てぃーだブログ › スピリチュアル › 2012年07月

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2012年07月30日

神様からのメッセージと思って下さい

28年前、末子がお腹にいるときにバイク事故で切迫流産で入院した時に同室になった女性と親しくなりました。彼女も切迫流産で入院していました。M子さんと呼びたいと思います。その当時には、大出血をして、とてもじゃあないけれどまともな出産は出来ないだろうと誰もが思っていました。

検査結果でもしかしたらと言う覚悟をしなければならない事態で産むか中絶するかと迷いがありました。同室のM子さんとは親しくなっていたのでその事を話しました。

M子さん「妊娠して事故にあってこの病院に緊急入院することになったのも偶然じゃあないと思うよ。偶然なんてこの世の中には何一つとしてない事よ。事故で子供の健康が保障されないと言われて産むことに不安があるなら産むか中絶するかは選択するのは、あなた自身にあるけれど産んで育てることに大きな意義があるんじゃあないかと考えてみたらどうですか?」

わたし「・・・」

M子さん「それから米子さんはこれまで沢山の夢の全部が両親の無理解や家の事情で断念せざるを得なかったと言っているけれどそれは違うと思う。その都度、その度に米子さんは自分で選択をしたんですよ。神様が私たちに平等に与えたのは良心と選択する心だよ。神様はいないと思う人にも良心を基準にして選択して生きる。それで社会秩序は守られ平和でいられる。自分の不幸は誰のせいでもない、自分が選択したんだって認められたらこれからの人生に希望が与えあられると思うよね。」

彼女は無事に男の子を生んで退院していきました。退院する前に彼女は自分がクリスチャンであることを打ち明けました。
M子さんは大好きな10歳年上の姉が自殺したことで信仰を持ったと言っていました。M子さんの姉と私が同年であることもM子さんと私を近づかさせたと思います。

M子さん「いつか神様が米子さんと生まれてくる子供を通して神様の働きを望まれていると私が言った事を思い出してくださいね。この事は私を通して神様が米子さんに語っているのだと思うからね。お祈りしていますよ」

ふと、今朝このことを思い出しました。それで孫のバイオリンの先生にこの話をしました。毎回、私は先生に証を10分ほどしています。一日一善とは言わないけれど証をしなければ収まらないのです。

孫が言いました。「おばあちゃんはイエス様を一生懸命に愛していることを確かめずにはおれないんだね。イエス様オンリーに生きることで埋められない心の穴があるんだねえ。誰もおばあちゃんを支えきれなかったんだね。自分で一生懸命に頑張って来たんだね。」と・・・おませな小学校6年生です。将来はりっぱなカウンセラー伝道師です(苦笑)  


Posted by 金城米子 at 00:06Comments(0)

2012年07月28日

自我に死ぬとは

自我とは自己中心的に物事を判断する。一切のものと対立すること。自我に死ぬとは自己主張しないことです。自分を正当化しないことです。自我に死ぬとは、聖書から具体的にお話しましょう。自我とは自分の考えに固執することです。

自我に死んだ人は、柔和で謙遜でへりくだっています。ガラテヤ5:22~23の御霊の実が備わります。御霊の実とは「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」

イエス・キリストが十字架にかかられたのは自我に死んでいたから天の父神の言いつけ通りに十字架に死ぬことが出来たのです。イエス・キリストは十字架を拒否する事も出来ました。イエス・キリストが十字架に死ななければ人類の救いは永遠にありませんでした。

自我に死んだ人には、新約聖書に出てくる12使徒たちがいます。自我に死ぬことが出来たからこそイエスの宣教のために殉教できたのです。

教会の信徒同士の交わりの本当の意味も自我に死んで兄弟姉妹を生かす事なのです。自我に死ななければ互いに愛し合う事は出来ないのです。「もし互いに噛み合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい」ガラテヤ5:15.のみことばではクリスチャン同志の関係を戒めています。

自我に死ぬことは、誰も自分を誇らず誰も他者を支配しないのです。みことばに従う事が出来るのも自我に死んでいるから従順に従えるのです。「おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることではないでしょう」ガラテヤ6:4のみことばです。  


Posted by 金城米子 at 17:32Comments(0)

2012年07月28日

神様への不満は自己憐憫の裏返しですよ。

「クリスチャンハ選民意識があるよね。それで上から目線だよね?」と言ったノンクリスチャンのAさんでした。彼は私に「僕は絶対に説教じみた話は聞かないからな」という事を宣言しました。

私「誰があなたにクリスチャンは選民って言ったかはわからないけれどね。神様がチョイスしたという事は理解できるけども選民って言うのはイスラエルの民の事だと私は理解しているけれどね。」

彼はAさん。55歳のリストラの怒り沸騰中の人でした。奥さんも子どもさんと家を出たという事でした。彼の中には怒りがいっぱいだから神様の話は聞かないよ。の声がありました。ただ、知人に何となく紹介されたからと言っていました。

ふてくされているAさんに火山の絵を描いてもらいました。リアルに描いてくれた火山の絵に頭と両手両足を書いてもらいマグマを書かせてAさんの名前を大きく書きました。

「Aさん。これがあなた自身なんですよ。マグマはあなたの怒りです。不平不満ですよ。マグマは外へ出て行くしかないけど小さな穴からも噴出しますよね。誰も火山に近づきたくないですよね。やけどしますし、巻き添えで死ぬかもしれない」

Aさんの思いはしばらくじっと黙って絵を見ていましたが「キリスト教と言うからなんか神様の話をするのかと思ったら意外ですね。確かに今の僕は火山状態ですね」

キリスト教は神がかり的な怪しい話はしません。問題が何であるか、そしてその問題を解決するにはどうすることが一番なのかを本人に気づかせることを第一にします。

聖書の登場人物の中からダビデ王の話をしました。真面目に仕えていたサウル王から妬みをかって命からがらの逃亡生活にピリオドがと思いきや彼は自分の息子からも命をねらわれ逃亡生活をします。ダビデ王の経験は私たちの誰にでもある妬み、疑い、憎しみ、自暴自棄、混乱、殺人にまで及ぶ人間の感情の怒りの持つ醜さを語っています。

「怒りは神の義を全うしない」と聖書にあります。「妬み」は人間を破壊することをAさんと話をしました。だんだんとAさんは静まっていき話に同調してくれました。

Aさん「僕はユタからキリスト教になったあなたに会って見ないかと言われたとき、普通の神がかり的な話をするのかと思っていました。理にかなった話ですよね。確かに僕の中には怒りしかない。今までずっと怒って生きてきたような気がしますね本当は誰のせいでもないんですよね。全て身から出た錆ですよね」

問題の起源は自分にある事を認めるのは難しいです。特に自己憐憫と言うのは厄介なのですね。神様から人々から自分を遠く引き離してしまう自己憐憫であり、不平不満は自己憐憫であることを説明するとAさんはキリスト教にこそ真理があるのですね。と言ってくれました。現在は、週に一度一緒に聖書のヨブ記を学んでいます。

Aさんは別居中の娘さん達とも良い関係が出来ていると話してくれました。変えられたAさんが再び家族の回復をする日も近いでしょう。仕事は畑違いですですが懸命に頑張っています。主の憐れみに感謝します。

「鳥の子が神に向かって泣き叫び、食物がなくてさまようとき、鳥にエサを備えるのはだれか」ヨブ記38:41



  


Posted by 金城米子 at 09:04Comments(0)

2012年07月27日

牧師の陥る罠

教会生活で思わされたことは、牧師やクリスチャンが落とし穴に落ちている事に気づかないでいることでした。聖書には裁くなとあります。「さばいてはいけません。そうすれば自分も裁かれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」ルカ6:37のみことばです。

