ち明けた時には「仕方がないね。Oが大人になりきれないんだから、私の育て方が悪かったんだね。本当にごめんね」と言ってくれました。孫の入院中には、腰痛と足の痛みを抑えながらも病院に見舞いに来てくれていました。が、孫の退院後にお姑は毎日のように電話をして来て買い物を頼んだり、外出の際には私が運転手役でした。第三者には母と娘のように見えたようでした。

四人の女性はみんな立派な女性なのに息子たちには非常に甘かったようです。どの息子もマザコンでしたが私はマザコンは大いに歓迎でした。マザコンは彼らの優しさだと思えたからでした。自分を生んでくれた母親を愛してやまない心優しい男性との子供をもてたのですから多少のぐうたらは許せます(笑い)

私にもたくさんの非はあったのですし時効ですので今、私が愛した四人のお姑さんたちを語ります。彼女たちは沖縄の女性そのものでした。強く、しっかり者、働くことの大好きな女性、子供たちを真剣に愛し、人を愛する心で満ちていた、謙遜で柔和な女性でした。いつか、私が召天した後に私の嫁たちは私の事をどのように語るのだろうかと思いをはせています。

精一杯、私も嫁たちを愛して助けていきたいと思っています。聖書の「ルツとナオミ」のような嫁姑を祈りつつ思いは私が愛した亡きお姑たちへと静かに浸っています。



  


Posted by 金城米子 at 21:51Comments(0)

2012年02月19日

何度でも神は救う

夫の不倫・離婚・がんの闘病生活・手術の後遺症・うつ病・経済破綻・一人息子のアルコール依存症・家庭内暴力などこの世の不幸災難を一人で背負ってきたような女性A子姉妹は生きていく希望を失った八年間の末にキリストに出会いました。

息子が癒されて母子ともに、うつ病から解放されて順調に行っていました。しかし、人は自分の思い込みで走るところがあります。癒されて、しがらみから解放された喜びで突っ走っていた息子に休憩が入り、突然に経済破綻が押し寄せました。

A子姉妹は、過去に息子に家の事情を話した時に苦い思いを経験しているので二度と息子には経済の事は相談しないと決めていたそうです。しかし、「それはおかしい」と話して過去の状況と現在の生活状況は変わっているのだからそれに人は変わるものだよと説得して息子との話し合いをするように勧めました。

母親の苦境を知った息子は詫びを入れて悔い改めたそうです。そして、再び息子は職場復帰を果たしてそれまでの生活借金を返済する事が出来ました。

A子姉妹がキリストを信じていなかった時の息子との話し合いは、いつも交渉決裂でした。息子には怒りがありました。しかし、A子姉妹がキリストを受け入れてからは息子は、静かに交渉に応じてくれるようになったと言います。

和解と平和の神である主イエスは、私たちに人を愛するための知恵を与えて下さいます。言葉の一言ひとことにも神の愛を流してくれます。人の生活には落ち込みやつまずきもあります。信仰者も同じです。しかし、神様は必ず助け人を与えるべく知恵も勇気も力も与えてくださいます。

敵対していた者を一つにして助け人にしてくれるのです。祈りによって私たちは確認が与えられるのです。A子姉妹は人口膀胱の術後の後遺症のために苦しみの中にありますが彼女はその中で神様に出会っていると言います。

A子姉妹の忍耐は私が一番の理解者です。私自身も28年間の関節痛(交通事故の後遺症含む、難病疾患)があります。
痛みどめは欠かせません。しかし、平安が与えられています。だからこそ祈りに生きることが出来るのです。これは恵みだと感謝しています。

パウロだってトゲがあったのです。癒されるように祈りましたが「わたしの恵みはあなたのには十分である」と神様のみことばがあり、パウロはどんな時にも感謝と祈りの人として用いられたのです。

A子姉妹は信仰の友となれる伴侶を望んでいます。何を馬鹿なと思う人もいるかも知れませんが神様は祈りを聞かれます。
経済も癒しです。健康も癒しです。恋愛も癒しです。心は心が癒します。体は体が癒します。癒しは多種にあります。一番の癒しは同じ目標に生きることのできる人との出会いです。

