てぃーだブログ › スピリチュアル › 2014年11月

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Posted by TI-DA at

2014年11月29日

主にあるクリスチャンの姉妹へ

色々と事情があってメールアドレスを変えました。
このブログをご覧になっていましたら、
メールアドレスを登録してください。

yoneko・hanna@ezweb・ne・jp

携帯は変わりません。090-9782-1946です。

ロットが上になっているけど真ん中です。直せません(笑)
どうしても連絡を取りたい方がいますので・・・

そのお方は毎月、教会や私の働きにご協力下さっているお方です。
お名前はブログでは出せないので・・・お心当たりのお方は連絡ください。
電話番号は変わっていませんので。

スマホを四度も愛息子に壊されましたので、ipadに変えた際に同じアドレスは
使えなかったのです。よろしくお願いします。  


Posted by 金城米子 at 09:16Comments(0)

2014年11月29日

「死ぬなよ!」・・・年末のメール

35年前からの本当の友人になったS・Oさん。彼が毎年11月の誕生日に送ってくるメール。

「死ぬなよ!生きろ!何があっても生きろ!泥んこになっても生きろ!
血みどろになっても生きろ!そうでなかったら俺はお前の神を信じないからな!」

中学校卒業式に勇気を出して学校に出た私には制服はなく私服でした。
同級生も誰もかれも怪訝な顔つきで声をかけてくれる人もいませんでした。

そうです。誰ももう、私を覚えている人はいない筈でした。中学校2年生の夏休みを
最後に私は登校拒否を続けて制服もありませんでしたから・・・

教室は事前に先生から連絡で知っていましたので恐る恐る教室へ入って、名前を探し
て席に着きました。

嫌な思い出がよみがえって来て委縮している私にたった一人声をかけて来て、
便箋を渡してくれた生徒がいました。

白い便箋に書かれていたのは、大きな字で
「OOお前が生きていて良かった。
ずいぶんと心配していた。お前は絶対死んではならない人なんだよ。お前の神様が
お前を絶対に幸せにするから、だから、信じて生きろよ。お前は俺の太陽だよ。

俺のお父うが死んでから俺が家の仕事の手伝いで残飯拾いをしないといけなくなった時、
みんなは俺の事を「臭い!」って笑っていたけどお前だけは俺をかばってくれたよな。

「お父さんが死んで家の仕事をする人がいなくって弟や妹を養うためにお母さんを助けて
いるのに、何が悪いんだよ!何が臭いんだよ!お前らの方がよっぽど、臭くて残飯よりも
ウンコの匂いがするって言うのが解からんのか!バカ野郎!クラスの仲間だろう。
仲間は助け合ってこそ仲間の意味があるんだろうが!・・・って言ってくれたよな。

俺は絶対に忘れないよ。もし、俺が大人になってお嫁さんを貰う時が来たら俺はお前を
お嫁さんにするからなあ。お前が自殺をして失敗したって聞いた時、俺はお前を助けられなかった。
ごめんな。でも、お願いがあるから『死ぬなよ!生きろ!泥んこになっても、血みどろになっても生きろよ!
『行くとこ常にいばらの道あり、それに屈せず~』・・・」と。

その後、彼は国費(当時はそう言っていた)で大学を卒業して安定した仕事に就職したことを知らせに来ました。
数年ぶりで再会した彼は私の変わりように驚いていましたが「OOお前が世界で一番幸せにならんといかんのに、
お前の神様は何をしているのか?なんで、お前はこんな掃き溜めにおらんとならんのか?何とかならんのか?」
と男泣きしました。

彼はなんとか助けたいとアプローチしたけれど私は彼の足を引っ張ってはいけないと、
自分が如何にふしだらな女かを演じて彼を遠ざけました。数年後、彼はお見合い結婚をしました。

再び彼と偶然会う事になりました。私が働いているお店にお客として(お水の世界)来たのです。

それからは定期的にお店を使ってくれて、日中も仕事で(会合)お店を使ってくれ、私は10人分の
夕食を作ったりしていました。境界線を越える事はありませんでした。彼の足を引っ張ってはいけないと
心に誓っていたからです。彼の口癖に「息子たちをちゃんと育てろよ。絶対に何があっても俺たちの
手を焼かすような大人にはするな!」でした。

「年末になると自殺者が増えるんだ。そう言う事を耳にするとどうしてもお前の事を思い出すんだ。
お前ほどこの地上にある苦しみを経験している女はいないからなあ・・・感心しているのはお前は、
昔から『神がいる。神は必ず私をたすけてくれる!』で何も無いように笑っている事だよな。その笑顔に、
みんなは騙されるんだよなあ。本当は顔で笑って心で泣いているのになあ・・・」