私たちの中に怒りがある時の状態は、人を自分の思い通りに罰しようとする怒りがあるのですね。人を罰することによって自分に満足感を得ようとしているのです。

相手が苦しむことによって自分が満足を得ようとするのです。このような恐ろしい事に気づかないでいる牧師やクリスチャンにいることは本当に残念です。本来同じ神のみことばで養われているクリスチャンが基本的なことに気づかずに延々と裁き続けている事態を経験しました。

牧師もクリスチャンも人間だから仕方がないから赦そうと自分を制御することに必死でした。でも、それは本当に貴重な経験でした。この経験を通してカウンセリング伝道者としての知恵が与えられたのだと感謝しています。

私たちはイエス様との御思いとは遠くかけ離れた生き方をしてる事を認めなければなりません。イエス様は私たちの罪を赦すために十字架で死なれ、墓に葬られ、三日目によみがえられたのです。

神様に赦された人を赦せないでいるのは神様に楯突いている高慢の罪人です。「赦し」「さばき」の権威はイエス様だけにあるのです。私達には何の権威もありません。なのに延々と信徒を裁いている牧師やクリスチャンを見聞すると悲しくなります。

自分こそがイエス様に赦されなければならない存在であることを知ってほしいと願います。教会から離れてしまった弱い信徒の訪問を受けます。彼らが教会で受けた心の傷は少々の事では癒されません。

聖書を知らない人にイエス様を語る事は簡単です。教会で傷を受けた人は一筋縄ではいきません。まず、泥を全部吐かせます。吐く物が無くなった時にみことばで語ります。聖書には失敗をしたいろんな登場人物が出てきます。

信仰の父と言われた「アブラハム」は幸いの基の人でした。ヨブは失うことの悲しみを知った人でした。モーセは柔和で謙遜な人でした。ダビデは神様によって罪を赦されることと悔い改める事と自分に神が必要であることを知っている人でした。私たちは聖書のと往生人物を通して神様の忍耐と寛容を知り感謝の心を教えられています。

神様が私たちに臨まれている事は信仰です。

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることがな苦、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16

神は信仰にのみよって私たちを救われようとしました。信仰とは

1、福音に関する知識
2、福音に対する同意
3、福音を受ける決断
4、福音に従う行動

のことです。神様は救われた人への愛も祝福も永遠に変わりません。その祝福の代表的な事は、

1、平安(ローマ5:1)
2、目的(絵pw祖2:10)
3、力(ヨハネ7:37~38)

感謝を以て神様の前に出るとき私たちは心砕けた者、悔いた心でありますから「さばき」も「赦し」も神の御手にある事を知るでしょう。自分自身には何一つ権威がない事を感謝できるでしょう。お祈りします。  


Posted by 金城米子 at 12:57Comments(0)

2012年07月26日

正義を振り回さないことを教えいる

夏休みで孫たちが遊びに来てくれているが学校の友達から遊びの誘いの電話が入ったので孫に聞いた「どこでどんな遊びをするのか意味もなくあちらこちらは良くないよ。お金がなければ行くことが出来ないのなら前もって計画も櫃よyだからね」

孫たちは「OOたちはお母さんの財布から黙ってお金を取ったりするけどそれでお金を使って遊んでいる」と話したので私は注意したのは、悪い事を平気でしているお友達には絶対に「それは悪い事だから駄目だよと言ってはいけないよ。」でした。

そして「さあ。そういうときにはどうしたらいいのかね?」と聞いた。

孫たちは「黙ってそのお友達から離れる。関わらない事でしょ?」と言ったので

「そうだよ。悪い事をしている事は自分でも知っているんだからね。そういう人にあえて正義を振りまわす必要はないからね。月光仮面は過去のヒーロー。ウルトラマンもドラマのヒーローだからね。悪とは絶対に交わらない事だよ。イジメのターゲットになる事は間違いないからね。誰もあなた達を助けられないからね。静かに早く離れる事だね」

結果、今日も夕方まで婆ばあの部屋で遊んで帰ったと言う訳でした。これから夏休みが終わるまで孫たちで家はにぎわいそうです。感謝
  


Posted by 金城米子 at 22:39Comments(0)

2012年07月26日

楽に生きる方法は?と聞かれて・・・

先ほど友人のK子さんから電話が入り、すぐに訪問するから話を聞いてと言い10分後に訪問してきました。片づけの時間もないの?状態でした。

K子さん「yonakoさん。どうしたら楽に生きられるのかねえ?説教はしないでよ。真面目な説教は疲れるしねえ」

yoneko「秘密とプライドを持たない事。誰にもね。そしたら楽ちんだよ。間抜けに見えるかも知れないけれどね。とってもシンプルで楽ちんだよ」

友人のK子さんは、しばらくだんまりでした。

K子さん「そうだよね。yonekoさんの生き方がそうだもんね・・・バカにしている人もいるけれどyonekoさんは全然気にならないみたいだしね」

yoneko「私の中には偏見や差別思考の人の事はきにならないよ。だってその人たちと生涯付き合うわけじゃあないしね。嫌だと思ったら離れていくだろうしね。また、避ければいいしねえ。どうでもいいんだよね。他者の思惑を気にしていたら疲れるだけだよ。聖書と伝道の事だけだよ。考えるのはね」

間抜けに見えるかも知れない、ばかに見えるかも知れない、正直に書く仕事をしないで生きることは本当に楽ちんですよ。年を経てこの真実を知ったですね。そうしたら意見衝突があった頑固爺の主人とも仲良くなれましたよ。

「私もドジだけどあんたもドジだね。ドジが二人で一人前だね。それが解かるようになるまで何十年になるかね?」と言う私に主人が言ったのは「長男はいくつになったかね?あれの年よりも一年足せばいいさあ・・・」なので「おとう。違うでしょ?くっついたり離れたりの時間があったでしょ?」という私に主人が「お前は時々旅行に出たかと思ったら良いお土産を持って帰って来たなあ・・・」私は返す言葉がなくてじゃんじゃあんでした。

主人と結婚したのが22歳でした。二児の男児を生んで離婚したのが30歳でした。33歳に出来ちゃった結婚で一児儲かって離婚し、35歳に私が再婚して末息子を生んで二年目に離婚して、忙しい人生でしたね。その間も主人とは何かとつながっていて息子たちは主人の息子のような関係です。腐れ縁と言うか何と言うか?ですが・・・

主人と再び家族になったのが18年前くらいかなあです。主人にしてみれば別れていた時期は私が遠方に旅行に行っているんだと考えるようにしていたという事でした。疲れたらどうしようもなくなたっらきっと帰ってくると妄想していたそうです。

そういう訳で主人が言うには長男が47歳だから48年間連れ添ったと考えている幸せな人ですね。主人の言うお土産と言うのは三人の血のつながりのない息子たちの事です。特に28歳になる重度の障碍者の末の息子のことは本当に愛しいらしくおむつ交換もこまめにしてくれて食事の世話もしますので私は心の中で手を合わせています。

末息子が体調不良になった時には、泣きながら世話をしていました。心が熱くなって感謝と悔い改めを主人と神様にしました
お互いに心の通い合う会話はないけれども「オイ」「コレ」「アレ」だけで相手の要求が解かるのだから何とも妙な具合ですけどこれもまた夫婦の機微とでもいいましょうか。不承不承納得している煮ても焼いても食えない性悪婆ばあですけどね(笑)

