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Posted by TI-DA at

2011年10月31日

優先すべき事を優先すれば祝福は追いかけてくる

私の生き方は教会員としての守るべき事を守ることです。献金とか奉仕とかではなくて日曜日は諸々の雑多が押し寄せて来ます。今朝は孫たちの運動会でした。連絡は昨日からありました。でも、私は孫とお嫁さんに「ごめんさいね。日曜日しかうちの教会は礼拝はないの。だから礼拝を優先させてね。他の曜日にあれば良かったのにね」と丁寧に断りました。

慣れたもので皆は「ただ言って見ただけだから大丈夫だよ。神様に怪我しないように祝福して下さいって祈ってね。来週は必ず教会へ行くからね」でした。この10年間は礼拝を絶対優先して来ました。私は今朝は正直言って体調が優れず2・3日、通院していました。だから昨日までは教会をお休みしようかなあと考えていました。

だけど、教会への送迎もしていた事と孫からの運動会の誘いに礼拝優先を宣言した手前で礼拝を休む訳にいかないので喜びを持って教会へ行きました。ところがです。教会から帰宅すると電話が鳴りました。珍しく末子の実の親からの電話でした。

すぐに帰っていいから30秒だけ顔を見せてくれでした。それで顔を見せました。封筒を渡されました。中を見ると現金が入っていました。万札でした。初めて親らしい事をしてくれたのです。「ありがとうね。じゃあ、またね。バイバイ」と言ってラッキー神様ありがとうで玄関のドアを閉めました。

彼は何も言わずにそのまま退散しました。これが優先すべき事を優先した祝福でした。祝福はまだまだ続きました。機械音痴でレコダーを買うのに何度か失敗をしていて思案している私に明日時間を取って一緒に電気店へ行こうと誘いが来ました。ラッキーです。

今月が我輩の誕生日なのでプレゼントをしたいとの事です。私が必要としていた事を知っていたのか聞きました。彼は「何となく」と答えました。レコダーは録音機です。賛美歌をサンシンで弾いて録音してCDを作成して讃美歌をサンシンとピアノで合奏して楽しめる事を広めたいのです。ずっと祈っている事でした。サンシン普及です。伝道の導入の一環です。

神様ありがとうございます。ラッキーラッキー。ハレルヤ。アーメンな一日でした。これが私が毎日神様からの受けている恵みです。教会生活を大いに喜んでいるおばあです。ボケる暇がありませんよ。楽しみ捜しのベテランですからね。  


Posted by 金城米子 at 00:36Comments(0)

2011年10月29日

霊的戦いって?

ユタ、悪霊、ニセの父神。その世界に長年いたから分かるような気がします。ずっと悪霊、怨念、幽霊を信じていました。クリスチャンになってはっきりと分かったのは霊的戦いは自分の思考との戦いなんだって事です。いつもキリストを思う、いつも御言葉を反芻する、自分の思考を聖書の世界に置く事で平安があり、勝利した人生を送れる事が霊的な戦いなのです。

ユタや霊媒師はお客をマインドコントロールするのです。屋敷が悪い、土地の前の地主が怒っているので許可を受けてお払いをしなければいけないなど等です。理由は何でも良いのです。お客が信じて恐れてどうしたら良いのかと心配するように説得をすればよいだけなのです。

聖書の中にはイエス様が悪霊を豚に入れた箇所があります。だから、「悪霊はいる」と考えていましたよ。イエス様だって悪霊退治をしたんだからと言って『主イエスの御名によって悪霊よ。退け』の祈りをしていました。でも、やがて聖霊の導きで勝利した十字架のイエス様をはっきりと示されました。

イエス様が十字架にかかるのを止めさせようとした悪魔や悪霊はなぜ?そうしたのでしょうか?キリストの勝利には限界があったのでしょうか?違います。イエス様はずべての悪魔のわざを十字架によって封じたのです。もはや、悪霊はイエス・キリストを信じる者には全能の父なる神の勝利を私達にも約束をされたのです。与えられたのです。

信じること、すべてに感謝する事です。イエス様が流された血は足元を伝わって土地に流れました。何処までも地表を覆いました、そして土地の中にも浸透して行きました。地球の裏側まで血によって贖われました。その事を信じるだけです。全てに勝利したイエス・キリストの十字架を受け入れるだけです。「悪魔よ退け」運動をこなさなくても良いのです。疲れるだけですからね(笑い)

聖書は何を語っていrか?御言葉に従うだけです。御言葉を握って生きて行く事で悪から守られるのですからね「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい」Ⅱテサロニケ5:16~18の御言葉です。これらは全てが主にあって喜びなさい。主に会ってですからね。

もちろんサタン、悪魔、悪霊、諸霊は存在します。でも、その働きは惑わしです。私達の思考を縛るだけです。私達がキリストの愛を基に生きる事を願い、実践していたら、信じていたら悪の思考、恐れや惑わしは入って来ません

悪霊との戦いは因習、古い教え、生活習慣から出て来ます。精神統合失調症やうつの方と寄り添って分かった事です。彼らは何でもかんでも悪霊を語ります。悪霊が自分を苦しめていると言います。そして、悪霊払いをしてくれと言います。

「サタンよ退け」の祈りを教会で沢山見て来ました。10年間「悪魔よ。退け」を継続しているクリスチャンを見ています。悪魔払いの祈りは私にとっては異様です。御言葉の学びで自分には愛がなかった、自己憐憫だった、疎外感や心の傷が癒されていないと思い込んでイエス様の傷への介入を受け入れていなかったクリスチャンを見て来ました。

しかし、真理の神である主イエス・キリストを確信すればそれらのわざは自己憐憫の癒しである事を知るでしょう。彼らは自己憐憫で疎外感があり、かまってもらいたい病なのですと言えば怒る方々が多くいると思います。自分の罪深さを知って貰い悔い改めの祈りを導く事で14年間の精神病が癒された女性もいます。

御言葉の確信をして幻覚幻聴、混乱から解放された姉妹を知っています。彼女は長年間、「悪魔祓い」「サタンよ退け」の祈りをして来てなんでもかんでも「サタン、サタン」と言っていました。彼女の人格が変化する時に私は一度もサタンの姿を見たことはありませんでした。

私が彼女にした事は聖書朗読と賛美と祈りだけでした。彼女の人格が変化しても動揺せずにそのまま放置して危なくないようにしているだけでした。知らんふりして賛美していました。暴れるだけ暴れて彼女が少し静かになった時に「救急車を呼ぼうか?そしてら2,3年は強制入院だと思うけど・・・」と。

彼女は突然正気になったのです。私は息子が脳梗塞を起した時に脳みその勉強をしました。人間の脳は不思議です。激しいストレスで不眠が続くと脳から出てはいけない分泌物が出るのです。脳から出てはいけない分泌物がでると幻覚幻聴を起します。幼い頃のトラウマや心の傷は自分の中で妄想が起こります。

若年性アルコールも脳に大きなダメージを与えるのです。僅かなアルコールで脳はぶよぶよになりますからね。ビデオで見せてもらいました。アルコールと人間の脳の関係です。アルコールは脳をふやけさせます。前頭葉に強い影響を与えます。すると一般常識が消去されます。被害妄想、自己中心的、自己義認です。

アンバランスな言動になります。自分の力では軌道修正が出来ないのが人の弱さです。そこで私達は神様の助けが必要になるのです。依存症も執着性性格も幻覚幻聴も多重人各も悪霊や幽霊もすべてが脳の中での戦いなのです。思い込み、刷り込み教育、因習,迷心、双極性障害も脳の影響です。失恋などが脳に及ぼす原因の場合もあります。

