てぃーだブログ › スピリチュアル › 祈り

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2012年07月02日

祈りの力

17歳の長男を突然の事故で亡くされたご家族のために訪問してお祈りしてくださいと依頼があり、訪問しました。「キリスト教ではないから」とのご両親に私は「祈りを届けるのは神様の御心です。神様からご家族と息子さんへの哀悼の心をと示されましたので・・・」と言うと「キリスト教でなくても大丈夫ならどうぞ」と言うのでお祈りをしました。

「憐れみ深い父なる神様。今、事故に不測の偶然の出来事に他人の責任の事故に巻き込まれた若い命を御前に覚えてください。このご両親に心の傷の痛みや事故のショックを受けた体験を乗り越える力を与えてください。主よ。ご家族と友人と共にあなたが居てください。

この苦しみの中に動揺する中にあなたが共にいて下さって癒しと平安を見出す力を与えてください。憐れみ深い神様。私達神を愛する者たちが困難な状況にあって神様を求める人々のために心合わせて祈ることが出来ますように。

悲しみに沈むこのご家族にどうぞ神様の御隣在を下さるように、とこしえに変わらない神さまの導きがご家族と亡き息子さんの上にいつまでも注がれますように。主イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」

あれから数年が経ちました。そのお母さまから連絡がありました。「あの時のお祈りで神様は十字架の教会のイエス・キリストだと心に入りました。まだ、心の傷は癒えませんがいつも神様が息子はわたしと共にいるとの思いが与えられています。時を見て教会に行きたいと思います。本当にありがとうございました」と電話の向こうですすり泣き声がしました。

私の伝道はとりなしの祈り伝道が用いられています。主の栄光です。方言拝みしか出来なかった私に神様は「とりなしの祈り手」と召しを下さり、祈りを導いて下さいますから生きて働かれる主の隣在がここにありますと感謝です。「恥は我がもの栄光は主のもの」との心を忘れずに歩んで行きます。アーメンです。  


Posted by 金城米子 at 20:17Comments(0)祈り

2011年11月16日

聞かれた祈り

25年間の信仰生活を送ってきた姉妹ですが定年退職後に彼女は体調を崩して入院になりました。病名は急性白血病でした。余命宣告を受け彼女は不安と恐れと失望の中にありました。祈って欲しいとの事で彼女を訪問しました。私達には祈りしかありませんのでただひたすら彼女の為に祈りました。

彼女に「ドクターの検査結果は正しいと認めなさい。しかし、あなたはその事を信じてはいけない。子供のような信仰をもって下さい」とアドバイスしました。なかなか難しい事かも知れません。子供のような信仰について私達は話し合いました。

1、迷子になった時に親の姿を見るまでは他者では決して納得しないし、なだめる事が出来ない子供の心に  倣って天の父神を追い求める信仰心を持つこと。

2、冷蔵庫の中においしそうなものが入っていても親がダメだと言われたら子供は我慢する。神を信頼して  忍耐する心を覚えます。

3、元気になった私が主の栄光を人々の前で証しをする幻を見続けること。イエス・キリストの血が私の体  に輸血されていると治療中にイメージすること。

4、常に賛美する事。祈りは神が働く、賛美は力が与えられる。賛美は確信の祈りを確認させるのです。

この四つのことを確信して彼女と心合わせて祈り続けました。タイムリミットがありますから必死でした。でも、私達は一度も神様を疑った事はありませんでした。二ヵ月後に奇跡的に彼女は生還しました。現在は自宅療養中ですが外出もOKだそうで神の憐れみに感謝しています。

たとえ、教会は違っても私達は神様の家族だとの連帯感がありますから祈祷課題が送られてきましたら即座に祈ります。車を運転中であっても仕事していてもかまいません。私達の神様は形にこだわりません。全ての事を超越して祈りを聞かれる神様です。神様の家族と呼ばれることが一番の幸いなのです。

「父が(全知全能の神、天地創造主)わたしを愛されたようにわたしもあながたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」ヨハネ15:9・17