だいぶ話は逸れたけども自分が人に対して正直であればよいのであってそれを相手に強要しない事が家族仲良くのコツです。そうすればだんだんと皆が正直になれるし楽ちんになれると思う・・・そうでなくても自分は正直に生きる事を優先する。

話を聞いていた友人は満足して帰って行きました。「私も今日は旦那のために美味しいのを作ってなかよくするさねえ」と言いながら・・・プライドゆえに主人や奥様を不足に思うのですね。「私にはこの人で十分なんだ」と感謝の心でいれば不足は満足に変わるのですよね。

K子さんはやっぱり離婚は止めようと言いました。主人に黙って借金したことを心から詫びて見栄を張らなければならない友人たちとは距離を置こうと決心したのですね。私はお説教はしません。出来ません。するのは家族との出来事を話すだけです。それで何となく万事が益に変えられていくのだから神様も本当に冗談が大好きですなのですね。アーメンです。
  


Posted by 金城米子 at 17:06Comments(0)

2012年07月26日

自分が誰の支配の中にいるかを知ってください

55歳の女性E姉妹です。このブログを見て下さればきっと理解できる筈だとE姉妹や同じような人に連絡しています。もともと霊的に敏感な彼女でした。彼女のいい加減さに私は何度も苦笑させられたものですが面と向かって指摘すれば逆切れする性格なので彼女もまた祈りの課題の女性でもあります。

彼女は何度か精神統合失徴症のために入退院を繰り返していましたが現在は癒されて通院はしていません。子供のころからいろんなことには敏感で他者の話には的を得た意見を言うのでユタの好きな人、占いを信じる人には魅力を感じる人も多くいました。

彼女と他に二人の女性で3対1でのカウンセリングをしました。月に一度はその集まりを持っています。そのカウンセリングの中で、私が聖書の登場人物のモーセの話をしました。すると彼女の中に怒りが出て来たのが分りました。彼女に言わせれば聖書も一人のアリステアスと言う人物が書いたと言い、信じるに値しないと言ってけんもほろろでした。

下記の事は私が調べた事実ですので紹介したいと思います。お役に立てれば感謝です。

「アリステアスについてお知らせしましょう。アリステアス(Arfsteas<ラ・独・英)・Aristee<フランス>旧約偽典「アリステアスの手紙」の著者とされている人物。これはアトレマイオス2世の宮廷冠史の兄弟フィロクラテス宛て書簡(ギリシャ語)の体裁をとった物語的文学で、実際の著者は紀元前2世紀ないし1世紀のアレクサンドリアのユダヤ人です。

プトレマイオス2世により招かれた72名のユダヤ人がアレクサンドリアでヘブル語の律法をギリシャ語に訳した話を大きな枠として、プトレマイオス1世がエジプトへ捕え移したユダヤ人の釈放、王から大祭司への贈り物、エルサレムと祭祀階級、大祭司による律法の解説などの記事を含んでおり、報告は全体として史実性に乏しいが「七十人訳」(LXX)伝承史に関する貴重な史料であります」

E姉妹にアリステアスの事を詳しく聞かせてと言いますと怒りを露わにしました。彼女は名前だけを知っていて恐らくテレビかなんかで知ったと思います。強気に出て来たのですがクリスチャンは正確性を求めてしか話をしません。それで、私は「その話は後日に正確な情報をお伝えしましょう」と話を終えました。

キリスト教はどこまでも史実に基づいて事実と真理を語っています。そして、言葉を大切にします。事実と真実を混濁していることにも気づきを与えてくれるのが素晴らしいのです。キリスト教的なカウンセリングを学んで理解できたことは、私のようにサー高生まれと言われた人が経験したり感じたりすることを決して否定しないのです。

「それは、あなたにとっては事実ですよ。事実ですけどそれは真理ではないのですよ」と前置きをします。私が幽霊体験を牧師にしたときに「それは事実ですよね。でも、それは真実ではないですよ。事実と真実とは違う事を知っていますか?」と言われて、真理の話を聞きました。

自分自身を否定さrていない事も嬉しかったのですが事細かく人間の持っている潜在意識や思い込み。刷り込み教育などの与える影響を教えてもらい感動しました。

牧師は言っていました。「自分が今、誰の支配の中にいるのか、自分の思考や行動を吟味することは大切ですよ。まず、座して祈る(考える)。立つ(足を踏み出す前に足元の備えと方向を見定める)。歩む(右にも左にも逸れることなく、走るべきか、ゆっくり歩むのか、留まるべきかを臨機応変に取り入れる)。

状況判断を誤らないように信仰生活をすることが良いのですけれどね。それができればキリストの支配にいる事が解かる方法です。支離滅裂・突発的な行動・疑心暗鬼・誹謗中傷する行動や思いは悪魔の支配下にあるという事ですけれどね。なかなか、悔い改めることが出来ないのもまた、人間の弱さですよね」

今は亡き牧師の教えが時折思い起こされて来ます。初めに真っ直ぐで聖書を正しく解釈することに徹していた先生に出会える機会を与えてくれた神様に感謝しています。恐らく私は聖い水だけを飲む必要があったのかもしれません。軌道修正の難しい私でしたから神様は、私が泥だらけ、混濁した世界から完全に足を洗い抜け出すためには沖縄に二人といないM牧師に出会う必要があったのだと心から主イエス様とM牧師を感謝しています。

「何事も自己中心からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」ピリピ2:3~5  


Posted by 金城米子 at 11:49Comments(0)

2012年07月25日

セルフイメージを持つ

中川健一先生の成長セミナーから学んだことです。

人は誰でも正しいセルフイメージを持たなれば豊かな人生を歩むことはできません。クリスチャンのセルフイメージとはなんでしょうか?それは天国人であるという事です。この世で肉体を持って生きているが霊的には天国人であることをいつもイメージするのです。

以前にも山上の説教についてこのブログで話をしたのですが山上の説教は弟子たちとそしてこれからイエス様を信じ受け入れる人々に向かってイエス様が熱いまなざしを向けて「あなたならできる}と語られたのでした。

イエス・キリストの公生涯の最初のメッセージは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)でした。「神の国」も「天の御国」も同じです。神の国こそがイエス・キリストの宣教の中心でした。この神の国とはメシア的王国、つまり千年王国のことです。

神の国には

1、王の存在  2、王の権威  3、王の民

の三つが必要です。王とは、主イエス・キリストのことです。私達がすぐに考える地理的な概念は、この言葉には含まれていません。神の国には信じる人の心の中にある神の支配という意味もあります。

「だから神の国と神の義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えてこれらのものはすべて与えられます」マタイ6:33。

山上の説教を紹介します。

1、心の貧しい者は幸いです。(マタイ5:3)

心の貧しい人とは自分の必要を認める事の出来る人、悔い改めの心のある人の事です。

ダビデはこのような性質をもった人物です。

*主の戦士       (Ⅰサムエル17:47) 

*恵みを受けた罪人 (詩編32編・詩編51編)

*詩人          (詩編23編)

2、悲しむものは幸いです。(マタイ5:4)

クリスチャンであっても他の人々と同様に問題に直面します。そして、信仰者であるがゆえの苦難もあります。そのような時にはヨブを思い出しましょう。ヨブは、悲しみの中から次のようなレッスンを学びました。

*試練は罪の結果だと考えてはいけない。

*人の言葉は助けにならない。

*神の恵みは十分である。

3、柔和な者は幸いです。(マタイ5:5)

柔和とは、弱さのことでなく、自己制御できる能力のことです。また、客観的に自己を評価できる人の事です。モーセこそ、この条件にぴったりの人物です。

「さてモーセと言う人は、地上の誰にもまさって非常に謙遜であった」民数記12:3

*エジプトでの40年間(自己能力の開発)