と言う訳で簡単明瞭に記しましたが私達の霊的戦いは、頭の中での戦いです。聖書的に生きる事で万事は整えられます。万事に神様の介入がある事を信じて祈って下さい。

主は仰せられました。「わたしはあなたに命じたではないか。『強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたが行く所どこにでも、あなたと共にあるからである。」ヨシュア1:9の御言葉です。

「主のしもべモーセがあなたがたに命じて、あなたがたの神、主はあなたがたに安住の地を与えあなたがたにこの地を与える」ヨシュア1:13 何処にあっても私達には安住の地なのです。信仰を確信し確認して下さいますように・・・お祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 11:19Comments(1)

2011年10月25日

子供は愛情を持って育てる人が子供の親だ

自称「沢田けんじ」と言う友人がいました。彼はうるま市出身です。私は彼を「北さん」と呼んでいました。結構二枚目で非常に親切な人なので何もかも受け入れる事ができた親友でした。彼はホストクラブで働いていましたが後に私と同じ職場で働くようになりました。

彼は歌も上手かったのですが何よりも料理が上手かったので料理が下手くそな私は必要に迫られる時には、いつも彼に助けて貰っていました。その彼との心温まる話です。

彼はホスト時代に知り合った女性と同棲していました。彼女は妊娠してお産前でした。北さんは母親の先輩である私を彼女に紹介して彼女を安心させて欲しいと言うのです。私は留美ちゃんという彼女に会いました。北さんは喜んで手料理で最高なおもてなしをしてくれました。

初子なのでさぞかし嬉しくてしょうがないのだろうなあと微笑ましく思っていました。私は留美ちゃんに私自身が10代で出産したけれど赤ちゃんは心配しなくても入ったところから出て行くもんだと話しました。

途中で北さんは私達を置いて外へ出て行きました。その時に留美ちゃんが言いました。「hanna7さん。お腹の子供は北さんの子供じゃないのです。私が騙された男の子供なんです。私は身投げをするところを北さんに助けられたのです。北さんは私達親子を何処までも守るからと面倒を見てくれています。」と・・・

北さんの優しさを改めて実感した出来事でした。そして、出産の日、男の子が生まれたと連絡があり病院へ飛んで行きました。ベッドの頭上の壁に北さんは自分の名前を一字をとって名前を「宗太郎」と命名したのを張っていました。北さん曰く「そう入り者になるようにって宗太郎だ。」しっかり者になるようにとの意味)と笑顔でした。詳しい事情を知らない友人たちは色々とギャグを言ってお祝いをしていました。

その夜、お店が終わってから北さんと二人っきりでいつも掃除をしていましたので・・・北さんに聞きました。
私「留美ちゃんの父親の事を知っているの?」
北「知っているよ。元の同僚だよ。」

私「そうなんだ。だからホストを辞めたんだね。でも、大丈夫?心が折れたりしない?」
北「君からそんな言葉を聞くのは意外だね。君は博愛主義者だと思っていたからね。いつもお客に子供の話をしてだから時間です。と言ってさっさと帰るから不思議な人だなあと思っていたけどね」

北「子供は愛情を持って育てるが親なんだよ。」

北さんは両親の離婚で祖母に赤ちゃんの時、預けられて両親の顔も知らない境遇で育った人でした。だから彼の言葉は心に響きました。

私「そうだよね。本当の子供でも捨てる親もいるしね。私も離婚組みだけど貧乏していても子供がいるから頑張れる。北さん。頑張ってね。」

その北さんの親ばかぶりを毎晩、お店で聞かされていた私でした。私はお水の世界は10年と決めていたので卒業して、その後、北さんはうるま市に戻った事を聞きました。数年間、ずっと心にあった北さんでした。

クラブでは北さんと私はデュットで歌っていましたからね。「暗い港のブルース」を一緒に歌っていました。私は10年間、彼に支えられて嫌いなお水の世界を乗り切る事ができました。トイレに閉じこもって出て来れないで泣いて他のホステスがトイレが使えないと騒いだ時も北さんはドアの外で慰め、励ましてくれました。今にして思えばクリスチャンよりもクリスチャンだったなあと思っています。

北さんは「自分が今ここにいる事は不本意じゃあないと思っていてもここにいなければならない目的がある事を心にしっかり持って自分を見失わないように。ここにいる事は将来の為なんだと決心する事だよ」と熱く語ってくれました。

そして「子供は愛情を持って育てる人が親だ」と言った北さんの言葉は今も私を支えています。血縁ではないのです。

Aさんへ「生まれて来た子が自分の子供じゃないから抱けないでいる」と苦しんでいますけれどあなたはその事を100も承知して奥さんを受け入れたのですよね。奥さんも誰の子か分からない、それでもクリスチャンだから中絶が出来ないと産む決心をしたのですよね。女性は父親の事は関係なく産んだ子を愛情を持って育てる事が出来ます。だからこそイエス様の愛が理解できるのですよ。キリストを愛するが故に愛せない者をも愛せるのです。」

聖書の中にホセア記があります。ホセアは姦淫の女を妻に迎えました。何度も他の男と逃げて行って他の男の子を二人も産んでそれでもホセアは神の愛で赦し二人の子供も愛を持って育てたのですよ。キリストの愛は実践してこそクリスチャンと呼ばれるのですよ。思い直して奥様の元へ帰って下さいますように・・・

「私たちの戦いは血肉によるものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、大いなる悪の諸霊を相手にするものです」エペソ6:12

Aさん。あなた方夫婦は諸霊に打ち勝ったのですよ。キリストの愛は全てに打ち勝つ武器なのですからね。
「キリストの愛を持って子供を育てる事が出来る様に」と祈り心で奥様とお子様をお育てして悪に勝利して下さいますように・・・お祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 09:24Comments(0)

2011年10月24日

聖愛なる実妹からのメールです

詳細ヘッダー

「5つの目的」の著者リックウォレンのデボーションです。読みやすいので私は毎日読むように心がけています。和訳しました。

裁きをして貧しい人を導き/主の道を貧しい人に教えてくださいます。詩篇 25:9
聖書には、私達が神の導きを得るためにすべきことが いくつか挙げられていますが、まず最初にすべきことは、自分が神の導きを必要としている事を認めることです。

羊は生まれつき、道にまよう傾向があります。預言者イザヤはいっています。「わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。」イザヤ書 53:6

大抵の場合、私たちは神にも人にもついていきたいとは思いません。自分の好きな道を進みたいと思います。自分に地図やガイドが必要なことを認めたくありません。

また、羊は目が悪いのであまり遠くが見えません。だからこそ羊には羊飼いが必要なのです。神は私達がどんなに努力しても未来を知ることができないようにとつくられました。

何故でしょうか? あなたが神に頼るようになるためです。箴言 14:12にこうあります。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。

その時には正しいと思ってしたことが、後に誤まりだと気づいた、という事は誰もが経験することです。人は結局道を外れてしまうものです。だからこそ認めなければならないのです。「神様、私にはあなたの助けが必要です。」と。

(神の憐れみで三姉妹がキリスト者にされた恵です。最初は三人とも赤ちゃんのような信仰でしたが這えば立て、立てば歩めと神様は今もなお変らずに私達の霊的な成長を見守って下さっています。主に感謝しています。肉の家族が同じ真理の神の子とされる事ほどの喜びはありません)  


Posted by 金城米子 at 07:48Comments(0)

2011年10月24日

人間は神を見る必要がある

「人間は神を見る必要がある」と言えば何言ってるの?またhanna7の解らんちんが何か言っていると思う「我輩は弟子である」と思っているお偉いかたがたからお叱りを受けるでしょうが忍耐して聞いて下さいな。主イエス・キリストは天の父の右の座に座したもうです。では、なぜ?信じる者には内住する聖霊が与えられたのでしょうね。