  


Posted by 金城米子 at 11:18Comments(1)祈り

2011年09月16日

祈りの戦士としての召しを受けて

「とりなしの祈り」の戦士として召しを受けてから七年の歳月が過ぎました。ずいぶんと歳月を無駄にした思いがします。他者の為の祈りに自信喪失の時がありました。「とりなしの祈り」では最も大切なのは「悔い改めに導く祈り」である事を自信喪失の期間に聖霊に示されて聖霊から「祈り」の特訓を受けました。

先ず、常に自分自身の聖別と聖化の祈りと自分自身の悔い改めの祈りです。そのためには自分が祈りの輪の中に身を置く事の大切さです。聖徒たちとの交わりの中に身を置き祈ってもらう事も必要です。祈りがなかなか聞かれない時にはまず自分自身の悔い改めがきちんとなされているのか吟味する事は大切です。

私は祈りは必ず聞かれると確信しています。確信すれば神は必ず確認をさせてくれると宣言しています。人の寿命は神様の領域ですから私達にはどうにもならないのですが霊的な癒しがある事は真実ですから私は余命宣告を示された方のためには平安が与えられて御国での凱旋のために備えがしっかり成される事を祈りで支えて行きます。

クリスチャンの凱旋は本当に素晴らしいです。御使いと数え切れないほどの天使が賛美をしながら迎えに来ますし当人も見る事が出来るのです。その場面を何度も経験しています。ノンクリスチャンからは考えられませんよね。喜んで御国へ凱旋するなんて・・・ですよね。

祈りは神が働きます。賛美は力です。クリスチャンが賛美をするのは神の力で聖化された霊魂が凱旋できるからです。ですから葬儀の時には賛美をするのですから賛美を受け入れて下さいますようにノンクリスチャンの方にお伝えしたいと思います。

昨日は祈りが聞かれた事が三件ありました。是非会いたいと願っていた姉妹がいました。教えられた電話番号が「現在使われていません」でした。焦りました。時間がなかったからです。祈りました。番号が違っている事を示されました。そして、数字が示されて再度電話をしました。見事に通じました。

そして、二件目は、年齢制限が今年までの姉妹の公務員採用試験でした。彼女は息子や実家の事で勉強する時間が与えられなくて「祈り」のリクエストがありました。三ヶ月間、祈りで支えていました。試験が近づくに従って家庭の問題が起こりました。

諦めかけていた時に一緒に海岸沿いを気分転換のためにと夜のドライブに誘いました。一時間ほどでしたが彼女の話を聞いてから祈りました。『絶対に大丈夫、神様の御心だから』と励ましてと言う日々でした。昨夜、「合格した」との報告が来ました。

三件目は守秘義務があり報告は出来ませんが信じられないほどに助け人が起されて万事が益になったある家族の問題でした。問題がある事は神の介入がある事だからと心を一つにして神に信頼して期待して祈りましたが見事に祈りが聞かれました。

エステルの気持ちでしたが覚悟しての直訴が受け入れられた事は主の介入でした。見て見ぬふりは誰でも楽ですが祈って動く事も主によって示されたのなら覚悟して行動する事も必要を思いました。

とりなしの祈りは『覚悟』も必要です。断食祈祷、徹夜祈祷、外部の人との接触を避ける、これらの事が求められる事もあります。どちらも困難で間違えば健康を害しますから心を十分に用いる事が必要不可欠です

ヨブ記42:7節以降では、苦境にある友のために正しい言葉での祈りと友に対する行動が神に受け入れられることが分ります。教会に姿を現さなくなった兄弟姉妹に心を寄せて祈る事は神の祝福を得ますので兄弟姉妹のために心を砕いて下さいますように・・・