*ミデアンでの40年間(無力さの発見)

*出エジプトの40年間(柔和な性質の開花)

4、義に飢え渇いているものは幸いです(マタイ5:6)

これは神との関係において、他人との関係において、正しく生きたいと願う事です。義を激しく求めた人として、第一番目に名前を挙げることが出来るのはパウロです。

*律法の義を求めた人

*神の義を知った人

*神の義のために燃えた尽きた人

5、憐れみ深い者は幸いです。(マタイ5:7)
助けを必要としている人々への配慮が、この「憐れみ」です。良きサマリヤ人は、この憐れみを実際に行動で示した人です。(ル10:30~37)。インドのカルカッタで奉仕したマザーテレサは、現代人に対して最も雄弁に「憐れみ」が何であるかを語る神の器です。

*自らが憐れみを受けたと知る人

*隣人の必要に敏感な人

*見返りを期待しない人

6、心のきよい者は幸いです。(マタイ5:8)
これは裏表なく生きる人、動機まで清い人のことです。この性質をもった人としてステパノです。彼は聖霊に支配された人物です。

*人格が変えられた人(天使の顔をした人)

*力に満たされた人(敵を論破した人)

*見えないものを見た人(神の右に立つイエスを見た人)
「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、こう言った。『見なさい天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます』」(使徒7:55~56)

7、平和をつくる者は幸いです。(マタイ5:9)
真理は人々を二分します。そこに争いを作り出します。神第一に生きようと思えば、すぐにこの世からの攻撃を受けます。しかし、だからと言って、クリスチャンは自ら争いを作り出すものではありません。すべての人々と平和を求めるように教えられています。バルナバは平和を作り出す人でした。

*献身の人(使徒4:36~37)

*慰めの人(使徒9:26~30)

*赦しの人(使徒15:37)

8、義のために迫害されているものは幸いです。(マタイ5:10)
「神の国」と「この世の王国」との間の戦いがある限り「迫害」は必ず起こります。クリスチャンがどんなに誠実に歩んでも、その真実さのゆえに「迫害」がやって来ます。ここで思い出すのがダニエルの3人の友人です。(シャデラック・メシャク・アベデ・ネゴのことです)
「シャデラック、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。『私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。もし、そうなれば私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知下さい。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の象を拝むこともしません。(ダニエル3:16~18)

*迫害に対して心備えが出来ていた。

*最後の裁きを神に委ねていた。

*結果に関わらず、幸いであることを選び取った。

さて、あなたはダビデのタイプでしょうか?パウロでしょうか?8人の人の性格の一部分は誰でも持ち合わせているかも知れませんが人名で八福の幸いを覚えるのも楽しいのではないでしょうか?  


Posted by 金城米子 at 13:41Comments(0)

2012年07月22日

なんて言うか・・・

このところ体調不良なので心配した息子夫婦が訪問してきました。

嫁さん「お母さん。大丈夫?ムリしているんじゃあないの?」

わたし「まだ、生きているから大丈夫だよ。何で来たの?」

嫁さん「心配だからさあ。何言っているの?」

わたし「病気は医者がしか治せないし、寿命が来たら牧師が葬儀するし、別にだよ。誰にも迷惑かけたいとは思っていないからね。死ぬまでは生きているから心配しないで、自分の事を心配しなさい。来てくれたのはありがたいけれどね」

何も嫁との仲が悪いという事では絶対に無いのですよ。それよりか逆に本当の母子より仲は良いと思います。歯に衣を着せぬ仲ですからね。何でも言い合う仲です。

どんなに体調が悪くてもどんな状況でも人に助けを求めないで生きてきたのが私です。自分から助けを求めなくてもいつも助け人が自然に現れて助けてくれる経験をしています。必要な時に必要な人が与えられると言うのが私の考えだからSOSをしません。それは恐らく子供の時の影響かも知れません。思いがけずに親切にされるのに慣れていないのです。誰にも迷惑をかけたくないと思うのが頑固な私の信条です。

でも、自分に関しての考えは正しいと思います。病気は病院だし、死んだら牧師だし、人が出来ることは自分の分野の事だけです。だから、お嫁さんにどうにもならないときには、救急車を手配するし、だから心配はいらないと言ったまでですが嫁さんとの会話を聞いていた息子は苦笑して言葉を発しませんでした。

でも、嫁さんが寝込んだときは、出来る限りの事はしますけどね(笑)借りを作らない生き方がいつのまにか身についてしまっただけの頑固なお婆です。心騒がせない事ですね。万事は主の御手の中の事だと思えば人生また楽しからずやです。シャローム  


Posted by 金城米子 at 21:26Comments(0)

2012年07月22日

みことばによる信仰を・・・

ある教会の牧師のメッセージを聞いて非常に驚きを覚えました。「奇跡や癒しが起こらなければ信者が集まらない」と言うのです。だからそのために祈りましょうと祈って使徒たちのように道行く人々を癒さしたように私たちもそうしましょう。この教会が奇跡と癒しのある教会にあるようにしましょう」とでした。

個人的に(ああ、この教会にいたら疲れるなあ・・・心の平安を必要としている人々が多いのにここでは頑張れ、頑張れだったら余計な荷物を負って帰らなければならないなあ・・・)と思いました。ごめんなさい。批判ではありません。

使徒の時代はまだ、キリスト教がはっきりと認められていいない時代でした。人々に目を開かせるためにはイエス様は多くの奇跡も癒しも起こしました。当時の使徒たちは自我に死んで御言葉に服従していました。服従した時にイエス・キリストの全き愛と力がそのまま流れ出てきて奇跡や癒しが起きたのです。殉教するほどまでに主を愛し人々を愛した彼らだったからこそ主イエス・キリストのみわざが現されたと私は信じます。

もちろん今でもイエス様は生きて働かれていますから奇跡はおきます。個人とイエスにおいてであります。奇跡は人を介してではありません。個人の必要において個人の祈り求める心においてイエス様が働かれるのです。疲れている姉妹にどのように御言葉を伝えようかと祈っていました。

そうしたら神様は祈りにこたえて下さいました。感謝しております。この恵みを皆様と共に分かち合いたいと思いましたので、次に東京の鵜木にある教会の清野先生のメッセージをご紹介します。そのメッセージで主イエス様と自分自身の信仰を確認してくださいますようにお祈りしています。

7月22日 №113
ひれ伏し、「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と願った。
ルカ福音書5章12節
イエスが伝道を始めた頃の記事には、汚れた霊の追い出し(4章31節)、熱病のいやし(38節)、悪霊の追い出し(41節)、そしてここでは、「重い皮膚病のいやし」が記されます。これらの活動の一面だけを見ると、、力の伝道、奇跡の宗教のように見えますが?