それはイエス・キリストは信じる者たちに委託されたのです。内住する聖霊の御声に導かれなさい。世の人々が信仰者の姿に神なる主イエス・キリストを見るようにとです。私達は神に委託された光であり、地の塩なのです。キリストを理解できない人々は私達信じる者たちに神なる主イエス・キリストの御霊の実を見るのです。

「愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制」の九つの御霊の実です。キリストの神格です。イエス・キリストは地上生涯でこの九つの御霊を完璧に実践し弟子達に示されました。マタイと言う弟子は取税人でした。マタイはユダヤ人でありながらローマの手先になってユダヤ人から重税を取っているいわゆる裏切り者でした。

同胞を裏切っている事の罪をマタイは自覚して神の前に悔い改めました。イエス様はそのマタイに声をかけました。「立ってわたしについて来なさい」と・・・マタイは全てを捨ててイエス様に従いました。マタイは殉教するほどに神と人々を愛する者へと変えられました。

12弟子の姿、生き様に当時の人々はキリストを見たのです。ですから日に三千人が五千人がイエスを信じたとあるのです。弟子たちはイエス様が御国へ天昇された後に聖霊降臨によって変えられました。イエス様が十字架にかけられた後に、ひとかたまりになって恐れふるえていた弟子達はまるで迷子になった子供のようでした。

その弟子たちと信仰者総勢120人が心一つに祈った時に聖霊降臨されたのです。(使徒1:8)弟子達と信仰者の姿に人々は神を見るようになるのです。天の御国が約束されたのですからこの世のものは無に等しくなったのです。

キリスト者とされた私達は天国への案内人としてイエス様を現し、イエス様の似姿を委託された群れなのです。その事がなるほど「そうだったのか」と受け入れられたら「愛せない者をも愛せるようになる」のです。神はすべての人を愛し生かすために十字架におかかりになったのです。あなたがイエス様を愛すなら苦手な人は一人もいなくなるでしょう。お祈りしています。

「思いを尽くし、心を尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ。」「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」マタイ22:37~39  


Posted by 金城米子 at 07:37Comments(0)

2011年10月22日

信仰と希望と愛を約束された神

13年前に佐敷の海岸で母子心中事件を起した私は自分が神じゃないと否定していたキリスト・イエスに海の中から引き上げられ母子は命を助けられました。その時に劇的な神との出会いで真っ暗な空に白く輝く十字架を見せて、「信仰・希望・愛」の三文字をはっきりと示されたのです。

クリスチャンになってから何故、「信仰・希望・愛」なのかずっと疑問でした。私が宗教と関係のない人生ならその三文字を啓示するのは、解るけれど私は信仰生活を十分行ってきたそれはキリストではないけれど信仰は人一倍あったと自負していました。

高慢でした。自分の世界観を引きずってクリスチャン生活を継続していたに過ぎないと神に砕かれた時に涙の悔い改めでした。本当は信仰なんか何もなかったのです。聖書を熱心に通読し注解書や読解書を読み漁りしたのも根っこにあるのはキリストを愛していたからではなく自分を誇りたかっただけの事でした。神学校へ入学したのも自分の中に神に特別に愛されていると高慢があったのでした。

それに気づいた時に神学校を卒業する意味が解らなくなって4年近く立ち往生していました。迷いがなければ平成七年に卒業していました。伝道学校やその他の小規模の神学校での学びはずっとして来ましたが心が定まらなかった、納得が出来なかった事がありました。

挫折を経験し心が折れた事を通して再び神は私を顧みて下さり憐れんで下さいました。神学校を卒業するために学びを再開するか迷いました。一年間の学費を納入しなければ再開できません。もう一度祈って神の御旨を伺おうと祈っていました。

「信仰・希望・愛」の御言葉が与えられました。そして「神の召命と賜物」は変らないと心に激しく迫って来ました。信仰と希望と愛はキリスト信仰です。キリスト教の道徳的倫理を決定付けるものです。信仰があれば御国への希望がある愛は地上でつなげば天上でもつながるとこの愛が原理で地上と天上の橋渡しになるのだと主は語られました。

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの主である神を愛せよ。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と神の戒めです。神を愛し、人々を愛し仕える事が御国への希望だと主は教えられました

信仰とはそう言うものなんだ。学びはそれに付随するものだと11年目にようやく腹の底から知る事が出来たのです。本当に愚かで浅はかな者です。クリスチャンになって11年目に命を救われた時に啓示された御言葉が心に留まるようになったのです。

悔い改めの祈りによって神はこの不足な者の経済を祝福し、神学校卒業に向けてラストスパークをかけさせて下さいました。息子の介護とカウンセリング伝道とを掛け持ちしながらですが神様に支えられている幸いを感謝しています。

「このようにいつまでも存続するものは信仰と希望と愛とこの三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である」第一コリント13:13(口語訳)  


Posted by 金城米子 at 01:54Comments(0)

2011年10月18日

恐れるな!と言うけれど・・・ネ

聖書には恐れるなと言う事があるけれど私もその言葉を使って人を励ましますがどうにもならないものがあります。私は花が嫌いな訳ではありません。花を飾らないのは実は、花から出てくる虫をどうしても連想してしまうのです。クリスチャンになってからは虫も生きているんだからと思うようにしようと決心したのです。本当に虫を恐がらないと自分に言い聞かせていたのです。

ところがです。台所に水を取りに行こうと足を踏み入れた途端です。床の上で何かがにょっこりにょっこり真っ黒で5~6センチのデカ虫が這っているのです。「ぎゃあー」叫び声を上げて逃げ出しました。でも、家の外へ出さなければ眠れません。障害の息子が虫を取ったらと思うと体中の毛が総立ちでした。

ほうきをつかってやっとの思いで外へ掃き出しましたが心臓がパクパクです。「神様。恐れるなと言いますがやっぱり恐れます。こんな時は、家に男性が必要です」と叫びました。多分。しばらくは部屋のドアを開けるのも恐いかも・・・外に掃き出した虫が掃き出された時に怪我をしてと言って戻ってくるんじゃないかと頭がパニックってしまいました。

子供の頃にやもりを引き戸で思いっきりバッシと挟んで潰したことがありました。やもりの体が半分にちぎれて足元に落ちて来たのです。それから数日間も私は夢でうなされていました。叱られても窓を開けることができなくなっていました。殴られるよりも虫が恐いのです。やもりも恐いのです。誰か助けて状態です。

このブログを書いている間にも手元にやもりが落ちてきました。「神様。助けて!」です。息子に「母ちゃんを助けて」と叫んで部屋の中を走り回りましたら何も知らない息子は遊びと思ってフイバーしています。

悪霊よりも虫が恐い私です。何とかして下さい。

「恐れるな。わたしがあなたと共にいる」と言って下さいます神様どうか私が恐れないように全ての虫とやもりをわたしの側には近づけないで下さい。アーメン」  


Posted by 金城米子 at 20:38Comments(1)

2011年10月18日

大渡浜(ううどぅばま)?