でも、必ず勝利しますので確信を持ってお祈りに専念して下さいますように「収穫の時期」で実りの穂が豊かにあなたがたの目の前に広がっていますので・・・

「ヨブが友人たちのために祈った時、主はヨブを元の境遇に戻し、更に財産を二倍にされた」ヨブ42:10  


Posted by 金城米子 at 07:39Comments(0)祈り

2011年02月28日

心がくじけて祈れない友へ

今朝のサレプタミニスト~リの御言葉から信仰の友へのアドバイスとしてメッセ~ジを送信しました。パソコンがない友、携帯メ~ルを他者に知られたくない友には私のほうで工夫してメッセ~ジを送信したりFAXしたりしております。いつも多くのクリスチャンや未信者の方や他宗教の方々からの質問があるときにはサレプタミニスト~リ~をプレゼントしています。お年寄りには噛み砕いて方言で子供達にも分りやすくお話が出来ますのでとても助けられています。

何よりも自分の信仰の吟味がスム~ズに出来ますからね。感謝しています。祈れないという信仰者にも心にす~っと入って来て祈れるようになったとの報告を頂き主に感謝しています。祈りが聞かれないと言う方には、以前は時があるからと言うだけでしたがエレミヤ書からのサレプタの解き明かしで祈り方の方向転換が理解でき、その事を教えることが出来ました。

以前は、自分の師の教えにだけに従う事を指導されましたが御言葉を深く解き明かして保育園児でも理解できて実践できる方向に導く事の賜物を持った先生に出会うことも大切だと知りました。まず、自分の賜物をイエス・キリストに聖別して頂く事、そして、主の栄光にだけその賜物が用いられるように臨む事を祈るのです。私じゃなくて主のために(他者救済)ですね。

祈れない友よ。かつての大預言者たちも「祈りが聞かれない」と心くじけて祈れない時がありました。思い出して下さい。ヤコブがつがいが外された箇所を・・・ヤコブが戦ったのは神でした。(今朝のサレプタミニストリ~)「祝福を願う一心」の祈りをこれでもかこれでもかとすがりついたのですね。子供のような信仰もそうなんですよね。私は今朝の御言葉の箇所から息子のある出来事を思い出しました。

息子が3歳半の頃でした。おもちゃ屋さんの前に通りかかった時におもちゃをねだられました。泣き叫んで道に寝転がって言う事を聞きません。そのまま放っておいて隠れて様子を見ました。一時間ほどむずかっていましたが泣き止んだ頃に側に行くと息子が抱きついて来たのです。息子にとっておもちゃよりも私が迎えに来てくれた事の方が嬉しかったのです。「お母さん。どこに行っていたの?}でした。思わず息子を強く抱きしめました。

それから次の給料日には、早速、特別だからねと欲しがっていたおもちゃを買ってあげました。おもちゃ屋さんのおばちゃんは言っていましたよ。「子供があんなにぐずったらたいていの親は根負けするのに、よくぞ今日までがまんさせたね」と・・・

私は「息子がお母さん何処に行っていたの?」と言う言葉が先に聞けたから嬉しかったことを話してこの時の母と子の絆の深さをお互いに確かめたかったからおもちゃに心をとらわれないで「なぜ。すぐにはおもちゃを買って上げられなかったかを教えてがまんしようね。でも、約束は忘れないよ」ということをしっかり教えたかったと話しました。
遠い昔の事ですが今、聖書を学んで御言葉を噛み砕いて話すことの働きにつながっていますから感謝です。

心くじけている友よ。目に見えるおもちゃ(世俗的なもの)よりも(約束を忘れない)見えない神がともにいて下さる幸いを思って下さいますように・・・ア~メン

「誰が主の山に登りえようか。誰がその聖なる所に立ちえようか。手が清く心が清らかな者、そのたましいをむなしい事に向けず、欺き誓わなかった人。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである」詩篇24:3~6  


Posted by 金城米子 at 09:45Comments(0)祈り

2011年02月18日

良子おばさんは今・・・

息子達が幼い頃に「こんにちわ」と元気な声で訪ねて来る良子おばさんがいました。良子おばさんは、旦那のおばさんです。熱心なクリスチャンでした。とても柔和な方でお上品な方で私達の家族の歪みを気にかけていて毎日のように顔を出して玄関で祈って帰っていました。「HANNA7ちゃん。神様があなたを愛している事を心に覚えてね。どんな事があっても必ず息子達はあなたを幸いな者にしてくれるからね。いつか必ず神様に出会えますようにお祈りしていますからね。」と言っていました。