その彼が退職した時にまとまったお金を持参して来て、「これから俺と一緒に人生をやり直さないか?」
と来ました。その時には、私は重い障碍の息子がいたので笑って断りました。

彼は熟年離婚をして悠々自適な生活を楽しんでいたようですが私は彼に会う事はなかったです。
末子の息子の為にギフトをしたいと何度か申し出たのですが丁寧に断っていました。

先月、「死ぬなよ」のメールが来ました。メールを見ながらほくそ笑んだ私でしたがショックを受けました。
彼は、二か月前に余命宣告を受け入院していたのです。最後のメールを出して亡くなりました。

遺品の中の携帯を見た息子さんから彼の死を知らされました。
息子さんは生前に「父からあなたの事を聞いていました。あなたへの未送信のメールが残っています。
父の携帯を差し上げましょうか?」私は返信のメールに「私たち世代は自分の意志よりも家族や他者
の意志を尊重して自分を殺さなければ生きられない人生を余儀なくされたのです。

ですから自分の心を立て直して生きるにはカッコ良い妄想をして生きる術しかなかったんですよ。
お父様も私もお互いに妄想を楽しんでいただけの事です。本当にお父さんが愛されていたのはご家族
だったんですよ。

お父さんの妄想を理解してあげられたらお父さんは家を出る事はなかったでしょうにと思いますよ。
お父さんの愛を確信できる事が何か合った筈ですよ」と丁寧にお断りのメールをしました。

彼の息子さんからの返信メールに「父は現金を母と僕たちへとそのままで残していました。
あなたとは金銭のやりとりは一切なかったとも書かれた手紙がありました。

そして、太陽とひまわりの関係だったとも、ひまわりは太陽を見上げて咲くけれど根は大地に
しっかり、おろしているから決して太陽には近づかないし、近づけない・・・大地はお前たちだ!
あなたとの関係は「太陽とひまわり」だったとありました・・・父を支えてくださってありがとうございました」

彼の最後のメールに新しい言葉がありました。『俺は観念したよ。お前が信じている神さんが真理の神さんって
言う事が解かったよ・・・だから神さんに俺の事よろしく頼んでくれよなあ』

彼の最後の私への思いやりのメールだったのでしょう・・・
これからも、毎年、私は誕生日に彼からのメールを待つでしょうね。

「天国良いとこ。一度は来るもんだよ」って・・・新しいメールが・・・\(☆^_^☆)/シャローム♬
  


Posted by 金城米子 at 08:52Comments(0)

2014年11月19日

聖書が教えている事の多くは人間の罪です

人生には問題が起こります。様々な悩みやトラブルがやって来ます。
問題が問題なのではなく問題に対する態度なのです。
聖書は問題にどのように向き合うのかを教えています。

責任転嫁があります。誰かのせいにすることです。
「あの人が腹を立てるような事を言ったから悪いのだ」とか。
「相手がそういう言葉を発しなかったら自分は怒らなかったのに」

そういう事なら常に自分は悪くなく、すべては相手が悪いのです。
しかし、神の前に生きるとは自分の責任を取るという事です。
痛いけれど自分の罪を見据えて行くときに初めて自分の罪を知るのです。

私と主人は離婚後も数十年間も関わって来ています。
子供たちや孫が私たちにはいるからです。

主人はアルコール依存症でしたが現在はコントロール出来ています。
しかし、主人の中には劣等感と不信感が満載ですので離婚の原因も
自分の現況もみんな「お前が悪い」で突然、火の球や槍を投げて来ます。

お互いに不足な者同士ですから一緒に生活するとお互いが苦しくなるのです。
適当な良い距離を保ってお互いに干渉しない生活がベターだという事です。

私は罪ゆえの不協和音だと知っているのですが主人の望み通りの妻にはなれません。
世間でいう性格の不一致もありますが主人は私の意見を聞くことが出来ません。
「うるさい!黙れ!」で一方的に自分を正当化して自分の殻に閉じこもるのです。