ジョン万次郎漂流の看板を辿って行くとそこに拝所があります。「水」の神様と過去に拝みに行っていました。湧き水と海水が仲良くしている不思議な場所です。そこで私はキリストの御言葉を何度も聞きました。???意味不明でした。

頭上から大きなハブが私の頭に落ちて来て足元にハブがとぐろを巻きました。でも、すぐに何かに驚いたようにハブが私の足元から逃げ出そうとしたのですがハブが死にました。

訳が分かりませんでした。守られた事だけを感謝して帰りました。帰りの車の中で拝所で聞いた言葉を反芻していました。「目を真っ直ぐに注げ、あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ」箴言の4:25の御言葉です。意味不明な言葉ですから誰にも話せません。

何となく(今、私達が神様と拝んでいるのは間違っているんじゃあないのか?)と考えが入りました。それから3日目に私は一人で再びその拝所に行きました。その場所に数時間ほどいて静かに神様からのお告げを聴こうと手を合わせていました。

(天も空も空気も木々も水も創造された神があなたの父でその父神があなたを地上に置いた)との思いがはいって来ました。私は勘違いしました。私の前世に関することを言っているのかと思いました(笑い)です。何処までも悟れない愚女です。

でも、拝所でキリストの御使いに出会うなんて不思議ですよね。御使いは「ミカエル」とはっきり自己紹介をしました。私は内心は得意になっていました。私の守護神はとてつもなく強くてハンサムで私を愛してくれていると勘違い幸せオンパレードでした。「ミカエル」は私の守護神の名前だと信じて疑わなかったです。何で情報を得ようとしなかったのかと後日になって悔やまれました。

ミカエルはキリストの大天使です。悪魔の親分になった「ルシファー」と天国で戦って負けた大天使でした。神様は高慢で神に逆らって神の御座に着こうとしているルシファーを天国から追放して下界へ落としました。空中や地上が悪魔になったルシファーとその時に追放されたルシファーの家来たちの住みかである事が納得できました。(ルシファーの家来は天の星の半分ほどだったらしいです)

その事が解ってから私は雲の中に竜の姿を何度か見たのは空中にこの世を支配する大物の悪魔は地上で霊感の強い人や神が用いようとする者をターゲットにしているんだなあと確信し確認もしました。それからは毎日が戦いの訓練ですよ。

私はクリスチャンからも偶像崇拝のグループからも迫害の連続です。さすがの私も降参し消えたいと思った時期もありました。そんなこんなでやがて、第二のフランチェスコになるところをミカエルと言う恋人が臨んだのです?教会のトップやリーダーも洞察力もなかったかも知れませんがイエス・キリストの寛容と愛が全く無かったと断言できますけどね。

私の心も高慢になっていて天のお父様(創造主。キリストの父神)に背中を向けていたからお灸をすえられたのかも知れません。悔い改めました。そして現在に至るです。

沖縄の拝所の一つひとつの聖別の祈りをし、拝みをしている人々に真理の神を伝えて全ての沖縄県民をキリスト門中にしたいと燃えています。伝道の友が与えられますようにお祈りください。

「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません」一ヨハネ5:12  


Posted by 金城米子 at 07:57Comments(0)

2011年10月16日

熱心に愛し合いなさい

「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい」ペテロ4:8~9の聖書の御言葉です。私はこの箇所でクリスチャンの生き様はこういう生き方が出来るのだと確信しております。

キリストを愛し、兄弟姉妹として御言葉を一緒に学んで来た筈なのに何故かクリスチャン同士が裁き合い批判し合っている教会の現状を憂いています。「小指が痛めば体全体が痛むのです。」と言う御言葉はクリスチャンは一つの信仰、一つの体と言っている事なので小指が痛めば体全体が痛むと教えています。小指は一人の信徒に例えて言っています。

一人の信徒が苦しみ痛めば「他の信徒も共に同じ痛みを感じなさい」と言う事です。「痛みを共有して支え合いなさい」と教えている御言葉なのです。キリストの愛に真似て互いに支え合って生きて行く事だけが真実の愛です。言葉だけで愛を語っても実践がなければ信仰の実はありません。

聖書は神の御言葉です。その聖書に使徒の働きがあります。イエス・キリストの12弟子を中心として多くの弟子たちがギブツでの共同生活をしながら伝道をしました。その弟子たちは持っている者を持ち寄り生活をしていました。弟子たちは同じ考えでいました。「キリスト者は世から分離された特別な絆で結ばれている者。」と言う考えでした。

それは、愛の共同体と言う自覚をはっきりと持っていたという事でした。何があってもどんな些細な事があっても互いに助け合ってキリストを伝えていく事だけを目的としていました。性格も生活形態も違う人々が死に至るまでに忠実に伝道の為に働く事ができたのはキリストを愛するが故にキリストにあって一つであると言う事でした。「自我に死ぬ」事に徹していたからでした。

イエス・キリストが十字架にかかる事が出来たのは何故だと思いますか?完全に「自我に死んでいたからです」自分の意志を全く父なる神に献げていたからです。あの十字架の死がなければ世界の救いは無かったのです。自我に死ぬ事はキリストに生きる事なのです。キリストを模倣として生きる事が出来るのです。

県民を愛する心があるなら「島ごと携挙」をスローガンに各自が各自の持ち場立場での伝道が出来るはずです。それぞれが自分のいる場所が宣教の場であり、講壇なのです。イエス様がペテロの舟の上で説教を語りました。ご存知の通り舟はペテロの仕事場です。それが講壇になったのです。今、あなたがたが置かれている場所が講壇なのです。

沖縄県民の魂の救いのために一人ひとりが目を覚まして来るべき日に備えて下さい。それがまず、「互いに愛し合いなさい」なのです。一つのこと(宣教)を成功させるのには「愛する心。支えあう心」が必要なのです。その心が今、クリスチャンに必要とされているように思わされます。お祈りしています。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反する事をせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに、真理を喜びます。すべてを我慢し、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることはありません」第一コリント13:4~8a
  


Posted by 金城米子 at 22:29Comments(0)

2011年10月14日

神ではなく良心に裁かれたのです

本土からの20代の女性で河野咲子(仮名)に出会ったのは彼女が通っている大学での学園祭でした。私は学園祭に出向くのが楽しみでしたので息子を連れて出かけました。咲子さんのほうから話しかけてきました。

咲子さん「息子さんは何歳になるのですか?」

私は息子が中途障害である事を話して意気投合したので連絡先を教えあいました。それからすぐに咲子さんからの連絡で私達は近くのマックで会いました。咲子さんは自力で学費を稼いでいると話し、その話の中で彼女は母子家庭で育った話をしました。父親は幼い頃に女性をつくって離婚したと話していました。

私は彼女を娘のように愛するようになり、彼女は私を「お母さん」と慕うようになりました。半年ほどして彼女が眠れないので病院へ連れて行ってくれるようにとの事で浦添の病院へ連れて行きました。彼女は鬱と言う病であると診断されました。

やがて入院を余儀なくされて3年間の入退院をしました。もちろん私が諸手続きをしました。いつのまにか私が彼女をカウンセリングするようになっていました。彼女が病院のカウンセリングを拒否したからでした。
カウンセリングでは自分の心がますます惨めになってしまうと言ったのです。

彼女の苦しみの原因が生い立ちの話からすぐに理解出来ました。彼女は再婚した父親と相手の女性が分かれたら再び平和な家族に戻れると考え付いたそうです。父親とはずっと訪問したりしていて宿泊させてもらうこともあったそうです。

父親の家に宿泊した時に咲子さんは、大変なことを思いついて実行したのでした。父親と再婚女性を別れさせたいと思った末に彼女がとった行動とは、放火でした。アパートの部屋に放火したのです。それを女性が放火したと証言したそうです。警察の取調べや消防の聞き取りが続き相手の女性は流産してしまいました。濡れ衣を着せられてしまったゆえの精神的なショックでした。

