てぃーだブログ › スピリチュアル › 2011年12月

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Posted by TI-DA at

2011年12月17日

決してあきらめない!

M子姉妹に伝えます。あなたが病気を持っていてもあなたがヘルパーの資格をとって老人介護をしたいと願っているなら絶対に大丈夫ですからあきらめないで下さい。

資格試験に落ちたからと嘆くことはありません。老人介護は資格が無くてもあなたに合った良い方法で出来ると思います。また、もう一度試験に挑戦したらよいと思います。ゆっくりとね。死ぬまでに資格が取れたら良いと気楽にかまえて何度でも挑戦したら良いじゃありませんか。

私もあきらめないの心で多くの苦難を打破して来ました。難病児の息子を本土の病院に連れて行くときには、行政の壁と病院の思惑とが立ちはだかりました。決してあきらめない心で多くの問題を打破して来ました。決してあきらめない心は必要な事です。

「神様に委ねる」とあきらめるとは違いますからね。最善を尽くして神様の介入を待つのです。努力して神様の采配を待つ事が「委ねる」です。努力も必要です。あきらめない心も必要です。棚から牡丹餅の信仰は怠惰の霊です。他者の言葉に振り回されないであなたはあなたに出来る努力をして下さいね。

人は誰でもこの世での目的があって生まれて来たのです。たとえ、病気があっても、重い障害があっても、ベッドに寝たきりの人であっても神様の目的があってこの世に存在するのです。そして、M子さんの思いも志も神様から与えられたとしたら誰が反対できるでしょうか?

あなたの思いが純粋なら資格が無くてもあなたがその事を望めば必ず道は開かれますからね。私も老骨にムチ打って神学校卒業をあきらめませんでした。あきらめないで得た大切なものが沢山あります。クリスマス会でお会い出来ますようにお祈りしていますからね。






  


Posted by 金城米子 at 01:25Comments(0)

2011年12月09日

親業を考える

カウンセラーの学びの中でのことです。親業に失格者の私が必要に迫られて親業を学ばされているのは何と説明して良いのか戸惑いながらも「親業」のタイトルの本から印象に残ったことを記したいと思いました。

人間関係が健全であれば「別」であることを許しておける。この離別の態度が強ければ強いほど相手の独自性を許容し、相手と自分の行動の違いを受容できるようになる。

「あなたは、自分の人生をつくりあげて来たではありませんか。今度は子供にそれをやらせてあげなさい」

あなたはの子供は、あなたの子供ではない。待ち焦がれた生そのものの息子であり、娘である。
あなたを経て来たが、あなたから来たのではない。あなたと共にいるが、あなたに属していない。
あなたは愛情を与えても、考えを与えてはならない。なぜなら、彼らには彼らの考えがあるから。
あなたが彼らのようになる努力をしたとしても、彼らをあなたのようにすることを求めてはならない。
なぜなら生は後戻りしないし、きのうのままにとどまりもしないのだから・・・

私的な意見です。
これは親子関係のカウンセリングの学びですが大人、夫婦関係にも充分あてはまると思いました。
我儘な私は夫婦であっても脳みそが別だから互いの行動も受容すれば良いと思うし、拘束されるのは嫌だし、奴隷関係の夫婦もごめんだし・・・

家事も必要に応じて互いに助け合うことも必要だし、どんな時にも互いの行動を理解する事、それはもちろん信頼関係が根っこにある事が条件ですけれど・・・

  


Posted by 金城米子 at 01:15Comments(0)

2011年12月05日

癒し主キリスト

真夜中にも関わらずに電話をして来て苦しさを訴えていた女性。彼女が全く電話をして来なくなりました。
彼女が電話をしてくるのは「今日は礼拝ですが迎に来てくれますか?」と週に一度の日曜日だけになりました。送迎の間は彼女は、過去に学んだ歴史や宗教文学などを話します。私はただ、黙って聞いているだけです。返事を求められたら私は彼女の知識をただ褒めるだけです。

その内に彼女は人類の歴史も知識も知恵も聖書と関連づけて話し出します。話にはきりがないようです。喜んで話をしています。彼女は完全に癒されました。彼女が言うには、私が元ユタであったから何か特別な事をするのだろうかと思っていたそうでした。私はただ彼女に「主イエスを信じなさい。あなたもあなたの家族も救われます」を繰り返していただけでした。

「癒したら信じる」と言う彼女に私は「シロアムの盲人」の話をしました。当時はイエス様が目の前に見えたから癒されることが分かったけれど現在はイエスの御名によって万事が聞かれるといい続けていました。
決して[私が」を前面に出しませんでした。直接、彼女の体に触れる事もせず簡単に祈りました。

「祈りは聞かれていますからね。後はあなたが信じるだけですからね」と言いました。彼女は私に不満を持っていましたが

「自分を受容してくれている唯一の人」と思っていたそうでした。

「私には何の力もありません。ですから主イエス様が私を受容して下さっている通りの事をあなたにしているだけです」と伝えました。

彼女は一瞬、私をじっと見つめて言いました。
「イエス・キリストこそ私の神様です。アーメン」

私達にはイエス・キリストを見せる事は出来ません。しかし、私達を通してイエス・キリストを見るようには出来ます。癒し主イエス・キリストの御業は、私たちが激しく悪魔と戦っているような祈りをして見せる事ではないと私的には思います。全身全霊をかけて主イエスを愛し、隣人をも同じく愛する事で生きて働く主イエスを体験できます。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」マタイ22:37・39  