私は、クリスチャンが大嫌いでしたから返事はせずにいました。その良子おばさんの息子が急病で召天しました。20代意でした。一人息子だったので良子おばさんは信仰を捨てるだろうと思っていましたが良子おばさんの信仰は揺らぐことなく私達への対応も変りませんでした。その良子おばさんが年を取られて田舎へ引っ込んだ後にご病気になられたと聞き私は時折お見舞いに行きました。離婚したのに何を義理立てしてわざわざ遠方まで出かけるのかと言われましたが例え一時でも息子達へ心を寄せてくれた人への恩は忘れる事は出来ません。

ですからお魚やお肉などを買って訪問していました。私にとって一番感謝な事は息子達へ思いを寄せてくれる事でした。今は末子の息子の事を一番に聞かれたら本当に嬉しいです。離婚した旦那の田舎へ行く事はとても苦い思いがありました。すでに他の男性と結婚し障がいの息子を産んで離婚された女と言うレッテルを貼られていたからです。でも、それは私のひがみでした。

田舎で出会う人たちは快く挨拶を交わしてくれて末子に対しても優しく接してくれました。みんなが「うちで休んで行きなさい。長い間、車では子供が疲れて可哀想だからなあ・・・」と。涙が出そうになるほど嬉しかったでした。良子おばさんの信仰でした。

みんなが良子おばさんの事を「本当に神様だね」と話していました。謙遜で柔和で寛容の限りを尽くして生きている事が分りました。他人様の援助を受けた時には感謝の祈りをして神様の祝福を祈ってくれましたが決して信仰を強要しなかったそうでした。良子おばさんは質素に田舎に溶け込んで生きていたのですね。だから、訪問してくる高慢な私に対しても田舎の人たちは温かく迎えてくれたのだと思います。

先月は身内の葬儀があって息子達家族と一緒に北部へ出かけました。その時に「HANNA7ちゃん?」と声をかけられました。そこには10代の頃に某有名なデパ~トで一緒に働いていた同年生の勝子ちゃんがいました。良子おばさんの嫁です。

私  「勝ちゃん?いつからここへ来ているの?」
勝子「二年くらいになるかなあ・・・」
私  「一人なの?」
勝子「勿論よ。私はずっと一人よ。田舎は寂しいけれど那覇では生活できないからね。田舎へ引っ込んでいるさ~」(笑い)

彼女は早くにご主人を病気で亡くされて三人の子供を一人で育てて来ました。彼女のご主人と私の旦那とは同年生でいとこ同士でした。私達は、仲良しこよしで結婚出来て「運命的な出会いだね」とを互いに喜んでいました。しかし、彼女のご主人が急病で召天してから私達も夫婦関係がおかしくなって互いに疎遠になって言った経緯がありました。

勝子さんに「あなたは信仰はもっていないの?」と聞きました。そして私がクリスチャンになった事を話しました。勝子さんは笑って言いました。「お姑さんが言っていたさあ。HANNA7ちゃんは神様に捕らえられた人だから必ず周りの人を神様に導く働き人になるからなんも言わなくて良いよ」ってね(笑い)そして、「HANNA7ちゃんを決してさげすんではダメだよ。すべてが神様の御手の中の事だからHANNA7ちゃんの言う事を聞きなさい。HANNA7ちゃんがあなたに神様を伝えるからね」と私の事を気にかけてくれていた事を知らされました。

背後の祈りを病床で亡くなるまで祈られていたと言う良子おばさんでした。息子達が逆境にあってもひねくれる事なく真っ直ぐに育ってくれた事も、私がクリスチャンになった事も含めて背後で祈ってくれていた人がいたのですね。私達は自分が勝手に信仰の道に入ったと思うかも知れませんが実は、誰かが背後で祈っている人がいるのです。今日の夕方に勝子さんと電話でやりとりをしていてふとその事を思わされました。