父親とは別れたもの父親はそれ以来彼女とも会うのを避けました。母親に懇願したそうです。「お父さんに会ってもう一度元のように一緒に暮らそうって言って頂戴」としかし母親の言葉は「覆水盆にかえらず」と言って「お父さんは、咲子のような恐ろしい女の子とは一緒に暮らせん。いつ、寝首をかかれるか知らんからなあ、と言っていたよ。お前は悪魔の申し子だと言っていた。お母さんもお前が恐いよ」でした。

それ以来、母親から離れて彼女は、同級生の母親に懇願して同級生の家から学校へ通うになり、中学生の頃から年を偽ってアルバイトをして今日に至るようでした。その事が事実かどうか母親へ連絡しました。母親は「咲子は死んだと思っていると言って沖縄へは金もかかるから迎になんか行けないし、一緒に住みたくも無い」とはねつけました。

その言葉はさすがに咲子さんには伝えませんでした。病院へは毎日二回から三回ほどお見舞いに行きました
聖書の事も良く理解できない私で何と言えばよいのか戸惑いがありました。聖書をプレゼントしましたら彼女は、すぐに読み始めました。

何処に私の救いがあるのかと必死でした。咲子さんと母親との和解を熱心に祈りました。そして、ついに母親から連絡が入りました。迎えに行きます」とです。近くで精神科の良い病院も見つけてお願いはして来たといって下さいました。お母さんは咲子さんの心境はよく知っていたが父親との距離を断ち切ってしまったのは咲子さんの行動だったと思いで生きて来たと話されていました。和解が与えられ母と娘は抱き合い泣いていました。

咲子さんは未成年ゆえに一人で生きるためにはどうしても人の良さそうなおじさんを見つけて騙さなければ生きられなかった事を打ち明けました。援助交際をしながら騙しの世界で生きて来たと話していました。「今は神様のさばきを受けている。もう、治らないかも知れないね」といいましたので

私は「咲子さん。神様が裁いているのではないですよ。私達の神様、イエス様は御怒りにあわせるために世に来たのではないと仰っていますからね。イエス様に出会って救われるためにですからね。あなたは自分の良心に裁かれ続けていたのね。苦しかったでしょう。可哀想にね。人の良心は内側から責め立てるだけですからね。誰もあなたを裁けませんからね。私達はみんな罪人ですからね。罪を赦された罪人なんですからね。九州へ帰ったら近くの教会をお母様と訪問して下さいね」と励ましました。

「主よ。あなたの憐れみと恵みを覚えていてください。それらはとこしえからあったのですから。私乃若い時の罪やそむきを覚えないでください。あなたの恵みによって、私を覚えて下さい。主よ。あなたの慈しみのゆえに」詩篇25:6~7  


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2011年10月13日

人を生かす言葉と殺す言葉

主人のKが洗礼を受けて数年間は禁煙と断酒が成功しつつありました。Kはその事を褒めてほしかったのでしょうね。ベビークリスチャンですからね。ところがその話を聞いた先輩クリスチャンが一言「聖書の何処にも禁酒と禁煙の箇所はないですからね」と言いました。

Kはその時に私の顔を物凄い形相で睨み付けました。帰宅してからが大変でした。嘘つき呼ばわりされました。「お前は、俺が聖書を知らないからと言って口からでまかせを言った。俺は恥をかいたんだぞ。それがお前の信仰か?」・・・と。

取り付く島もありません。その日、主人のKは酒とタバコを買いに行き、もとの酒乱に戻り、元のヘビースモーカーに逆戻りしました。Kがアルコール依存症と戦っている事を知っているクリスチャンがなぜなの?と私もわけが分らなくなり悲しみと憤りがこみ上げて来ました。

それ以来、主人は私と話をしなくなり、自分の殻に閉じこもっています。自分に都合の良い事だけしか受け入れる事ができません。五年間の言動の暴力を忍耐し祈っていました。暴力は絶えず私は家出をしました。私は見栄っ張りですからそのような結果になってしまった事を誰にも言えずに立派な主人を語り続けていました。ちっとも証しにはならない結末になっている事が苦しかったのです。

私は家にいても居場所がない。教会は針のむしろ状態?何処にも自分の居場所が無いゆえにひたすら心を主に向けるしかありませんでした。公園は唯一の祈りとさんしん賛美の場所になり、知人も多く出来るようになってそこが伝道の場所にもなっていました。

毎日を主人の暴言に忍耐する事によって「赦す心」「忍耐」「寛容」が与えられて行きました。公園で半日以上いる人達も家では居場所が無いことと、公園が彼らの避難場所である事を知るようになりました。彼らの身の上話を聞かされているうちに祈りとキリストを証し出来る様になりました。

日々、主人の言葉に殺されている私は箴言の御言葉20:30を唱えています。「打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹のそこまで打ち叩け」。この事は神が私の腹の中にあるすべての悪を洗い落とすためだと感謝しています。

主人の言葉で私は日々、自我に死んで「生きているうちにわたしを信じる者は死んでも死なない」ヨハネ11:26の御言葉で復活して伝道に走っています(笑い)この私の為にあるのだと確信しています(笑い)私の誕生日が11月26日と重なっているので・・・

それにしても言葉は上手く使わなければと今更ながらに言葉の持つ力を痛感しています。主の導きを祈りつつ口を開くことが出来ますようにお祈りします。

「ぶどう酒はあざける者。強い酒は騒ぐ者。これに惑わされる者は、みな知恵がない」箴言20:1

聖書は酒に関する事や嗜好品や趣味や快楽に依存する事が悪である事を御言葉で示されています。  


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2011年10月11日

姐さん女房を悩まさないで

10歳以上も年下の男性を夫に持つとコミニュケーションがしっかり取れていないと姐さん女房は不安が募ります。もしかしたら若い女性と浮気をしていないかと心騒がしくなります。ここ数ヶ月間、眠れなくなって不安で動機がすると言う相談を受けました。

何がきかっけでそのようになったのかなかなか本音を語らないので夫婦のコミニュケーションはどうしているのか聞きました。仕事人間で職場の人を大切にする性分でもあり職場の人達との時間を多く持っているのも理解出来るがやりすぎじゃないのかと思うと不満を吐き出して来ました。

年下の夫は健全娯楽趣向で体を動かすのが好きでボーリングやバッティングセンターへ土曜日には誘うのですが彼女は二人っきりで静かなレストランへ行ったりドライブを楽しみたいので夫の要求にはこたえられないと話していました。

そこで恵泉塾で学んだ事から話をしました。人間は元々が自己中で自己愛の塊ですから「私は私が私の」と私中心なのです。この夫婦の問題点は正にその「私はOOへ行きたい。私の言う事を聞いて私が望むことをして欲しい」なのです。長年も一緒に生活をすると自我がそのまんま出てきます。

それがノンクリスチャンの夫婦なのです。自我の砕きはクリスチャンには理解出来ますからその事で悔い改めて相手の要求を喜んで満たそうとします。聖霊が内住していますからクリスチャンの怒りは一時です。聖霊は罪を語ります。「赦せない」心は聖書を踏んで立っているのですよ」と・・・すぐにギブアップして悔い改めます。

自己中心も自己嫌悪も自己憐憫も自己顕示欲も実はすべてが自己愛のゆえである事、夫の正義と妻の正義が争いの元になる事を聖書的な面から話をする事が出来ました。「自我をフィルターにしてご夫婦が向かい合っているから歩み寄れないのですよ」と伝えて、

年下のご主人には「姐さん女房を悩ませないでね。あなたが彼女をお嫁さんにしたのは彼女のお姉さん的な愛情に癒されたからでしょ?他の若い女性には無い癒しの泉とアロマの香りの立ち込める空間を奥様は持っていらっしゃるのだからその泉を枯れさせないでね。アロマの香りはご主人を恋い慕う彼女の香りなのだと思ってくださいね」と話しました。