主の伝道の初期に、奇跡が多く起こされたのは、イエスの言葉が、癒しや解放の出来事になる現実を示し、「イエスは神である」ことを示すためでした。「イエス(人格)=言葉=現実」が一つであることこそ、神であるなによりの証拠となります。しかし、伝道するには奇跡がないと、霊的現象が起きないと、となり過ぎると危険です。諸々の奇跡や肉体のいやし以上に、罪と死からの救いと、肉と世からの解放が聖書の目的です。「イエス=言葉=現実」の中で、「現実」以上に、「言葉」に目を注がねばなりません。

友よ。あなたは「現実」と「言葉」のどちらをより待ち望みますか。現実から言葉を求めると、失望することが多くあります。しかし、言葉から現実を求めると、必ず答えが与えられます。なぜなら、ことばが現実になるからです(ヨハ1章3節参照)。
  


Posted by 金城米子 at 10:20Comments(1)

2012年07月21日

信仰の友。Aさんへ

ノンクリスチャンの時に佐敷の海岸で母子心中事件を起こした時に海から引き上げられて十字架に出会った時に最初の言葉が「信仰と希望と愛」のみことばでした。信仰心はあったのに(ユタ信仰)・・・なぜ?なのかわかりませんでした。

真理の神・主イエス様を知らない人は「的外れな信仰」と「的外れな希望」「的外れな愛」で生きている事が理解できたのは教会生活を通してでした。教会は一言でいえば私が思うには大型洗濯機です。私たちは不揃いの泥つき芋です。大型洗濯機の中で自分の意思とは反対にぐるぐる回されて綺麗にされます。時として痛みも覚えますがその痛みが大切なのですよね。

私は神様がどれだけ忍耐と寛容を以て真理に導いて下さったのかと今は感謝の心で一杯です。自己中心で自我が強くて嘘つきで思い込みが激しくて責任転嫁ばかりして自分を正当化する生き方しかできなかった私でした。私の最悪なのは自己憐憫でしたよ。この自己憐憫は真理の神から引き離す悪魔の常套手段です。

これは第一コリントの13章13節のみことばです。「そううわけでいつまでも残るものは、信仰と希望と愛です」という事ですが私が日本語の説明をするのもおかしいのですがまあ忍耐して聞いて下さいね。

この地上にあるもの、出来事にはすべてに終わりがあります。みんなが平等に与えられるものは、太陽と月と星くらいかも知れませんね。その他は天候の気まぐれで雨・水・風など私たちの必要を必ずしも満たしているとは思えません。

金銀財宝もそうですね。平等なものはないし、子供も望むと望まないに関係なく、与えられる人もいるけれど親になれない人もいます。人の心も変わって行くものです。それくらいは分っていると言われそうですけれどね・・・環境も境遇も選んで生まれて来れないのですね。ですがこれらのことすべてを益に変えられるのが主イエス・キリストです。
信仰と希望と言うのは主イエスにあってなのです。「愛」はイエス・キリストご自身なのです。イエス様が愛を持っているとか愛を与える人であるとかの次元ではなくて主イエス・キリストの本体が愛・そのものなのです。

万事が神の御手の中の事なのですが神なる主イエスにあってポジティブに生きるか、サタンにあってネガティブに生きるか選択は自分自身にあります。サタンは騙し、盗み、滅ぼし、殺します。

「しかし、お前の上に再びわが手を伸ばし、お前のかなかすを(不純物の多い金属)灰汁のように溶かし、その浮きかなかすをみな除こう」イザヤ1:23のみことばです。背信のイスラエルへの言葉ですが個人的にも神様は「悔い改め」た者、主に信頼する者にはこのみことば通りになさってくださいます。

「貧しくても私は豊かです」。と言えるのも不思議な信仰ですが、本当に大切なものどんな時にも最後の最後まで主に信頼して主を待ち望むのもあなた自身の選択です。「主に信頼する者はパンに欠くことがない」と聖書にあります。

あなたが「主イエス以外に神はいない」と宣言するなら神は「心の迷っている者は悟りを得、つぶやく者も教えを学ぶ」(イザヤ29:24)とあなたを顧みて憐れんで下さいます。神を神としてあがめるときあなたは聖とされ、主の御手のわざを見ることが出来るのです。

主の憐れみと慈しみがあなたの上に今より後、とこしえまであなたとあなたの家族にありますようにお祈りしています。





  


Posted by 金城米子 at 11:02Comments(1)

2012年07月20日

年を感じます・・・

若いころの思い出話をするときにはあの世が近くなっていると友人が言います。TVの刑事物語を見ていてA・Kさんという一人の警察官の事を思い起こしました。

A・Kさんは若いころの交通事故が縁で動揺していた私をなだめてくれてゆっくり話を聞いてくれて丁寧に説明をしてくれたことが縁で親しくなりました。何を血迷ったか私は飲み屋の名刺を渡して「ご来店を心よりお持ちしております」と言ってしまったのです。それからしばらくして友人4人と一緒に店に来たことで変な関係になったのですけれど・・・

私は彼を覚えておらずに職業を聞きました。「うそつきの話を聞く仕事です」と答えたA・Kさんに「私と関係業者ですね」といったので彼に聞かれました。「どういう意味かね?」私は「だって私たちは嘘をつかないと生きられない仕事でしょ?男を騙さないと母子家庭は成り立たないんだからねえ」と答えたのですが・・・

「時々ね、警察の人が来るわけよ。女にだまされてお金を使わされた。結婚詐欺だとかなんとかね。でも、そんなときには泣くのが一番で正座してごめんなさいしてから母子家庭の悲惨さを訴える訳よね。そうしたら『子供さんを大切に育てなさいよ。頑張ってね』で訴えてた男がバツが悪そうにして何事もなくすむんだけどね。だから私たちは嘘をつく仕事でお客さんはうそつきの話を聞く仕事なんでしょ?同業者じゃあないの?警察の人でしょ?」

それからそのA.Kさんとは、仕事が休みのときなどは映画を見に行ったりドライブをしたりと仲良しこよしだったけど平行線で終わったしまった人でした。彼は張り込みの仕事あけに突然に我が家にやって来て息子たちとだべっていたのですけどね。定年退職の時には、三日間、付き合えと言われて三日間、一緒に過ごしましたね。「君はどうして僕には伝道しないのかなあ・・・それが聞きたかったんだけどね。僕が離婚したいと言った時も理由を聞こうとしなかったね。」という彼に「世界が違う人の事はほっとくのに限る。深く踏み込まない、これが私流の個人的な生き方だからね」でした。

三日目に彼が独り言だから黙って聞けと言いました。「ぼくは、余命宣告をされた二か月前に半年と言われたから4か月しか時間がない。その4か月の間に考えたのは親しい友人たちの事もふくめて、もし、あの世があるのなら君とあの世で会いたいと願っている。それには君の信じている神様を受け入れなければならないのなら受け入れるよ。だからどうすればいいのかなあと思ってね。」

イエス・キリストを受け入れる祈りに導きました。今度の日曜日には教会に案内する予定でした。日曜日の朝でした。彼が待ち合わせの場所に来ないのでもしかしたら彼は召天したかも知れないとの思いがよぎりました。礼拝の時にふっと私の隣に立っている彼の幻を見ました。彼が召された事をはっきりと確信しました。

若い時からの友が次々と他界して行きます。急いで福音を伝えなければならない友人たちがいます。元気じゃあないと走れない伝道です。そんなわけで私が一番に祈る事は「天のお父様。モーセが120歳のぎりぎりまで元気で主の御用をしました。私もそのように主の御用のためにだけ用いてくださいますように。御用が終わったらすぐにそのまんま主のみもとに引き上げて下さいますように」です。

伝えたいのにいつまでも伝えないでいるのはよくありません。「明日ありと思う心の仇桜」今は亡きA・Kさんの口癖でした。
勇気をもって友に福音を伝えましょう。聞く聞かないは相手の問題です。出会う人に孫たちが言う言葉です。自分自身のためではなくて家族を救うためにまず、自分が信じなければならないことを伝えてください。

「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」使徒16:31。  


Posted by 金城米子 at 07:56Comments(0)

2012年07月19日

大切なのはあなたの足元ですよ。

芸能関係者の中で働いている男性からの相談者ですが彼からは週に一度は携帯電話に連絡が来ます。芸能関係者の中には霊能者とかユタに依存していて自分では何も決められないという人が多いと聞きました。相談者のAさんは50代に入ったばかりですAさんを知っている人はかなりいます。