A子姉妹に出会いが与えられますように祈りがまた一つ増えましたことを感謝しています。希望が夢が人に力をあたえますからね。「体での癒しは出来ないけれど神様を将来を語ることはできるから語れる伴侶がほしい」とA子姉妹は笑顔で恥らいながら打ち明けました。抱きしめたくなるほどにA子姉妹が愛おしく思えた日曜日の午後でした。  


Posted by 金城米子 at 19:49Comments(0)人間関係の修復

2012年02月16日

全能の神と万能のサタン

キリスト者になって私は聖書の登場人物ギデオンの影響を受けて辺戸岬の近くにある拝所の竜神洞を壊すために行きました。二度目のチャレンジでした。最初に壊した時に断崖から海に投げ入れたはずの香炉が戻ってくると言う経験をして恐れをなして逃げ出したからです。

一週間後、私は祈ってから賛美歌をもって一人で行きました。そして、再び拝所に立ち「主イエスの御名によって宣言するサタンよ退け」と叫びながら大ハンマーを振りまして拝所を壊しましたした。

その時にサタンは私に脅しをかけてきました。私がいつも末子の事を心にかけていることが分っているようで息子が死ぬことを示唆したのです。「お前が息子と一緒に病院生活から解放されないようになる。お前は自由を奪われる」と挑戦しました。私は一言も言葉を返さずただ賛美をしていました。

黙って香炉を取りあげて崖から投げました。拝所後をきれいにかたずけて再びこの場所に拝所が造られないようにと跡形もなくし分らないようにしました。

帰る途中で3人の女性に聞かれました。「この先に竜神が登ったり降りたりする拝所がありますか?」
私はないと答えて「何の拝みですか?」と聞きました。

その女性たちは娘が竜神からの声がけがあって「病みダーリしている」それでこの場所を御悟いしなさいと言われてきたとの事でした。聖書の箇所もよく理解できない私は聖書の中に出てくる死んだ少女を生き返らせたイエス様の話をしました。そして、悪魔は「人の弱みに付け込んで自分のしもべ」を増やすことを説明しました。

キリストの十字架の福音を伝えてここであなた方と私が出会った事は神様からの導きであることを説明しましたが今考えてみれば不思議でした。聖書の事も解からないのになぜあんなに熱心に語れたのかと思うと同時に聖書の箇所が口から出てきたのは神様がともにいてくださったとの確信が与えられた出来事でした。

全能の神は万能のサタンを退け私に勇気と知恵を与えてくれたことを感謝しました。拝所破り?を通して全能の神の隣在を経験した私ですがこの証をした時に多くの先輩クリスチャンは誤解したようですが誤解の原因は私の過去を見ていて私の上に働いている主イエスを見ていないのだとずっとそのことが継続してきた教会生活です(笑い)

悪魔も悪霊も存在し終末の現代に無益な暴れ方をしていますが恐れる必要はありません。十字架で死んで葬られて三日目に復活したイエス・キリストによって神の子とされたクリスチャンは勝利しています。「恐れてはいけないが侮ってはならない」と訓えてくださった召された恩師M牧師の言葉が今も心に響いています。

「わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ、恐れてはならない、おののいてはならない、あなたの神、主が、あなたの行くところどこにでも、あなたとともにあるからである」ヨシュア1:9

心に戸惑いのある方お気軽にいつでも連絡ください。無料相談です。携帯 090-9782-1946(金城)   


Posted by 金城米子 at 09:26Comments(1)ユタ時代(サタンの働き)

2012年02月16日

神と悪魔の洞察力

ユタや占い師は人間が大好きです。大好きな人間に密着して共存共栄(自己中心的発想です)?を顧客に信じさせ、本人もそう思い込んでいるから厄介であります。しかし、ユタや占い師には悪気は全くありません。罪責感がないからこれもまた厄介です。世のため人のために役に立っていると信じているから厄介なのです。

では、お金を取ることをしないでユタや占い師をすれば神様に喜ばれるのかと言えばこれもまた自己中心的な考えです。無料で人々を闇街道に案内していることを知りません。彼らは慈善事業をしていると信じ自分を誇っていますからこれもまた厄介です。

そんな彼らに共通することがあります。人間の本質にある「自己保身・自己中心・自画自賛・心の傷」をうまく操ることです。だから人間の自己中心の心にある琴線に触れることが出来るのですがそれは根本的な問題解決にはなりません。