主人は家の中でも杖を突いて歩いているのですが私はその杖を恐怖に感じるのです。
油断した時に杖で襲われるのではないかと心が穏やかではありません。

バイオレンスと言う痛みが今もなお私の中では疼いているのです。
主人は私が勝手に家を出た事を裏切りだと怒り続けています。

赦してはいるが和解できない関係です。それこそ不信仰かもしれないと思っていましたが
赦す事と和解は別物だという事が示されて平安になりました。

赦せないと思う心の中には赦したら和解しなければならないと思っているから苦しくて
赦せないのです。勿論、和解も赦しの一つではありますが神様は「赦しなさい」と仰って
いるのであって「すぐに和解しなさい」と仰っていません。

主人が私に求めているのは奴隷のように従う妻であって私そのものではない事が
破綻の原因の一環であった事を主人が知ることが出来るようにとも祈っています。

主にあって与えられた平安は世の誰がも与える事が出来ない平安です。

「赦しなさい。あなたが赦されるためです」・・・赦して悔い改めるとき心が楽になり、
神の恵みに感謝して幸いを得る人生があなたには備えられています。

お近くの教会へ足を運んで下さい。どうぞ心に戸惑いのあるお方がいましたらお電話ください。
携帯電話 090-9782-1946(金城米子)  


Posted by 金城米子 at 11:14Comments(0)

2014年11月18日

苦難を喜んで乗り越えられるキリスト者

「愛は自慢せず、高慢になりません。・・・全てを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」聖書。

キリストが再臨していない現在の不完全な時代には、成長の段階があるという事です。
私たちが経験する様々な苦難や試練は成長のための訓練だと教えています。

「愛」はキリストの本質です。キリスト者の本質は神の愛に等しくなるためには訓練が必要という事です。

しかし、私たちは肉を持っている間は神の愛を実践する事は出来ません。腹の底の底では他人からの
誉れを期待しているのです。たとえ本人は気づかずともです。

死ぬほどに神を愛して人々の為に命をささげる事をしても私達は肉の人なのです。肉の人は何処までも
肉の人なのです。(生身の人間はどこまでも人間である。肉体を離れない限りは聖なる愛は持てない)

聖書のみことばは今のキリスト者の「力」であり、「道しるべです」羅針盤ですから例え目を見張るような
奇跡がなくてもみことばを実践する事でどのような苦難でもキリストに感謝しつつ我慢し、信じて期待して
忍耐できるのです。

練られた品性のためには、ありとあらゆる訓練を受けなければならない人もいますが全てのキリスト者の
みんながそうではありません。その人、それぞれですから大丈夫です(^^)/♬

クリスチャンになってからも私が受けた訓練はどん底生活です☆とことん貧しさを経験しました。
ライフラインを全て切られた事も日常的でした(笑)経済観念の未熟な私の訓練でした(^^)

私の幸いは障碍者の息子がどんなときにも私をなじらなかった責める事がなかった事でした。

障碍者の息子を神様は私の傍に置いたのはどんな困窮した境遇にも母親を信頼して黙ってひもじさにも暑さ
にも寒さにも耐えている息子の姿に私の信仰の有り方を教えられたのです。息子にとっては私がハグしてくれ
ることが喜びだったのです。主イエス・キリストはいつも傍にいて下さり守って下さっているのです。

お腹が空いている筈なのに菓子パンを二人であけて食べても息子は笑っているのです。
全部をくれとは要求はしません。一緒に分けて食べられている事が息子には喜びだったのです。

熱中症になりかけた時にもいち早く気付いて早急処置をしてあげた事を息子は喜んだのです。
その時に息子の呼吸に異変を感じて祈り心で手当てをしていて気づいたのは神がアダムに息を
吹き込んだ聖書の箇所でした。

天のお父様。この子はあなたのひとり子と等しくあなたが息を吹き込まれている息の子の息子です。
神の息の子が吹き込まれた息子です。

「主よ。アダムに息を吹き込んだように私の愛する息子に息を吹き込んで生きる者としてください」との祈りになりました。

訓練は人によって違いはありますが神様が用いようと計画されている者は、より多くの試練があるかも知れません。
しかし、その後には目を見張るような祝福と恵みがあなたを追いかけます。「祝福と恵み」「慈しみと憐れみ」は完璧です。

現在の私は私が祈ったように環境が整備されています。後は弱者の女性の支援事業の為の資金が与えられることです。
女性の為だけの施設を立ちあげて就労の場所を設けて天国の前味を経験して召されるまで共に生きる事です(^▽^)

その方向性も見えてきました。☆「あなたの忍耐をわたしは知っている」とイエス・キリストは仰っています(*^^*)
現状の中でキリストの香りを放つことが出来るあなたを主イエス・キリストは「忠実なしもべよ」と祝福なさります。