Aさんは祖母がキリスト者であった事から中学生の頃には洗礼も受けていますが大学生になってからは一度も教会へは行っていないという事でした。しかし、芸能関係の仕事をするにつれて人間関係に躓きを覚えて空しさに陥っているときに関係している芸能人にある女性のユタを紹介されました。

そのユタは、いつのまにか彼の日常生活にまで深く入り込んで来たので彼の奥さんが心配して私と連絡を取るように勧められたわけですね。初めは彼は、私に「あなたは僕の何が解かると言うのですか?」と挑発的な態度でした。ユタからクリスチャンになったという私の過去が彼には異文化宗教家のようだったのかも知れません。

私「私にはあなたの事は何もわからないけれど恐らくあなたが最近は的外れな方向に向かっている事を奥さんが感じて心配しているのではないでしようかね。」

A「的外れ?それって僕の妻が言ったのですか?訳が分からない」

私「的外れと言うのは奥さんにとっては夫婦の関係が危険になっているという事だと思いますよ。恐らくあなたと奥さんの間に誰かが介入していてあなたを操作していて奥さんから目をそらすような状況になっているのではないですか?たとえば、家族の計画がつぶされたり、今まで出来ていた家族関係が疎遠になりつつあるとかね。心当たりはありませんか?」

私は彼に質問状に答えるようにと質問状の用紙を渡して15分ほど彼に時間を与えました。最初のうち彼は嘲笑した様子でしたが質問状を読んでいるうちに真剣になりました。彼は全部を書き終えてから私に用紙を渡そうとしましたが私は受け取らずに彼にそれをあなたが持っているように勧めました。

私がAさんに渡した質問状は聖書の中のみことばでした。夫婦の関係を壊すものは神が呪われます。夫婦は生活の基です。愛し合う関係を応援できる者として隣人は接するだけなのです。聖職者であっても夫婦関係を壊すような態度や発言は神から呪われます。

家族での行事、記念日を妨害してもいけません。私はクリスチャンになってから神様が家族についてどれほど大切にしなさいと教えられている事かが心でも論理的にも解かるようになりました。

過去に仕事を持っていた時には顧客情報を大切にして家族の誕生日や記念日にはお花やケーキを届けていました。その時は利害関係でしたから動機は不純でしたが今は、純粋な気持ちで家族で何か計画するときには、占い師やユタを間に入れないで夫婦で話し合って決めて「順調にその計画が運ぶように神様に祈りなさい」とアドバイスしています。

「教会がキリストに従うように、妻もすべての事において、夫に従うべきです。夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも自分の妻を愛しなさい」エペソ5:24~25.

このみことばの訓えは、妻は家庭において夫の主導権に従い夫を敬い、夫を愛し、死ぬまで夫と共に生活すべきである(ローマ7:23)。夫は、妻を愛し、妻を導き、妻を養い生涯妻と生活すべきである(マタイ19:3~9)という事です。

厳密にはキリスト信徒夫婦の関係はキリストと夫と教会と妻の関係を示していますがキリストをフィルターとして互いを見るとき、そこには純粋な神の愛しかありません。「私にとって不足なものであるかも知れない夫・妻であっても神の目からは尊く愛おしい存在なのです。」そうすれば私も夫・妻を同じように尊く、愛おしく見ることが出来ます。これがキリストをフィルターとしてお互いを見るというキリストの訓えです。   シャロームyoneko
  


Posted by 金城米子 at 11:26Comments(0)

2012年07月18日

エコな夫婦でいたいなあ・・・

10日ほど前から体調不良で障碍の息子の世話が出来かねていたこともあったのですが感染症だったらとの心配もあり息子の保護願いを午前5時過ぎに高熱38度8分で息苦しくてSOSを主人に助けを求めました。

そしたら寝ぼけていたのか健忘症か認知症か主人が「夜も明けないうちに病院に行くバカがいるか?」で回線が切られたので再び「こちらヒュウーストン・こちらヒューストン。ただいま体調不良に付き不時着します。至急応援を頼みます」と電話をしました。

「ちゃんと助けてと言えないのか」で回線不能となりました。そして、昨夜主人からの電話です「お前はもしかしたら体調不良なんじゃあないのか?何で素直に助けてと言えないのか?」の言葉に「だから病院に行くからって始めっから話したのじゃないの?」「俺にどうしてほしいって言うのか?」と主人です。

「だから助けて不時着しているからって言っているじゃないの?」の言葉に主人は「じゃあ。待っておけ」と一言でぷっつんでした。待てど暮らせど連絡なしです。私はいまだに不時着で大海原をさ迷っています。台風が来ないように祈りながらです。

傍目からは何ちゅう夫婦かいなですけれどね。これを共依存と言われたことがありますけれどそれを言うなら共異存賞と言って欲しいですね(笑)。同居すると自我に死ななければならないけれど別居するとヒューストンの衛星状態で軌道しているサムタイムな夫婦です。  


Posted by 金城米子 at 09:15Comments(0)

2012年07月17日

聖書にあるパンの意味

ささげ物=マルコ7章11節に出てくるコルパンがその発音であり、近づく、近づけるという意味を持っています。ささげ物にはいろいろな種類がありました。

旧約時代の祭壇にはいつもパンが供えられていました。祭壇のパンはイエス・キリストの御体を現しています。祭壇を心の中に打ち立てなさいと言う意味はイエス・キリストを心に迎えなさい。の意味です。

小麦粉のパン=パンにはパン種を入れてはならない。「あなたがたが主にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない」レビ記2:11。

パン種(イースト菌)=罪。罪は小さくてもそのままにしていると膨らんでくるの意味です。

「ファリサイ人やサドカイ人のパン種に注意して気をつけなさい」マタイ16:6。
「ファリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい」マルコ8:5
主イエス様はファリサイ派やサドカイ派の律法主義者をパン種に例えました。

小麦粉=小麦粉は細かくさらさらでなければ使い物にはならない。「まだらがあっては良いパンは作れません。」「自我に死ぬ」という意味です自我に死んで他者を生かす事はクリスチャンに求められる人格です。(謙遜とへりくだりの意味です)

聖書は罪の問題を大きく取り上げています。罪とは法律的な犯罪でけではなくて心の罪「のことも示しています。
「神と人々との正しい関係」「自分と神との正しい関係」「「自分と人々との正しい関係」つくりがなされているのかが罪の規定です。神様との正しい関係作りが出来ているのなら私たちは神様に依存する必要はありません。「私は生まれてから一度も神様の前に罪を犯したことはありません。これからも絶対にありません」という自信があるのならあなたには神は要らないのです。

罪とパン種と神様と人間の関係を解りやすく記しましたがT・Kさんは理解出来たでしょうか?聖書の言葉、一語一句や物には深い意味があるという事は理解出来たでしょうか?聖書を知る事は宗教ではなくて神様とあなたとの関係修復なのです。

「あなたが若い日に創造主なる神を知りなさい」聖書。お祈りしています。

連絡先=090-9782-1946 samueru.hanna@ezweb.ne.jp
パソコンアドレス=hanna7@grace.ocn.ne.jp





。  


Posted by 金城米子 at 08:13Comments(0)

2012年07月16日

ワンダフルな世界へようこそ

あなたは想像することが好きですか?私は大好きです。想像力を一番助けてくれるのは聖書ですけれど私は旧約聖書に現在の世界を見ます。人間の歴史は殺戮の歴史だと言った友人がいますけれど過去の歴史を見るとあながち否定はできません。でも、旧約聖書は預言者が神に祈って奇跡が起きる場面があります。私は殺戮より奇跡が好きですからいつも奇跡を友人に語ります。