「わたし達が神を愛したのではなく神がわたし達を愛し、私達の罪のために、なだめの供え物としての御子をお遣わされました。ここに愛があるのです」と第一ヨハネ4:10  


Posted by 金城米子 at 18:36Comments(0)祈り

2011年01月03日

私をお使い下さい

主よ。きょう一日、貧しい人や病んでいる人を助けるために私の手をお望みでしたら、
きょう、私のこの手をお使い下さい。

主よ、きょう一日、友を求める人々を訪れるために私の足をお望みでしたら、
きょう私のこの足をお使い下さい。

主よ。きょう一日、優しいことばに飢えている人々と語り合うため、私の声をお望みでしたら、
きょう私の声をお使い下さい。

主よ。きょう一日、人は人であるという理由だけでどんな人でも愛するために、私のこの心をお望みでしたら、
きょう、私の心をお使い下さい。  マザ~テレサの祈りから

「あなたがたは、この小さい者達を、ひとりでも見下げたりしないように気をつけなさい。
 まことに、あなたがたに告げます。彼らの天の御使いたちは、天におられるわたしの父の
 御顔をいつも見ているからです」マタイ18:10  


Posted by 金城米子 at 17:39Comments(0)祈り

2010年11月05日

「祈り」


ラファエロ ヴァチカン美術館 サタンの誘惑

祈りについて姉妹と話しました。

私「祈りは痛みだよね」

姉妹「別に、私は、祈って言われたらそのまんまで
    祈っているから痛みなんて何も無いよ」

私「祈りって、相手の心が感じられるからやはり痛みが
  あるんじゃないの?痛みがあるから熱心に祈れるんじゃないの?」

姉妹「そんな事をいちいち考えては祈れないでしょ?」

私「救われていない家族のために祈るのは、救われていない事に
  痛みがあるからこそ真剣に祈れるのじゃないの?」

姉妹「そんな事は神様に任せてればいいのじゃないと
   思っているから別に何も思わない」

私「祈りってある意味では痛みの共有じゃないの?神様も私達の祈り
  に応答してくださるのは神様も私達の痛みを共有して下さっている
  からと思うのだけどねえ。」

姉妹「委ねるって事だから何も思わないで祈っているけど。天国に行ったら
    家族も何もなくなるのじゃないから良いと思うけどね」

私「え〜っ。それって何?感情は無いって事なの?感情も神様が与えたものだけど」

姉妹「とにかく私達は(クリスチャン)はすべて神様のする通りだから何も考えなくて良いのじゃない
    ないの?と思っているけど・・・」
どんなに話し合っても平行線だと思ったから話は終わりましたけれど30年も彼女とは親友と思っていたけど心のづれがあるのを発見して心がうずいていました。

委ねる事と祈りの感情を深く考えさせられた会話でした。       
  


Posted by 金城米子 at 10:22Comments(0)祈り

2010年11月03日

「マザ〜テレサの祈り」


「ヤコブの夢」(ホセ・リベーラ)プラド美術館


自分より他人を

「主よ。私が空腹を覚えるとき
パンを分け与える相手に出会わせて下さい。

のどが渇くとき
飲み物を分け与える相手に出会わせて下さい。

寒さを感じるとき
暖めてあげる相手に出会わせて下さい。

不愉快になるとき
喜ばせる相手に出会わせますように。

私の十字架が重く感じられるとき
だれかの重荷を背負ってあげられますように。

乏しくなるとき
乏しい人に出会わせて下さい。

暇がなくなるとき
時間を割いてあげる相手に出会えますように。

私が屈辱を味わうとき
誰かを誉めてあげられますように

気が滅入るとき
誰かを力づけてあげられますように。

理解してもらいたいとき
理解してあげる相手に出会えますように

かまってもらいたいとき
かまってあげる相手に出会わせて下さい。

私が自分の事しか頭にないとき
私の関心が他人に向きますように

空腹と貧困の中に生き、そして死んでいく
世の兄弟姉妹に奉仕するに値する者となれますように

主よ。私を助け下さい。
主よ。私達の手を通して日ごとのパンを今日彼らにお与えください。

私達の思いやりを通して主よ、彼らに平和と喜びをお与え下さい」

数十年間もずっと黙々と道を歩いていたホ〜ムレスの男性が足に
怪我をして道路に座っていたので「大丈夫ですか?病院に行きますか?」
と声をかけました。その男性は、首を横に振って「大丈夫、大丈夫」と・・・