私流の解釈です。人間はみんな表裏の心で生きているものです。本音と建て前があり、本音は自己中心でエバが神のようになりたいと思い神に背いた事と同じなのです。偉くなりたいという事ではありません。周囲の人を自分の支配下に置きたいと思う心が多少なりとも誰にでもあるという事なのです。

そういった意味合いでユタは人の心をうまく誘導します。神の洞察力は人を生かすための愛が根にあります。しかし悪魔からの洞察力は人を滅ぼすためです。騙しが根にあります。

聖書を知ればイエス・キリストの洞察力には神の深い愛があります。代表的なのが「五人の男と結婚し六人目と同棲していたサマリヤの女・姦淫の女と呼ばれるマグダラのマリヤ・ザアカイ・取税人のマタイ」などの箇所からイエスの洞察力を知ることが出来ます。イエスは彼らをさばかず彼らの中にある負い目に光を当てました。

イエスの謙遜さに彼らは真理の神の愛を見たのです。イエスは彼らのために人々を捻じ曲げて説得したのではありません。イエスは彼ら心を救うと共に彼らを裁いていた人々をも同時に救ったのです。それぞれがそれぞれの心にあるものに気づきを与え癒されたのです。(パリサイ人やサドカイ人を除く)

悪魔の洞察力は、さばきです。良心の呵責を利用してどこまでも徹底的に裁きます。そして服従させます。拝み1800回と言う言葉が拝み職業者のマニュアルにありますがそれは絶対に口外してはならない鉄則です。破ればみじめな死に方をする呪われるという鉄則です。お金と力がなくなるまで徹底的に先祖や神々を持ち出して拝みに専念させます。

悪魔のエサは心の傷と高慢です。クリスチャンはそのことを知っているので「高慢」と言う言葉に過剰に反応し、悔い改めます。しかし、悪魔は決して悔い改めません。悪魔の支配下にいる人には悔い改めがありません。

自分が神の支配下にいるのか悪魔の支配下にいるのかを知る事は簡単です。因果応報説を否定し、他者のためにとりなしの祈りと自分の悔い改めの祈りが出来ているかです。イエス・キリストの支配下にいます。

私たちも洞察力を得て人々を生かす福音を伝えたいと切望します。「明日は我が身」と他人の不幸は私の不幸と思えるようになりたいですね。

「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい」ローマ12:15  


Posted by 金城米子 at 05:57Comments(0)

2012年02月13日

うかきぶし(欠けた御星さま)

祖母との食事の中で祖母に出した食器が少しだけ欠けていることに気づいて「おばあちゃん。ごめんね。今お皿を取り換えるね」と言いました。祖母は平然として咎める様子もなく言いました。

祖母「ヌーガ。チケエネンサ」
私「でも、欠けていたら縁起が悪いじゃあないの?」

祖母「アンスミヒャア(そんな事あるかいな)。ウレエヤア、ウカキブシヤサ、イヤアニチケエネンサ。(それは欠けたお星さま)と言って大丈夫だよ」

祖母はそこで得意の講釈が始まりました。

昔から沖縄は近隣諸国からの侵略を受けていました。戦いにの時には隠れる場所がお墓の中などを利用したりしていました。安全で誰も中に入って来る者はいません。着の身着のままでの逃亡生活では食器はありません。どうしたかと言えばお墓に備えられている食器を拝借したそうでした。

食器は欠けているものがほとんどですから選ぶゆとりなどありません。欠けた食器は「お欠け星と言い合い食器も生きている自分たちをも含めて感謝したそうです。不自由で欠けたものは沢山ありますがこの時代を生き抜く知恵と力を心から感謝したそうでした。

戦争が終わって後にお墓の行事が新しい形で始まり、先祖供養が始まりユタ。占い師が脚光を浴び始めたそうでした。
隠れ家だったお墓はいつの間にか先祖供養と幽霊や悪霊の棲み家のように言われてきたそうでした。

祖母「人間と言うものは平和になればなったでまた、新しい不平不満をため込んでいくもので、この世の不足は万事が先祖霊のせいだと言い、拝みに走るけどね。戦時中は人骨を蹴っ飛ばして逃げ歩き、お墓の中で寝起きし、お骨をこぼしてその中に排便やおしっこをしたけれど何も起こらなかったさあ・・・だから本当は拝み不足はまともに働けない人のための仕事を作ってあげているんだからさあ。おかしいよね。