年下の夫は照れながらも姐さん女房の肩を抱いて帰って行きました。このご夫婦は必ず神様が捕らえて下さる事を信じて祈りながら見守っていきたいと思っています。

「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけて下さい。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です。大水もその愛を消すことはできません。」雅歌8:6~7

  


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2011年10月07日

心騒がせないで

思春期の息子を持つ母親のG子さんからの相談でした。長男の息子のE君が専門学校へ行きたいと言い出して我が家は今、嵐の中にあると言うのです。G子さんは長男に「弟や妹の学費もあり生活が苦しくて経済状況が困難だから自分でアルバイトをしていけるようにしなさい」と言っているそうですが聞き入れてくれなくて暴言を吐く始末で何ともやり切れないでいるとの事でした。

父親と息子が全く口を聞かなくなって冷戦状態にあると言うのです。息子が何か自暴自棄になって悪さをしないかと不安だと話していました。G子さんの話を聞いていると彼女は物事を客観的に捉えることができていない事、息子を溺愛していて父親が何とか息子の意に添うように動いてくれる事を望んでいるのだと分りました。

要するに夫婦が一致した考えを持っていないのです。表では夫の意見に同調しているが内心は息子と同じ意見なのです。私はG子さんにあなたはどうしたいのですか?」と尋ねました。G子さんは「夫が借り入れをして息子の希望を叶えてくれればと思っているのに、夫は頑として自分の道は自分で切り開きなさい。で突き放してだんまりです」と言いました。

私は「あなたのご主人の意見は正しいですよ。それにあなたの二重人格的な心はダメです。ご主人の意見は誰が聞いても納得ですよ。あなたは夫の意見に賛成するべきです。心からですよ。あなたの心に裏表がある事が息子さんにも伝わっているのです。

彼女は長男の息子を溺愛してきたようでした。夫は仕事人間で家には眠るためにしかいないので寂しさをまぎらわすために息子に懸命に逃げていたと話しました。長男の息子とすぐ下のお子さんとは七歳も年が離れていると言う事も長男を溺愛する要因になっていたようです。

母親の息子を溺愛するのは息子を怠惰にする事を多くの母親は知っていません。世の女性はマザコンを嫌いながら自分はしっかりとマザコンを育て上げている事に気がつかないのです。仕事人間の父親はと言うと子供が生まれたことで母親との関係は隷属関係になってしまい妻には女性としての期待を持たなくなるのです。

私はこの家族に関わっていかなくてはとの思いにかられ長男とも会う約束を取りました。G子さんには心を守る事を話して聖書にある「心を騒がせてはなりません」と言う箇所から神と人間との正しい関係は両親と子供との正しい関係でもある事を話しました。G子さんのご家族はこれから私との関わりを持つ事を了承して下さいました。

「何よりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐに前に注げ、あなたに対しているものにまなざしを正しく向けよ」箴言4:23~25の御言葉です。正しい家族関係をこの御言葉からG子さんに語りました。  


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2011年10月06日

広島バプテスマ教会の日々のみことばからです


「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、、あなた
がたにすべてのことを教え」ヨハネ14:26

ある人が献身して、会社員として働き、職場で、教会で、喜びを持って神に仕えていた。そんな時、上司から、管理職に強く推挙したが、ダメだったとの言葉を聞いた。その時、心の動揺を隠せなかった。自分は、主のために生きたいと願い、立身出世など全く考えてないと思っていた。しかし、いざその場になると、自分の内に強い野心がある事を知り愕然とした。

何も無い時は、自分でもわからなかったが、本音では、同僚に絶対に遅れをとりたくない。地位、肩書きを求めている自分を知った。心の内の何もかもを、主の御前に打ち明け、悔い改め、今一度自分自身を献げた。その時に、主からの深い平安が臨んだ。もう何にも代えられない平安だった。どうであれ、主を第一にして生きて行きたいと思った。しばらくして、突然の管理職の命を受けた。何もかもご存じの主が、動機を聖めて下さったと感じた。


ある人は、主のために熱心に教会で奉仕をしていた。主のためにと思っていたが、ある時、御霊に動機を照らされ、主のためでも何でもなく、実は人と張り合っている自分の姿を見せられた。虚栄心、プライドであり、自我だった。心底悔い改め、その奉仕から身を引こうと思った。その時、その奉仕に関する依頼が来て、主のあわれみを覚えさせられ、心新たに、今度は主のためにあずかれた。御霊は私たちの心を照らし、聖め、正しい道へと導いて下さる。
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私達の内にいつもおられる御霊は、祈りに応えられる助け主だ。間違いを教えられ、軌道を修正してくださるから、私達は聖さや平和を願って歩める。御霊の声を信じ聞き従おう。

hanna7の証です。
同じような体験をしました。もう、伝道をする資格も取り上げられたので主の前に悔い改めて生涯口を開かずに静かに教会の椅子になろうと決心した時期がありました。しかし、神は奇すしい御わざを持ってして再び立ち上がらせてくださいました。数人のイエス様の弟子達や信徒からのエールが送られて来て立ち上げられたのです。神様は、私達の心を常に探って下さり聖めて用いて下さいます。主に感謝して顔を上げて歩んで行きましょう。このみことばを落ち込んでいる愛するR子姉妹へ送ります。
  


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2011年10月06日

女性専用のギブツ(共同生活施設)

クリスチャンになる前からの私の祈りです。母子・寡婦家庭・身を寄せるところが無い女性のためのキリストの施設を望んでいます。クリスチャンになってから聖書にギブツがあった事(使徒の働き)を知り、また、イスラエルでその施設を目にした時、嬉しくて興奮しました。

現在のイスラエルはギブツの力が弱まっていると聞きましたがこれから再び必要に迫られると思います。クリスチャンの母子家庭や寡婦家庭がいます。生活が苦しくて家賃を滞納したり、食費がなかったりで祈って欲しいと依頼が来ます。

心が痛いです。複雑な事情で行政の支援が受けられない女性の訴えを聞くたびにギブツの必要を覚えます。彼女たちは信仰がなければ立つことができません。ですから衣・食・住が満たされたら素晴らしい働き人となれるでしょう。

昨日も二人の女性から祈って欲しいとの連絡がありました。なかなか、就職が決まらない、家賃の日が迫って来ている今月分を支払えなければ強行手段を取るしかないと言われたそうです。「ああ~神様。私に施設を管理させて下さい。」と必死に祈っています。主の御心がなりますように・・・主は憐れみ深いお方ですから主に期待するしか術はありません。

昨夜は「心優しくへりくだった金持ちのクリスチャンを起して下さい」と祈りました(苦笑)祈らずにはおれない毎日です。ギブツが与えれますようにお祈りください。

「みなしごや、やもめが困っている時に世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守る事、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」ヤコブ1:27と新約聖書にあります。

私が20代で母子家庭になり、肝機能障害で働けなくなった時に行政に助けを求めました。行政の言い分は「あんたは若いし、綺麗だからその気になったら幾らでも生活の方法があるでしょ?助けてくれる男は沢山いるだろう」でした。

身を汚しても子供を育てる事が出来るという意味でしょう。辛かったです。怒りで一杯でした。今なら訴える事が出来る時代です。では、旧約聖書にはどう言うふうに記されているでしょうか。

「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。しかし、あなたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合は、わたしは必ずその叫びを聞く。そして、わたしの怒りは燃え上がり、あなたたちを剣で殺す。あなたたちの妻はやもめになり、子供らは孤児となる」出エジプト22:21~23