殺戮の歴史が好きな友人が言いました。「神はいない。絶対にいない。神がいたらなぜこんな殺戮の歴史を許しているのか?神に聞けよ」と。

私は言いました。「分らんさあ・・・あんたが自分で神様に聞いたらいいよ」

友人「何言っているか。俺は神はいないと思っているんだからよ」

私は「じゃあ。なんで神に聞けって言うのかよ。意味わからん」

友人の言葉「お前が神を信じているんだからお前が聞けって言っているんだよ」

私は祈りの姿勢を取りお答えしますというふうに言いましたよ(笑)

私の言葉「よしゃっ。分った。ふ~んそうですか?あ~はい、わかりました。神様が言っているよ。信じる者は救われる。ってさあ。そして、私が疑問に思っていない事を私に答えるわけにはいかなってよ~。これはあんたの問題だからあんたが追いかけて~追いかけて~求めて!求めなさいってさあ。求めよさらば開かれんってこれが答えだよ。あんたには神は見えないってさあ・・・」

友人は話題を変えました。きっと彼は自分の心の置き場を求めているのでしょうね?こんな付き合いを20年近くしています。
友人は「いつか、絶対に君に神はいないと言わせるからよ」で帰っていきます。

私は言います「大丈夫だよ。あなたが認知症やアルツハイマーにならないうちに神様に出会うように祈っているし・・・」  


Posted by 金城米子 at 15:58Comments(0)

2012年07月16日

三次元の世界と四次元の世界は隣接しているかもね。

上手くは説明できないけれど、「人間の過去。現在・未来が実は幻だよ」と言ったら非難されましたが幻でなければあのイエス様の十字架によってすべての問題が過去において(2000年前)解決されて要るという事は理解できないでしょう?。

何故、私がこんな意味不明な事を言うのかと言えば「わたしはある」と言われた天地創造主がすべての空間と時間という舞台の主人公であられるからだと理解出来たからです。

ですから神が言う天国は私の手が届く隣に存在しているのだと実感出来たのです。「天国はあなたがたの心の内にある」と聖書は記しております。「あなたの宝のある所にあなたの心がある」神の国は誰でも何時でも体験できるのですと言えば気が狂ったとか異端だとか言われるかもしれません。

じゃあなぜ?「天国も地獄も人の心の内にある」という人が出てくるのか分らないでしょ?心の持ちようと行いとか倫理観とか平和主義者とか正義の舞台の主人公たちの心には天国が満ちているかもです。

三次元の私が想像し確信したこと(祈り)が四次元ではその祈りを三次元にいる私に実現させる事が出来る事は確信しています。確信の祈りは必ずや確認をさせて下さる主イエスさまです。

ですから神は共にいるという事は現実なのです。三次元ばかりを信じている人々には四次元の世界が見えないだけです。見えない空間の事でも私たちは見ることが出来るのです。この世に現れている現象も実は、私たちの心の不一致の現象なのです。だから、災害も事故もそれは私たちの歪んだマイナスエネルギーなのです。諸霊も天空中の世界です。空間のひずみマイナスエネルギーの空間を利用し三次元に悪影響を与えます。

何を言っているのか訳が分からないと言われるでしょうね。言っている本人にも解からないのです。自動という科学の世界を全く知らない人が突然に自動ドアや自動便座や自動蛇口の生活を体験するようなものです。聖書は科学も化学も夢想も現実もその真実を証明しています。

空間と素粒子の関係も聖書は語っています。私が思うに科学者たちの中には神様か悪魔かのどちらかの啓示を受けて人類に必要なものや無くても良い力のあるものを造りだしているかもです。

「光の子らしく歩みなさい」「あなたがたは世の光であり、地の塩です」は字義通り受け取る事は素晴らしいです。私はこの御言葉の中に神の偉大な光の存在を感じました。光は動いている膨脹することも収縮する事も出来る次元を超えて移動もできると思いました。ピリピが聖書の中でワープしたことが記されています。それが光と微粒子と記憶形状との関連があるのかもと(笑)

塩はその姿を隠して(溶けて)初めて塩としての働きが出来るのですよね。塩の柱では何百年経っても塩の柱のまんまですからね。私の言っている事は恐らく理解不能かも知れませんね。

聖書には書いていないと言う優等生たちよ。聖書の一語一句、一字はすべてこの世の仕組みや謎の解き明かしがあるのですよ。微粒子・量子・素粒子の答えもワープの答えも科学的に説明できます。私は頭が悪くてうまくは説明できないだけです。聖書には無から有を生み出す神様の隣在が記されていますが人間が造りだすもの発見するものはすべて基になるものが地上にあるので無から有の新発見はありません。

電化製品も作った者が一番に修理の方法を知っているのと同じでイエス様が私を知っているがゆえにという生き方が出来るのですね。説明書を持っているのが聖霊なのかも・・・?カード社会は二次元の世界かなあと思いますね。あの平ぺったいカードに情報がいっぱい詰まっているのですからね。私たちがこの世を去るときには四次元の光の中に吸収されて栄化され喜びに満たされ主を賛美するのだろうなあ・・・とですね。つまらない私の比ゆ的聖書論でした。シャローム  


Posted by 金城米子 at 15:31Comments(0)

2012年07月14日

正しい知識を得るために挫折を味わう

53歳のTさんは15年のクリスチャン歴です。職業柄彼女は常に学んでいる事が彼女を立ち上げていると思い込んでいます。学びに熱心なのは感謝な事ですが「人と自分とを量る事は主の御心じゃないんじゃないの?」と彼女との会話の中で私が聞き返します。すると彼女の言う事は「Kさん。あなたは標準語でちゃんと話せないでしょ?それって国語がダメってことなんですよね。国語が出来ない人には聖書は分らないって何度も話していますよ」で押し切られる私でした。

彼女の言っている事は正しい事ですから反論できません。琉球新報社の記者をしていた知人のM子さんがいます。彼女に私が質問しました。「私はクリスチャンになってから懸命に標準語や文章の書き方を独学で学んでいるけれど、どうすれば上手に標準語で話せるようになるのですか?」

彼女は言いました。「人間の言葉には力はありません。でも、魂で訴える事は、誰にでも響きます。伝わりますよ。Y子さんはこれまでに息子さんのために必死で世論にも政治家にも訴えて来たではありませんか?あなたの言葉は魂の叫びでしたよ。人間はみんな魂を持っています。

言葉の壁は魂で乗り越えるのです。耳で聞こうとするから相手を理解できないのです。Y子さん。誰もあなたの魂を否定する事は出来ません。魂がいつも神様に向いているならあなたを応援する人が集まって来ます。神様がきっと文章力も与えてくれます。あなたの神様に信頼したら良いと思いますよ」でした。

そこで私は「一年中挫折を味わっている私には高学歴の人の前では小さくなるしかないんですね」でした(苦笑)
記者の彼女が言いました。「正しい知識を得るために挫折を味わうのです。挫折を知らない人は人間を知らないし、神を知らないのですよ」

凄いですよね。私は年若い彼女から(このような言葉を聞くなんて・・・)感動でした。それからは分らない事は分らないからと聞くようにしました。いろんなコンプレックスで小さくなっている方、挫折感の中にいる方がいましたら、それはあなたが正しい知識を得るためだと考えを切り替えて前進してくださいますようにおねがいします。 シャロームyonekoでした。  


Posted by 金城米子 at 08:16Comments(1)