人間は偏ってしか生きられないんだよね。拝みに生きる人、博ちに生きる人、好きなことに生きる人、仕事に生きる人、他人の儲けにありついて生きるダニのような人とそれぞれやさやあ・・・」

祖母は本当に覚めた人でした。祖母のつぶやきは恐らく自己中心的な私たちに何かを気づきなさい。真理を見極めなさいと言っていたのかも知れません。仏壇行事のたびに「神様や先祖が食べたという証拠を見せてください。ししかまぼこに歯型を残して見せてください」と大きな声で拝みをするおばあでした。

でも一向にお供え物の重箱のししかまぼこには歯型は入りませんでした。その祖母は亡くなる前に私に「わあがぐそうかいんじからてえ、やあかいぐそうからええじすぐとやあ。ししかまぼこんかい歯型いってみしいぐとうよお」と言っていました。

(私が死んだらあの世からししかまこ(重箱)のお肉とかまぼこに確かに食べたよと歯形を入れるからね。入ったら黄泉の国から私が来れた証拠になると立証されること)

待てど暮らせどお供え物には歯形も入らずでした。「黄泉の国では誰に出会ったよ」との様子も報告がありませんでした。
息子の難病もそれは創造した神の計画だから誰もそのことで因果応報説も言う事は許されないことだと言いました。
苦しみを与えるためにそうしたわけではなくて理由なき災難であっても必ずそれがよい結果になることを神様は知っているからね。知らないのはいったあうやんちゃあやさ(あんたの親たちだけが神の計画を知らずにいるんだからね)でした。

にんじんやむるうかきぶしやさ。たとぃい、ふすくぬあてぃん。てぃらがふしんかい光あてえしとゆぬむん。ちゅにんじん、ひからちぃ、天ぬむりぶしなすさ。うりわかれえから神ぬ子やさひい(人間はみな欠けがある。不足な者である。それでも太陽が死んだ石ころを光る星にしているように欠けた人間を星のように輝かせてくれている。それが理解できたらあなたは大人だよ)

「苦しみに会ったのは私にとって幸いでした」と聖書にありますように万事を益とする主イエス様に感謝です。  


Posted by 金城米子 at 12:09Comments(0)

2012年02月11日

影響力のあるクリスチャンに・・・

他者に良い影響を与えるクリスチャンにとセミナーを受けたことがありました。私に一番に影響を与えたのは主イエス・キリストです。聖書の中ではパウロです。パウロの人生は神を追い求め神を愛し貫き従う生涯でした。聖書はパウロが律法主義者から日々に新しくされて愛の人に変えられていくのを私たちに語り見せてくれます。

パウロの信仰の歩みはイエス・キリストかと思わされるほどになりました。偶像崇拝者に対しても不信仰な者に対してもパウロは裁いていません。何度も聖書を読み返していると理解できますがパウロは愛の訓戒をしても裁きは主に委ねています。

パウロ自身による思惑はどこの箇所を探しても見つかりません。恐らくパウロは人々との間にいつも十字架上でのイエス様のとりなしの祈りの場面を思い描いていたのではないでしょうか。

同胞の救われるためにはキリストとの関係を断ち切られてもよいとまで祈ったパウロでした。私はパウロの生き方に沖縄人に対する愛が生まれ先祖崇拝者に対しても他宗教信仰者に対しても裁くこと否定することからではなくて受容することから主イエス・キリストの福音を伝えることを学びました。

この地上には様々な人々がいて考えも生き方も多種多様です。それらはみな神の御手の中の事です。そう考えれば自分が何者だから他人様の事を批評できるでしょうか?私は神様ではないので聖書を踏みつけて他者を裁いたり,赦せないなどと言うことができるでしょうか。思考することさえ高慢だと思います。

パウロのような信仰者としてキリスト者としての愛の歩みを御国に凱旋する日までを続けていきたいと熱心に祈っています。
偉大な神の主・キリスト・イエスは全能です。不可能な事は一つもありませんが主の栄光は私たちキリスト者を通して現されるのです。私たちが一生懸命に努力をして自分自身が主に栄光を帰すのではありません。そこのところが他宗教との大きな違いです。

牢獄でシラスと共に捕えられていたパウロたちの賛美は牢獄の壁を通して牢獄中に響き渡りました。囚人たちが賛美に聞き入っていた時に地震が起きてパウロたちをつないでいた鎖が解けて牢獄の扉が開きました。