そのホ〜ムレスの男性とは時折、出会っているので声をかけたりしていました。
一度はお金を渡そうとして断られました。
「ねえさん。あんたより私のほうがお金はあるんだよ」でした。

その男性は、私には障がいの息子がいることを知っています。
私が施設に入りたがらない近くのホ〜ムレスに弁当や飲み物を与えている事
を知っていますから会話をしてくれていました。

その男性は「金銭が必要な時には叔母に当たる人のところに行っているから
姉さんよりはお金には困っていないよ」と話したことがあり、
私は恥ずかしかった思いをしました。

自分の生活状態を見透かされたような気がしましたから・・・
でも、足の怪我以来その男性の姿が消えました。
足の怪我が祟ったのではないか・・・?

「主よ。まことにあなたは、いつくしみ深く、赦しに富み、あなたを呼び求める
すべての者に、恵み豊かであられます」詩篇86:3




  


Posted by 金城米子 at 00:38Comments(1)祈り

2010年10月16日

「祈りの手」

赤ちゃんの体の中で一番の力のあるところは何処でしょう?
「手」ですね。握る力が一番ありますね。

何を握りたいのでしょうかね?
それは、お母さんでしょう。そして、手に触れるものをすべてでしょうね。
握って、握って、握って・・・手をなかなか開かない赤ちゃんです。


でも、やがて握っても手を離さなければならない事を知ります。
手を離さなければ新しいものを握れない事を理解して来ます。
そして、成長と共に握りたいものが変化して行きます。

自分に対する他人からの評価、誉などです。名誉、地位、財、もそうですね。
自分が作り出す世界を握ろうと拙者琢磨します。
やがて、どんなに頑張っても手に握り占める事が出来ない事を知る時が来ます。

段々と手の力が失せて行きます。そこからが私たちの人生の価値観
がそれぞれに影響を与えて来るのですね。私たちは、どんなに握力が
あっても無駄である事、むなしい事に気がつく時が来ます。

クリスチャンは、イエス・キリストを握っていますから晩年になっても病気に
なっても平安が与えられて祈りと御言葉で心が満たされます。

寂しい時、山のような悲しみが襲って来てもイエス・キリストは、
賛美歌で私たちを慰め、励まして下さいます。不思議な力が与えられます。
賛美の力は私たちを洗い清めて喜びを体験させます。

長年間の定期薬の痛み止めは、今年の初夏頃から副作用が出始めていて
起きるのも辛い、外出も辛い、尿が出ない、もしかしたら・・・と最悪な状況を
覚悟していました。人工透析にならない前に「主よ。私を去らせて下さい」と
祈っていました。

私はこわがりですから。とても厳しい治療には耐えられないと分かっていますから。

私は、天上に向けて上げている自分の手をイエス様が握っている幻視を
賛美をしながら見続けていました。

賛美歌を歌っているとイエス様が一緒に賛美歌を歌って下さって励まされて
いるような幸せな気持ちになりました。

そんな折、他の教会の牧師婦人から煎じ薬が届き、これまた他の教会のクリスチャン
の姉妹から腎臓によいと言われる食品を持参してくださりました。

信仰の祈りの友を神様は祝福して下さり、尿の問題と痛みは改善されました。
完璧に癒された訳では無いけれど「このままの状態なら後、10年は大丈夫かも
知れません」との医者の言葉でした。