Posted by 金城米子 at 10:32Comments(0)

2011年12月03日

ひとつ一つの出来事に・・・

未熟児で生まれた私でした。間引きをする事を暗黙の了承での早産だったと聞かされてながら成長しました。良い境遇だったとはお世辞にも言えません。

死ぬほどの病を次から次へと経験して癒されて今日まで来ました。20人くらいの人生を経験しました。その殆どが暗闇の人生経験でした。それでも神様は私と共にいてくれていました。私が光に来るようにと神様はとうとう重い障害の息子を私に送って来ました。

周囲の人達は、私には決して息子を育てる事は出来ないだろう。すぐに施設に入れっぱなしにするだろうと思っていたそうでした。障害が重くても子供の頃は、周りの人も同情してくれますから大丈夫です。闘病生活は言葉では語る事は出来ないほどの悲しみを経験しました。

乗り越えられたのは息子が時々見せてくれる笑顔と寝顔でした。神様が私の為に与えてくれた笑顔と寝顔でした。天使のような笑顔と寝顔でした。

けれども大人になると周囲の人の見方が違って来ました。いわゆる3Kの目です。目は口ほどにものを言うとあるように何も言わなくても目は、はっきりと心の思いを語ります。「汚い」「臭い」「気持ち悪い」の目です。でも、神様は万事を益として下さいます。神様に信頼し、万事に感謝することで私の内面を優しく、強くし、「赦す心」「憐れみの心」を大きく与えてくれました。

理不尽な事、不条理な事が始終起きます。でも、賛美の中に神の力を得て、祈りの中に神の働きを感じる幸いは安穏とした生活をしている人々には決して味わう言葉で来ません。神を味わう生活は苦難の中に大きく味わう事ができます。苦が苦ではなくなる幸いを全ての人が味わって欲しいと思います。

難病があっても神様は、喜んで生きていけるように力を与えてくれます。この世の事はわずか70年~80年ですけれど霊の世界は永遠ですからね。天国も地獄も永遠です。永遠の御国でも地上の仲良しの人々と共に楽しい時を過ごしたいと切に願います。

「神のなさる事は、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見極めることができない」伝道3:11  


Posted by 金城米子 at 10:31Comments(0)

2011年12月03日

弱さを愛される神

預言者のエリシャは、アラムの将軍のナアマンに対して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすればあなたはきよくなります」5:10.と言いました。エリシャは、直接ナアマンを迎える事もしないでそう言いました。ナアマンは、エリシャの前に「憐れまれる者」としてではなく、地位ある者、力ある者として扱われる事を望みました。人間の持つ惨めな自尊心です。

自分では、どうにもできない病(ハンセン氏病)にかかっていてもナアマンは「自尊心」を前面に出してエリシャが出て来ない事で怒って去ります。ナアマンの希望した癒しはエリシャが彼の幹部に手を当てて祈って癒すことでした。形式的の祈りならおまじないです。神様は人間にとっては大きな奇跡を起します。

人間にとっては大きな奇跡でも神様にとっては小さい事です。偶像崇拝や占い、まじない的なことは人間にとっては小さい事ですが神様にとっては大きな事です。それは命の死であり霊の死なのですから慚愧に耐えません。しかし、ナアマンの家来たちは冷静でした。家来はナアマンを説得します。

ナアマンは自分の高慢を示されて悔い改めてヨルダン川へ行き、七度身を洗いました。見事に癒されたナアマンは再びエリシャのもとへ捧げものを持って行きます。人間にとってささげものをする事は当たり前ですが神の福音はそうではありません。それは、神の御わざを人間のレベルにまで引き下げるものです。

ナアマンからのささげ物を断固として受け取らなかったエリシャはナアマンの信仰を確立しました。ナアマンがエリシャではなくて神を見る事が出来たのです。ナアマンに「ヨルダン川で七度身を洗いなさい」と言っただけでした。神の御言葉に信頼して従った時に癒されたのですね。

私達の主イエス・キリストは癒し主です。回復の主です。従う方法と応答の祈りを訓練出来る様にしたら良いかも知れません。心を忙しくしていると神に従う事も神の御思いも悟る事は難しいと思います。長い間、潔癖症で苦しんで来た友よ。原因不明の皮膚疾患で引きこもりになっていると言う友よ。あなたがたは、必ず癒されますから大丈夫ですよ。主に信頼して下さい。

病も人生の休みが与えられたと感謝する事が出来たら良いかも知れません。人生に休みが与えられたのは明日のためですからね。将来に飛躍するためのステップですからね。休みは希望です。お祈りしています。

『静まってわたしが神であることを知れ』詩篇46:10  


Posted by 金城米子 at 09:52Comments(0)