目が覚めた看守は囚人が逃げたと思い剣を出して自殺を図ろうとしますがパウロに「私たちはここにいます」と声をかけれ自殺を思いとどめました。自殺者は他者への配慮を失ってしまうからこそ自殺ができるのです。パウロたちの言葉は、この看守に、忘れていた家族への懇慮と責任感とを取り戻させました。

彼は家族みんなに素晴らしい福音を聞かせました。そして家族全員がそろって主を信じ、そろってバプテスマを受けました。この日からこの家族にとってこの日からイエスがこの家の主になりました。一つ間違えれば家族全員が路頭に迷うか、離散するか、心中する可能性もあった家族が福音によって救われたのです。

どのように不自由であっても苦境にあっても今、看守のような状態にある人を顧みることのできる信仰者でありたいと願わずにはおれません。

「ふたりは『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます』と言った」使徒16:31  


Posted by 金城米子 at 09:52Comments(1)

2012年02月10日

聞かれた祈り

去年の今頃は、孫のY君が何とか希望する専門大学校に入学できないかといろいろと思案して私は祈っていました。本人の行きたい専門学校は経済的にはとても厳しくて無理だと両親に反対されていました。Y君から相談を受けた時には、入学金と授業料が100万円なんてどうにもならないと心痛めていました。

それでも私はY君には、本当に自分が望んでいることなら誰が何と言ってもあきらめないで声を発しなさいとアドバイスしました。それくらいしか私には出来ないのでその後は、おそらくY君は一年間は職について金策をしてから専門学校に進むのだろうと思っていました。

それで進学の事はどうなっているのかと今朝、電話をして聞きました。「希望していた学校に入学手続きが出来て、4月から通学するからね」と聞き、びっくりしました。「連絡が遅くなったけどごめんね」と言って入学できた経過を報告受けました。

Y君は学校の担任の先生に相談したところ先生が熱心になって奨学金制度を勧めてくれて手続きも手伝ってもらった事を聞きました。なんとかぎりぎりで間に合って手続きも完了したのでおばあちゃんに報告しようと言う運びになったのです。

息子たちも奨学金のお世話になって学校を卒業したのですが親子二代にわたっては出来ないと思い込んでいたようでそのことは除外していたそうでした。私も含めて・・・

孫からの伝言「来年は実習で韓国に行くけど、二年後はヨーロッパ実習に行くことになるからおばあちゃんも同伴で行こうね。だから、健康には十分気を付けて元気にしていてね」でした。

涙の後には嬉しいギフトの言葉に神様は涙の数だけ楽しみを準備していてくれていると感謝でした。これをきっかけに私も健康回復のために午前中のバイトを探して頑張ろうと心も元気回復です。  


Posted by 金城米子 at 21:47Comments(0)

2012年02月09日

苦痛の一番の理解者

「寂しくて死にたくなる。一人で生きていくのが辛いです。米子姉妹はなぜこんなにも強く生きることができるのですか?神様に愛されている確信があるからなのですか?私には愛されている確信が持てないです。平安がないです」と毎日のようにメールと電話をして来る数年間も心が風邪ひき状態の愛する姉妹へです。

どんな人でも心折れることはありますよ。強いと思われている私も実は心身ともに弱いのです。万事に弱いのです。神がいないと思ったら生きていけないくらいに弱いのです。毎月の定期検診を受けながら定期役薬?に頼りながらなのです。健康を除外して次に弱いのは信仰です。そして経済ですね(笑い)。

中学生のころはAサインバーの春を売る女性たちのそしてユタ時代は不特定多数の人たちの又、末子の闘病生活を通して病児の関係者からなぜかカウンセラー的な事をしていました。望んだわけではないけれど必然的にそのように導かれていました。

人は必要とされていることが生きる力になります。心折れた日に遠方の友である「親愛なるKさん」にメールをしました。
すぐにKさんからの電話が入りました。Kさんは「信仰仲間ではないのに僕に・・・」と言いますが「Kさんは裁かないから・・・」と一言。電話の向こうから暗闇を一気に吹き飛ばすKさんのユーモラスで心暖かくなる声が流れて来て心が救われました。