2012年07月14日

環境が心を壊す事もあります

これはうつ病になった30歳の男性からの聞き取りです。彼は子供のころから体が弱くて学校へ思うようには登校することが出来なかったそうでした。両親は祖母に言われてユタに行くようになり全てをユタに依存するようになりました。拝みが切れた日は無かったのではと思えるくらい拝みにはまっていたそうでした。

彼が学校へ行けなかった理由は恐らく精神的な問題があったと思われます。何故か沖縄には多い症例です。親は自分の子どもに精神的な病があるとは認めたくありません。ほとんどが拝み不足やさー高生まれのせいにされるのです。

そして親はそのために子供を特別扱いをするようになるのです。拝み不足を解消するために拝みに熱中します。Bさんも例外ではありませんでした。

Bさんの親の愛情が歪んだ方向に行ったために侘しさを何処へも持っていくことが出来なくなってBさんは10代の後半頃からアルコール依存症になってしまいました。

19歳の頃にはホームレスになっているところをG牧師に拾われてようやく立ち直れたのです。立ち直れたとBさんも含めてみんながそう信じていました。

Bさんは社会復帰をするには学歴が大切だと知り、学校へ通い始めました。やがて彼は結婚し三人の父親になりました。ところがある日の事、Bさんは朝起きれなくなりました。過労だと家族は軽く考えたようでした。

三か月後にBさんは奥さんに伴われて私のところに来ました。病院へ行ったら「うつ病」だと診断されたとの事でした。私はBさんの生い立ちを聞いて先天的に脳の障害があったのかも知れないと思いました。

沖縄に多い小児精神病ですが発症しても誰も理解できません。環境によって症状が違いますのでなかなか診断はつかないのです。ほとんどがサー高うまれで解決してしまうのです。妄想・虚言癖・自分の世界観が強くて他者を自分の世界に引き込むのが上手です。

きちんと治療が出来なければ社会に出てから抑圧に負けてうつ症状になる人が多いのです。Bさんも例外ではなかったのです。若年性アルコール依存症が信仰を持ったおかげで癒されて社会復帰できたのだと、出来なければおかしいし、信仰者の中では生きられないと思い込みも合った筈です。

若年性アルコール依存症でなくても若年性の飲酒は脳をぶよぶよにふやけさせてしまう事を理解してください。安易に子供にお酒を飲酒させないようにしてください。すぐには影響が見られなくても数年後にうつ病になったり精神的疾患をもってしまうこともありますので。

Bさんは、教会の信徒やG牧師と最愛の妻の手前Bさんがどれだけ抑圧と戦っていた事かBさんの話を聞いていて心が痛くなりました。「あなたの信仰があなたを癒したのです」「あなたの信仰はりっぱです」。確かにそれもあるでしょう。否定はしません。

「変わらない。そのままの自分であってはならない。日々に新しくされて霊的に成長が目に見えなければならない」と言うメッセージも間違ってはいません。否定はしません。しかし、「ならなければならない」ことは、なれない自分を追い込んでしまいます。

私は、Bさんに「あなたはあなたらしく正直に生きて良いんですよ。優等生にならなくても良いんですよ。」と言っています。
世間的には良い父親にはなれないかもしれない。しかし、良い家族を継続していけることをBさんの奥さんに提案しました。

「夫婦が入れ替われば簡単ですよ」とつまり、Bさんが苦にならない程度に子守りと家事をして貰って奥さんが働く事です。女性の稼ぎでは家計は大変だろうけど不足な分は行政の助けを借りながらゆっくりゆっくりあなたがたは競争社会から離脱して生きていけば良いのではないですか。

早速、行政に相談して助けが得られたという事でBさん夫婦は安堵な表情をしてお礼に来ました。教会生活も大切かも知れないけれど頑張らなければならないと思うならしばらく静まっていてもいいんですよ。イエス様もパウロもみんな人里は難れて静まったことがあったのですからね。とアドバイスをしました。

誰でも事実を認められないかもしれませんがサー高生まれについてもっと真剣に人格的に軌道修正が必要なのかどうなのか?また子供が精神的に隠れた問題がないのかしっかりと見極められているかを考えてくださいますように。

  


Posted by 金城米子 at 02:06Comments(0)

2012年07月09日

恥ずかしいのは自分の心に卑しさがあること

息子のTは、ほとんど自分からは意見を言いません。静かに他者の話を聞いているだけですが意見を求められて初めて皆が出した意見を要約して話をするのですが私はいつも感心しています。

Tの意見は決して上から目線ではなくて主人公は誰であるか、何のための意見交換なのかそこに中傷的な思いがないか責任転嫁をしていないかなど等を反省する事をそれぞれが感じるように話します。誰も傷つけることなくです。その話の持って行き方が実に見事で長年生きてきた私は気恥ずかしさを覚えることがあります。

Tが学生時代にバイトしていた時に店長からの話でした。「ミーティングで販売促進の方法を積極的にするようにとの意見が多く出たがTは言葉を発しなかったので『T君はどうかね』と意見を求めるとTは一言「そして、客は誰も来なくなる」と言ったそうでした。店長が絶句しかけたのですが気づきが与えられたそうでした。T君は不思議ですよね。あまり喋らないけど肝心要のツボどころを気付きを与えてくれますよね」でした。

私が家でTに「何でそんなことを言ったの」かと聞くと、「売る事ばかりを従業員の態度が前面に出たら客は敏感だから嫌気がさすだろう。大切な事は安心できることを求めているんじゃあないか?親切・善意・誠実さが従業員全員が一致することが継続できる事じゃないかなあと思ったからそう言っただけの事、別に他意はないよ」でした。

三児の父親になったTは相も変わらず寡黙さを貫いています。孫たちの話では「家ではお母さんだけが喋っていて、お父さんは相槌を打つだけ、でも、きちんとみんなの話をめんどくさがらずに聞いてくれているよ。だから、話していて楽しいしお父さんって凄いなあだよ。学校の行事でも他の父兄の中で最後にお父さんは意見を言うけれどみんなお父さんの話を真剣に聞いているよ」です。

そのTに感心するのは、孫娘たちからの話ですが一人息子が学校で疎外感で悩んでいた時に息子に密着していたそうで二人でゲームをしたり、買い物にも一緒に行ったりしていたそうですがその事があってからは、会社から帰ってきてからは「男同士」を貫いているそうです。ジョギングや魚釣りや宿題も積極的に手伝ってくれるそうでって言うかお母さんよりお父さんが勉強を教えるのが上手いんだそうです。「自慢のお父さん」だそうです。

登校拒否もすぐに癒されて今は、どんなことでも父親と話し合っているそうです。「お父さんは、家族をとても大切にして、一人で出かけたりはしないよ。いつも誰かに声をかけて一緒に行くか?って言うから結局は家族が5人でお出かけになるよ。」との孫娘たちの話でした。

Tは子どもたちに強く言う事は「恥ずかしい事は自分の心に卑しさがあることだから他人に意見を言ったりする時にも本当にその人の事を考えているのか、動機が不純ではないか、上から目線ではないかを考えてから口を開きなさい。言葉は一度出てしまうと引っ込みがつかないから、出来る限り言葉は慎むように、口は災いのもとだからね」だそうです。

孫娘は言います。「黙っていて良かったと思う事がよくあるよ。喧嘩やトラブルに巻き込まれないで済むからね」です。「その割にあんたたちはおばあちゃんのところでは良くしゃべるのね」と笑っていますけれどね。

「沈黙は金なり」「愚かな女はよく喋る」等などありますからね。私も寡黙な人になりたいのですけどね(笑)この地上生活が短い事を知ると尚更に喋りが多くなりますね・・・気を付けます。  


Posted by 金城米子 at 03:16Comments(0)