貧しい母子家庭・寡婦家庭の方々のためにお祈りください。  


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2011年10月05日

イスラエルと聖書預言

安保理、審査委に付託=パレスチナの国連加盟申請

2011年9月29日(木)00:03


 【ニューヨーク時事】国連安保理は28日、パレスチナが23日に行った国連加盟申請を安保理の審査委員会に付託することを決めた。パレスチナが加盟条件を満たしているかどうかなどを協議する。第1回会合は30日。結論が出るまで一定の時間を要する見通しだ。

 パレスチナの加盟には、拒否権を持つ常任理事国の米国が反対するなど、安保理内で見解が割れている。審査委は安保理理事国全15カ国で構成されており、対応方針をまとめて安保理に報告する。

 安保理は報告を受けた後、パレスチナの加盟を総会に勧告するかどうかを判断。勧告が決まれば、総会が採決を行い、全加盟国の3分の2(129カ国)以上の賛成で加盟が認められる

ゼカリヤの預言「その日わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げる者は皆、深い傷を負う。」12;3 世界が巻き込まれますね。


クリスチャンの兄弟が送ってくれたメールです。イスラエルのためにお祈りください。イスラエルが頑固で強行なのはイスラエルの民の中に平和の君であるキリストが隣在しないからです。しかし、それでも神は(イエス・キリスト)イスラエルの民を愛しています。「イスラエルを祝福する者は祝福される。のろう者は呪われる」と聖書にありますから祈るだけです。  


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2011年10月05日

お母さん。ぼくを殺さないで!

昨夜のテレビ番組で植物人間状態の母親が出産したと言うのを観て感動しました。その番組でゲストの方がおなかの子供が「生きたい」と思ったのでしょうね。との言葉で私はある事を思い出しました。

交通事故で入院中した時は妊娠四週目でしたがそれから二ヶ月近くして大出血をし、便器の中の出血を確認した医師が赤ちゃんは流産したと思い子宮の中を綺麗にしなければと中絶手術を準備しました。エコー検査でも心音は確認できなかったので止むを得ません。しかし、私の中で不安がありました。

その時、お腹から声が聞こえたのです。「お母さん。僕を殺さないで」でした。傍にいる看護士にその事を話しました。看護士は医師に伝えると医師は手術室にエコー検査機を運ばせて再度エコー検査をしました。すると、お腹の中で花火の確認がはっきりと出来ました。

「この花火のように見えるのが赤ちゃんの心臓ですよ。赤ちゃんの入った袋の形も綺麗に修正されていますから大丈夫ですね。あなたはカミンチュウねえ?(神の人)」と医師は説明しカミンチュウかと聞きました。あの時のあの声は子供が生きたいと望んだ意志に神様が答えてくれたのだろうと思います。

「生きたい」と息子は必死に難病と戦いながら叫び続けてきました。だから、何度も呼吸停止を繰り返し四度の心臓手術にも耐えて来たのでしょう。自分が生きたいと欲したのではなく真理の神の御心を行うためだったのだろうと今は十分理解しています。

息子を育てる事で私は人間としての自分を取り戻しながら自分の可能性は神からの賜物であって決して人力では何事も成し得ない事を痛感するようになったからでした。「自分が」「自分が」で頑張って来ていて、常に自分がトップにならなければ気がすまない高慢が砕かれ、息子は「私の祈りで奇跡を起こして見せる」と豪語し自分の為に神を利用している愚かな者でした。高慢な心の根はクリスチャンになってからも新芽を出したりで苦戦していますけれどね(苦笑)。

主イエス・キリストは病児の母としての私を憐れんで息子を私の傍に置いてくれていたのだと聖書を通して悟った時には目からうろこでした。聖書の中では娘の病が癒される箇所とやもめの女の息子が死から生き返る箇所があります。イエス様の奇跡ですがそれは、イエス様が母親を憐れんだゆえに癒され、生き返った事なのです。親の霊が真理の神を受け入れなければ救いから洩れてしまう事をも憐れんだのでした。

その事を理解した時に涙が止まりませんでした。愚かでチリに等しい者を顧みて下さる主に心から感謝しています。このキリストの愛を飢え乾いている人々に伝えなくてどうする?と言う思いはクリスチャンになってからずっと変る事はありません。人にはつまづきましたがイエス様につまづいた事は一度もありません。

「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにして下さったことをことごとく知らせなさい」マルコ5:19

偶像崇拝の中に生まれ、育ち罪の中に死んでいた私に神は同胞である「島人を救いなさい」と召命された事を私は確信しています。「沖縄県人の一斉の救いの為に今日も生きる」のスローガンです。  


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2011年10月04日

チャールズ E ・フラー

チャールズ E.フラー
<古風なリバイバリスト>

 チャールズ E.フラーの名は、クリスチャン世界において、長年にわたって、現在活躍中のどんなクリスチャン指導者よりも、よく、知られてきた。彼の古風なリバイバル・アワーは、世界中、英語が使われている所ならどこででも、聞かれた。彼は、その当時からずっと、他の誰よりも、たくさんの人に福音の物語を届ける器として評判が高い。

 以下の出来事の写しが、レイダー大会の賛美指導者であったアーサー・W・マッキー氏の財布の中に長い間入っていたが、後に非常に貴重なものとなった。

 「1917年にさかのぼるが、当時、私は、クリスチャンホーム出身の、成功した青年実業家であった。しかし、私は、大学において、神への信仰を失っていた。

「その年のある日曜日、ちなみに、それは、七月の第三日曜日であったが、私は、好奇心から、ロサンジェルス市にあるオープン・ドアの教会に、ポール・レイダーの説教を聞きに行った。

私は、求道者の席に着いた;ポール・レイダーがキリストとその十字架について、聖霊によって大変力強く語ったので、私は、自分自身が、ひとりの失われ、破滅した、罪人にすぎないとわかって、深い罪の自覚を得た。彼は、エペソ1:18,19からメッセージを語った。」

「私は、その時には、私の何が問題であるのかは分からなかったが、前の座席に頭をもたれかけて、深い罪の自覚に震えた。午後の集会が終わり、私はハリウッドの公園へと自動車を走らせた。

そこで、私は自分のツーリングカーの後部座席に跪いた。そして、その祈りの格闘の後に、私は、神に、私を救って下さるよう、また、救って下さるなら、私と私の能力を用いて、主のために、他の人々に遣わして下さいと祈った。」

「私は、新しく生まれた。そして、そこから、もう一度ポールの説教を聞くために、夜の集会へと戻った。その説教は、私にとって、天来のマナのようであった。私の心は、まさに、喜びではち切れそうであった。

そして、実業界で出世し、お金をもうけようというすべての欲望が、私から去った。私は、ただ、主がお許しになるなら、神が私を用いて、神のために魂を勝ち取る仕事をさせてほしかった。」
 
「後に、私は、カンザス州のマックファースンとインディアナポリスにおける協議会で、ポール兄弟と、祝福された交わりを持った。彼は、私がいつも使っている聖書に、自分の名前を書き入れ、その下に、『地上に於ける天国の数日』と書いた。

確かに、協議会の間、共に交わりを持った数日間は、天国の日々であった。」「私は、他の大勢の人々共に、天の栄光の中にあるポールに向かって、『ポール兄弟。あなたが神の言葉を語ったとき、聖霊がそれを用いて、私に罪の自覚をもたらし、私は救われました。それ故に、私は今あるのです。』と言いたい。」

  


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2011年10月04日

身内に御言葉が行き届かない?