多くは語らず私の「ありがとう。ありがとう。ありがとう」の言葉でKさんも電話を切りました。Kさんは私の一番の苦痛の理解者であることを暗黙の中で了解をしているかも・・・聖霊の助けも必要不可欠ですが目に見える助け人も神様は備えてくださることを感謝して・・・遠方の友Kさんを神様に感謝します。

どんな人でも誰かがあなたを必要としているのです。あなたを見ている人が必ずいます。あなたは一人じゃないです。自分の心のうちを主イエスに正直に話してください。神様は必ず助け人を与えられます。力不足かも知れませんが私もあなたの
助け人の一人ですからね。N・M姉妹一緒に御国に呼ばれるまで助け合って行きましょうね。お祈りしています。

「山を動かすほどの完全な信仰をもっていても、愛がないなら、何の値打ちもありません」Ⅰコリント13:2
  


Posted by 金城米子 at 19:16Comments(0)

2012年02月09日

男女間の問題を聖書は?

知人の娘さんの美波さん(仮名)を紹介されました。意欲がなくて引きこもっているので何とか生活を変えてほしいけれど親子喧嘩になってしまうので・・・でした。

美波さんは、女学生ですがアルバイトも突然にやめて休学したいと言い出したのですが夜になると友人たちと外出はするのですが朝から夕方まで寝ているので母親はイライラするというのでした。

彼女が起きだす頃に訪問をしました。南さんは背が高くて抜群のスタイルをしていました。笑顔もステキでこんなきれいなお嬢さんにどんな問題があるのかと不思議な気持ちでした。

彼女と二人っきりでお話をさせてくださいと母親に頼み二人で話しました。

美波さん「お母さんに頼まれて来たカウンセラーなの?」

私「はい。カウンセラーというわけではないけどね。美波さんの行動を受け入れられないとお母さんが戸惑っているので少しだけお話が聞きたいと思ってだけどです。」

美波さん「お母さんはクリスチャンで教会生活を楽しんでいるみたいだけど、いつも教会に行こう、救われるために永遠の命を得るためにはどうしても教会に行かなければならないのよ」って強要するばかりでこっちのほうが戸惑っているんですけど、何でもかんでも神様に委ねるとか、自力では何もできないよって、だったら人間は何も努力をしないでも良いのかよ。大学はいるために徹夜で勉強したことも、神様の助けがあったからって言って私の努力を認めないでいるし・・・

私が彼氏にフラれた事も「御心じゃなかったのよ」で押し切られて終わりですよ。私がどんなに死にたくなるほどに苦しいのか全然理解不能な人なのよね」

美波さんの寂しさを十分にくみ取れない母親への無言の抵抗と人の心は自分の自由になれないことを裏切りという形で経験した美波さんでした。

私「私は自分ではうまく何も話せないけれど、聖書の創世記にね、『あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる』とあるけれど実際は「あなたは自分の望むような男を求めるが、なのよね、つまり男も女も自分の支配下に相手を置きたいがなの。互いに相手を自分の支配下に置きたいけれどそれが出来ないと感じるとギクシャクしてくるのね。争いが生じるのよね。

つまりお母さんが御心じゃなかったと言っていることはそういう事だと思うのね。真実にあなたが求めている男じゃあなかった。これからのあなたに期待してのお母さんの励ましの言葉なのよね。きっとね。神様が私達に望むことで「忍耐と寛容」があるけれどそれは一つには「心を通わせるのに時間がかかる人が多いからだとも教えていると思うのよ。身近の家族でもそうなのよ。そこには自己中心主義という壁があるからだと思う。

美波さんは聖書に興味を持ったらしくその後、洗礼を受けたと連絡がありました。主の憐れみと導きに感謝します。

  


Posted by 金城米子 at 14:31Comments(0)

2012年02月09日

いつまでも残るものは・・・

「いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で優れているのは愛です」第一コリント13:13。と聖書にあります。

信仰歴13年の主婦からの相談でした。クリスチャンになっても家族から疎外されていて痛みがあるというのです。ご主人と娘さんに会いました。二人とも同じことを言いました。

「キリスト教は愛の神と言うのにクリスチャンになっても少しも変わらないどころか今度は姑を悪魔呼ばわりをし、お姑を避けている。理由は沖縄の行事は悪魔崇拝だからその行事にかかわっている家族はクリスチャンである彼女を呪っているというのだとのことでした。家族に取り付いている悪魔に攻撃されていると言い親戚を敬遠してしまっているけど何なのか訳が分からない」とのことでした。