このメッセージを忍耐の中に在る愛するA姉妹へ送りたいと思います。
「わたしはすぐに来る。」「死に至るまで忠実でありなさい」

「わたしがあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。ーそれは災いではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミヤ29:11.アーメン♬~☆  


Posted by 金城米子 at 07:30Comments(0)

2014年11月14日

聖餐式

孫たちと聖餐式に臨んだ時の話です。孫の親しくしている女の子が聖餐式にあこがれて
イエス様を信じているから聖餐式を一緒に受けたいと言ってパンと葡萄酒を受け取る列
に並びました。

その時に、「ふさわしくない者は受けてはいけません」との牧師が語った事がこの幼い子供
たちの心に衝撃を与えたようで「洗礼を受けていないから、パンと葡萄酒は受けられない」と
言って辞退しました。

違反を示されたらすぐに止めることが出来る事に感心しました。
この幼子たちはふさわしくない者の意味を理解していたようです。

後で女の子が言った事は、「教会には教会のルールがあってそれを守れない者もふさわしく
ない者なんだよね。ルールって守るのはめんどくさいけれど守らなければぐちゃぐちゃになる
からね。」と言いました。

(他教会では聖餐式に洗礼を受けていなくても受けることが出来る教会があります)

普段から好き放題をしているにもかかわらずこの幼子たちは神を畏れる事を知っていました。

「イエス・キリストは愛の神様だけどルールの神様でもあるんだよね。神様のルールが聖書
なんだよね。子供も大人もみんなが神様のルールを知ることが出来るように聖書にはカナが
ついているんだよね。イエス様って本当に親切だね」

これが保育園児と小学校1年生の会話でした。私が意地悪な質問をした時に幼い彼女たちが
答えたのは神様のルールはモーゼって言う人に10のルールを石に書かせたのだよ」でした。

幼子たちは1~10までのモーセの十戒を暗記していました。聞いていないと思っていても子供
の心にはちゃんとみことばは入っていたのですね。大人の私たちはどうでしょうか?

聞いていても聞こえない者にならないようにしたいと思います。ハレルヤ♬  


Posted by 金城米子 at 07:27Comments(1)

2014年11月13日

「自我に死ぬ」って?

「自我に死ぬ」ってどういう意味ですか?の質問がありました。

簡単です。心は正しく燃えていても他人に対しては一切誹謗中傷もしない。
自分の意見が正しいと自分を主張しない。
相手の立場に立って物事を見極めて判断する。

死んだ人間は蹴っ飛ばされても何もできないのと同じで何もしないのです。
他者には敵対心を持たない。自分を殺してでも他者の救いの為に動く事ができる。

早い話がイエス・キリストのように愛を持って生きるという事です。
自我に死ねば夫婦喧嘩も出来なくなります。
聖霊に従う事がいとも簡単にできます。

他者が何をどう言おうが何をしようがすぐに赦せる心です。腹が立たないのです。
「そんな者に私はなりたい!」と宮沢賢二に言わしめたあの雨にも負けずの詩人の主人公の
斉藤宗次郎さんの生き方ですね。斉藤宗次郎さんは敬虔なクリスチャンです。

決して多くを語る者が賢きに非ず。神と人々の前において正しくあろうとする心で生きるのです。
多くの愛を実践できる者が自我に死んだ人なのです。

イエス・キリストの十字架の愛こそが真実の愛なのです。クリスチャンは十字架の愛を
実践できるようにと生きるのです。三日目に復活したキリストに万事に希望を見て生きるのです。

  


Posted by 金城米子 at 13:04Comments(0)

2014年11月11日

信仰の覚悟

クリスチャンを攻撃する悪霊(サタン)はいつどのように攻撃を
仕掛けて来るのかを考えた事がありますか?

それはキリストを受け入れてみことばに従う決心をした時からです。
悪霊はクリスチャンの心の中に「憎しみと疑いと責任転嫁」の罪で
実に巧妙に策略を持って悪霊の足場建設をしますので絶えず
みことばに立つ信仰の覚悟をしなければならいと私は理解しています。

信仰歴17年のY姉妹からの相談でした。

母がユタの付き人でどんなに福音を伝えようとしても機会がなくて、
私はそのために母から来る霊を受けて苦しめられています。

ついには母から遠く離れて土地で生活をするようになり、母とも親戚
とも疎遠になりました。なのに霊は千里万里と追いかけて来ます。

母や叔母たちが赦せない!と彼女は訴えました。
彼女が悪霊に苦しめられていると言うのは実は彼女自身が悪霊に
足場を与えている事を彼女は知らないのです。憎しみも疑いも愛の
ない行為もみんなサタン悪霊に足場を与えているのです。