私の目には容姿端麗と映る他教会の信徒との話から感じた私の意見です。彼女が通っている教会には牧師の家族がいます。その内の一人の甥っ子が容姿端麗の女性にメールストカーをしているとのことで迷惑しているとの事でした。

一方的に迫ってくる彼に彼女は嫌悪感を持っていると言う事でメールには返事を送り返さない、電話も無視しているそうですが一向に気づきがないとの事で困っているとの事でした。メールの内容がまるで恋人気取りなのも気になったいるようすでした。

教会で牧師の身内が幅を聞かし無言の威圧感を与えたり、お気に入り信徒に馴れ馴れしくしたりする行為で不快感を感じる信徒からの相談を受けたことがありました。常識から逸脱しているのなら牧師に直接話して改めてもらう方が良いとアドバイスをしました。

逆に「赦しなさい」と説教を延々とされたそうでした。身内に甘い牧師は後継者が育ちません。聖書を教え語っているのにも関わらずに直接の血縁者からの後継者が与えられないと言う事も聖書は示しています。

預言者サムエルは幼い時から神様に献げられ神様の御声を聞き従う事が出来た立派な預言者でした。彼は素晴らしい神の働きをしました。しかし、サムエルの弱点は息子たちに甘い事でした。息子たちを聖書的に育て上げる事ができなかったのです。子育てに失敗しました。

息子たちは後継者にはなれませんでした。サムエルを教えていた師は祭司のエリでした。エリは息子たちに甘く教え導くことが出来ませんでした。イスラエルの民は息子たちを退けました。神はエリを退けました。城壁から落下して死にました。

私達が師を選ぶときに最も注意をしなければならないのは師の弱点を見極める事です。そして、まねない事です。師の良いところだけを見て良いところを見習い、師の不足のために背後の祈りをする事です。師であっても訓戒が必要な時があります。きちんと話し合うことは必要です。

不足な者同士の集まりですから互いに愛を持って話し合うことは大切です。御国建設が私達の希望ですから話し合うことです。師も訓戒を真摯に受け止めることも必要です。師は特に身内には気をつけなければなりません。

ヤコブとヨハネの母親がしゃしゃり出て来てイエス様にお願いします。「あなたの栄光の座で一人を先生の右に一人を左に座らせてください」マルコ10:35~41参照)。ヤコブとヨハネの兄弟の母親は息子たちを他の使徒たちよりも高い地位に置きたいと願ったのでした。師の働きの足を引っ張るものは身内から出るのです。

ヤコブとヨハネは三年間も苦楽を共にし御国建設の働きをして来た仲間達の事を思わずに自分たちの高い地位を欲したのです。未熟な野心の推進力がヤコブとヨハネの弱点でした。二人は十二使徒と呼ばれるだけでは満足出来ずに昇格し、仲間の使徒たちよりも高い特権と地位を欲しがっていたのです。

知恵よりも熱意を持つ、若い教職者が持っている根の問題です。他者に仕える事よりも師の側近者としての高い地位を求めて近づいて来る熱心な信徒の根の問題です。大きな教会組織こそこの根の問題がはびこっている事を見受けます。

聖書は神と人類との歴史書です。そこには人間の深いところに潜む罪が社会を動かし真理の神の不在するところの社会の闇と崩壊を知る事が出来る唯一の書物です。聖書は万事が神の憐れみと恵みで満ちています。そして人の心に在る闇をはっきりと記しています。

闇の力の持つ恐ろしさと闇を引き込んでいる人間の愚かさがはっきりと理解出来る書物です。私のような学歴も無い、知識もない愚かな者でさえも聖書が何を私達に語っているのか理解出来る書物なのです。キリストを愛する者達が敵対する事無く互いに愛し合い協力して行く姿を神はどれほど望んでおられるかと思います。

キリスト者の戦いは御国建設のための愛の実践を行使する戦いなのです。愚かで取るに足らない主のはしための私が言う事ではないと思いますが教会こそは御国である事が誰にでも納得できるようにと祈ります。

「人よ。あなたたちに向かってわたしは呼びかける。人の子らに向かってわたしは声をあげる。浅はかな者は熟慮することを覚え、愚か者は反省する事を覚えよ。聞け。わたしは指導者として語る。わたしは唇を開き、公平について述べ、わたしの口はまことを唱える。

わたしの唇は背信を忌むべきこととし。わたしの唇は全て正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない。理解力のある人にはそれが全て正しいと分る。知識に到達した人にはそれが全て真っ直ぐであると分る。銀よりもむしろ、わたしの諭しを受け入れ、精選された金よりも、知識を受け入れよ。知恵は真珠に勝り、どのような財宝も比べる事はできない」箴言8:4~11

  


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2011年10月03日

私の内に隣在する神

しばらく前にクリスチャンの兄弟と神の隣在について話をしました。私はキリストの霊が私の全体を囲っている。風船がキリストの霊に例えたら私はその風船のなかに置かれており、その風船の中から私はどんなに出ようとしても出れない存在、しかし、キリストの霊が私の選択肢を邪魔する事は全くない事、自由と開放感がある事、それでいて守りが完璧である事を確認できている毎日を体験しているのです。

そして、キリストの霊が私の中に住み込んでいて常に私の心(霊)と語っている事を私は実感しているのだと話す事はしませんでしたが何故なら誤解を招く発言はしたくなかったのです。私の心の中には多くの部屋があります。その部屋への出入りをイエス様は自由にしています。

イエス様は自由にどの部屋にも出入りして私の思考を聖めて下さいます。私の霊との会話をします。ですから私は内外ともキリストの霊と共に在ると言う確認作業をしています。確信から確認です。イエス様がそうさせて下さっているのです。以前にその様な事を話した時にイエス様の弟子たちから批判されました。

ですからあまりそのような事は言葉にしないようにしていますが私は食器洗いの時にもトイレに入っている時にも(笑い)イエス様と会話を楽しんでいます。ひどい便秘症で力むと膣が出てくるので激しい痛みが走り泣き出してしまいます。

一時期はそれが癒された事もありました。浮かれて有頂天になり十字架から目を離してしまい痛い目にあったのです。再び戻って来た病、でも、癒されたいとは思いません。このままで神様を感じる生き方を続けたいからです。母も手術後の後遺症でそのような苦しみを25年間忍耐してきました。私はその母のDNAを受け継いでいます。

東京にいる叔母も同じように帝王切開の手術後の後遺症で膣が抜けてくる痛みで苦しんでいると話していました。私達は神がいないと絶対に生きられない存在だと三日三晩そのような証をした事がありました。叔母は創価学会信者でした。母は拝み人でした。私はクリスチャンでした。

でも、お互いの信仰を裁くことはせずに神が自分の内側にいると確信しなければ生きてゆけない事で話が一致していました。叔母は最後に私に「あなたは、キリストに出会って良かったね。親から離れて本当の神様に出会った事は神様がどれほどあなたの忍耐を憐れんでいたかと叔母さんは、思い知らされているからね、叔母さんは心から喜んでいるよ。

父ちゃん、母ちゃんがしている事は誰が見てもおかしいことだよね。神様はあっち、こっちにいる訳ではないしね(拝所)。天地創造した神があると言う事は宗教家はみんな知っているよ。でも、人間は自分勝手な神を作り上げてしか生きられない、しがらみがあるからね。あんたはそれを全部手離せたからね。偉いよね」と帰京前に話していました。

そうなんです、私が「神様。神様」を繰返すのには自分の体のことが神様の守りがなければ存在する事が絶対不可能である事を知っているからです。隣在するキリストが常に私の体の調子をチェックしてくれているという隣在する神信仰が必要なのであります。

あらゆる苦しみ、痛み、病も貧乏もお金持ちも経験して来た私が主にあって「喜び、祈り、感謝」で生きてゆける事こそが生きて働かれる神イエス・キリストを証ししていることなのです。感謝します。  


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