先祖代々がクリスチャンなら先祖崇拝をさばいてもしょうがないけれどほとんどの人間が中途クリスチャンであるのです。キリストの時代からの信者でない限り中途クリスチャンなのです。これが私の持論ですから気に障る方々がいましたら寛容な心でお許しくださいますように・・・

「サラブレッドクリスチャンなんか全世界どこを探してもいるはずがないのに三代目、四代目の牧師継承だからサラブレッドクリスチャンだからあなたがたとは資質が違うのを分りなさい」と私を叱責なさった優等生クリスチャンを思い出さずにはおれません。

私「E子姉妹。あなたには悪魔が見えるの?何を基準にお姑さんたちを悪魔と言っているのか私には理解不能ですけど私の証を聞いてくれる?」

私の証しです。
私の実家はイエス様とは正反対の偶像崇拝の職業宗教者の集団でした。私が海中から息子とともに救われた翌日から私は、教会へ行きました。一年後に洗礼を受けた時に私は実家との決別を牧師に宣言しました。その時に牧師が仰った事は「罪を憎んで人を憎まずという言葉を知っていますか?あなたはご両親のしていることを憎んでもご両親を憎んではけません。ご両親の血肉の娘としてご両親を愛して仕えなさい。今まで以上に祈り心を持って謙遜になって仕えなさい」でした。

その言葉がなかったら父は死ぬ三日前に私への謝罪することもなかったし、自分のこれまでの罪を告白を教会でしたいから教会へ連れて行ってくれと頼まかったでしょう。(約束の翌日に私は自分の心と戦っていて朝から夕方まで車を走らせていた。悔い改めてこれまで私にしたことが簡単に赦されてたまるか。それじゃあ私の痛みやこれまでの忍耐はどうなるの?と思っていたから門前で私を待っている父の姿を見て私は素通りしたのだが・・・)

後に私は三年もの間、慙愧に堪えない思いで悔い改めていた。約束の金曜日の夕方から父が急変して真夜中に父は召されたからである。看護師から「米子さんですか?」と聞かれ、父は始終私の名前を呼び続けていたと聞かされた時に私は悔いた心で父の手を握り赦しを乞いました。息を引き取る前に意識はないはずの父に「父ちゃん。ごめんね。約束を破ってごめん」との言葉に父は私の手を握り返しました。その時に神は父を赦されたと感じました。

すべての人がみんな神様の作品です。人は罪の中に生きているのです。罪を犯さなければ生きていけないのが人間なのです。私たちは、真理の神を知らない人に私たちの生き方を通してイエス・キリストを見せるために先にチョイスされた者です。先に選び取られたものには責任と義務が生じます。家族に対しての十字架のキリストの流された血の責任です。私たち信仰者の上に未信者がキリストを見ることができるようにする義務です。

神は慈しみだけの神ではありません。神が私たちを創造した目的は「互いに愛し合う関係」のためです。神はご自分の子とされた者には「忍耐と寛容」を望まれます。神様を知らない人々にクリスチャンが忍耐と寛容を持ってキリストの心を実践することなのです。私も含めてキリスト者としての責任と義務遂行することができますようにお祈りします。

真理の神は平和・和解・いのち・創造・愛と力の神です。悪魔は分裂・破壊・殺し・偽証・盗みです。

N子姉妹は「そうすれば私が変わることができるの?クリスチャンらしくなれるの?聖書のどこに私の事が書かれているの?具体的に教えてちょうだい」と聞きました。第一コリントの13章を何度も何度も繰り返し繰り返し読みなさい。」と言いました。

その聖書の箇所は私にも欠けていて最初に神様に出会ったときに示されたみことばでした。そのことがあってからE子姉妹からの不平不満の声は届かなくなりました。そして昨夜、E子姉妹からのメールがありました。彼女からのメールは「私はこれまでの歩みを深く悔い改めて家族を愛し、お姑さんとの和解を目指して喜んで忍耐して生きることを決心しました。お祈りを感謝します」   

「愛は寛容です。親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることはありません」第一コリント13:4~8a    主の導きに感謝します。  


Posted by 金城米子 at 12:26Comments(0)