私たちはキリストの義によって義とされた者、聖別されたと言う確信の
信仰があります。しかし、神の義とはなんなのかをはっきり知らなけ
ればなりません。

神と人々の前に正しい関係で生きることを切望することが出来る者。
主イエスの十字架の贖いによってキリストと同じ権威が執行できる者
なのです。

キリストが何処までも不足の私たちを赦して愛しているように私たちも
他者に対してキリストと同じ心で生きることです。そして日々に「悔い改め」です。
神から出た者は悔い改めることが出来ますがそうでない者は決して悔い改めません。

また、神に罪赦されたと確信できる者は人の悪を思わず赦せます。
ましてや、自分を産んでくれた母親を愛することが出来ない事はもはや、
その人のうちには神は働くことが出来ません。「神は愛」だからせす。

「愛のないものは神を知りません。なぜなら神は愛だからです」とみことばは教えています。

内住する聖霊の力を増し加えるのは自分自身が愛と赦しの実践なのです。
クリスチャンには内住する聖霊が与えられていて日々の罪の悔い改めを
導いてくれます。

あなたは神から出た者ですか?それとも悪霊に支配権を与えた者ですか?
「汝の敵を愛せよ」とのご命令を主イエス様はクリスチャンに命令しています。

「わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛しなさい」
「愛は全ての罪を覆います」

信仰の覚悟です。キリストが命じられている事に素直に従うことが信仰であり、
世的な者から天国人へ移行したと悟り世的な思考や行動は捨てるという覚悟です。

Y姉妹に幸せの頂点を味わうことが出来るように下記のみことばを送ります。

「愛は寛容です。愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反する事をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、
すべてを耐え忍びます。愛は決して絶える事がありません。」第一コリント13:4~8a
  


Posted by 金城米子 at 08:20Comments(0)

2014年11月02日

私たちの戦いは血肉ではない!?

私たちの戦いは血肉ではなく、つまり人ではないという事です。
サタンや罪との戦いだと言う人もいますが私たちはサタンや罪とは戦えません。

私たちに変って戦って下さるのは内住する聖霊と御使いと天使です。
私たちの戦いは主イエス・キリストへの信仰がなくならないために戦う事なのです。

罪を犯さなければ生きらない私たちです。少しの知識を得たからと言って、
兄弟姉妹に誇ってしまう弱さを持ち合わせている私たちです。

また、本当は自分の方が他者よりも劣っているのに気付かないでいて、
自分よりも劣っていると思われる人が用いられて疑問視する。

他者が称賛されると自己憐憫や妬みがムラムラと頭を持ち上げて来る弱さもあります。

私たちの戦いは霊的な戦いであると言うのは心の中に妬みや疑いを引き込んで、
自己憐憫や自己卑下、自己嫌悪に陥ったり、また、牧師やリーダーたちを疑ったり教会
や神の家族の群れから離れようとする心です。

人との集まりの中ではそのような事がいつでも起こります。その時には御言葉を思い起こして下さい。

私は教会の兄弟姉妹が牧師にまた、趣味の会の仲間が師匠に称賛されると一緒に喜びます。
それは、サタンに足場を与えないためです。自分の心や信仰を守るためです。

妬みや疑いは分裂を起こします。自己過信も自己卑下も自己嫌悪も自己中心から来ることを
理解してください。神は私たちを鍛錬して下さっているのです。もっとも素晴らしい器にするためです。

普段から身近の人の良い所を覚えていて機会があれば褒めちぎってあげるのです(^^)

聖書の素晴らしさは人の心の底にあるものに触れて気づきを与えて軌道修正を牧師でもなく
リーダーがでもなく人ではなくて聖霊が導くという事です。聖書と聖霊は一つですから聖霊の
助けがなければ聖書を理解する事も従う事も出来ません。

「聖霊に満たされて支配されなさい」・・・私たちが神様や人々との正しい関係でありたいと願うなら、
どうしても聖霊に満たされて支配される必要があるのです。
人に支配ではありません。聖霊に支配なのです。聖霊に支配されている証はその人の実を見る事ですね。

その人に御霊の実が備わっているのかですね。九つの御霊の実の一つくらいは備わっているのかなあと
私は自身は思うのですがなかなかです。あなたにはいくつの実が備わっていますか?

「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」ガラテヤ5:22~23.  


Posted by 金城米子 at 13:29Comments(0)