私たち、信仰の姉妹は、キリストの釘打たれた手をイメ〜ジして他の兄弟姉妹の
ために祈ります。血を流すほどの痛みを互いに共有する祈りの手は十字架に釘打たれ
決してその祈りの手を下ろさない。キリストの祈りの手とモ〜セが戦いの時に手を下ろさな
かった祈りの手です。モ〜セは時折、手を下ろしかけましたがキリストの手は、
私たちのために永遠におろされることのない真実の祈りの手となりました。

「あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました。あなたは私を諭して導き、
後には栄光のうちに受け入れて下さいましょう。
天では、あなたのほかに、誰を持つ事ができましょう。
地上ではあなたのほかに私は誰をも望みません」詩篇73:23〜25


  


Posted by 金城米子 at 11:19Comments(0)祈り

2010年10月15日

「聖霊によるとりなしの祈り」

4年ほど前に夫の知人の葬儀の件が原因で大喧嘩になり、
私が家を出ると大事になってしまいました。

本当にささいな事でした。葬儀で香を焚くのか花を持って行くのか
それともただ頭を下げるのか、頭を下げるなら死者の写真にか、
遺族側にだけかとの事を私が夫に裁判官のように尋問した事でした。

夫の返事は「相手側に合わすよ。礼儀を欠かないためにね。」でした。
そこで私は「それじゃ信仰告白にならないよ。礼拝的行為も神は見ら
れるって言うからね。この世の人に従ったら証しにならないでしょ?」

夫「お前はね。いつも、自分を神にして人の行動を支配しているのに  
  気がつかないのか?」

私「何いっているの?聖書の通りにしなさいって言っているだけでしょ?」

夫「弱い者に合わせる。これがキリストの地上でして来た事だろう?
俺の信仰姿勢なんか誰も葬儀の席で問うバカはいないよ。
それよりも残された遺族の心を逆なでしないように配慮するのが礼儀だろうが」

私はそれでも延々と夫の言葉を否定しました。話は遠くの事にまで及んで
ボヤが大火事になり治まりがつかなくなりました。

その日、私は本気で家を出たいと思い部屋探しをして車を運転しながら
引越しの段取りを考えていました。


帰宅途中でした。誰かの泣く声が聞こえて来るような感じを受けました。
車を止めて祈りました。

すると「聖霊を悲しませてはならない」「聖霊はあなたに罪を犯させないように
とりなしている」との思いが入ってきて心がきりきりと痛くなって悔い改めの祈りに
導かれました。

その場で携帯から電話をして不動産に部屋をキャンセルして帰宅しました。
夫にひざまづいて侘びをしました。(私は何故か知らないけれどごめんなさいが
素直に出来るのですね)

夫は何もなかったように「冷やそうめんでいいなら食べるか?」でした。

冷やそうめんを食べながら夫が言ったのは
「神様は俺達がどんな世界で生きているか一番誰よりも良く知っている。
日常の暮らしの中で神様が大切にしなさいと言っている事は、

ノンクリスチャンの中で俺達が特別な者として行動しなさいとは言ってない
ように思われる。礼儀に反せず、自分の利益を求めず,怒らずだろう?

人を赦して愛しなさいとキリストが望んでいるなら裁く前に受け入れて相手
の心に添いながらキリストの心をお前が相手に対して実践すれば良いじゃ
ないかなあ。お前は、勉強ばかりして段々と裁判官になって来ている事に
気がついていないのか?今のお前はアンバランスになっているよ」と語りました。

普段は、ほとんど口をきかない夫ですが、たまに口を開いた時は私は反論が
出来なくなって「小さな悔い改め」ってことになりますが・・・

「私は間違っていない。いつも正しい事をしているのだと」思っている方がいるなら
どうぞ神様の前に静まって自分を省みるのも良いのではないかと思わされます。

私たちが罪を犯さないようにさせるのは、神様です。聖霊が気づきを与えブレ〜キ
をかけて下さるのですね。


「聖霊を悲しませてはならない」分かっているけれど解っていない私の的外れな
夫婦喧嘩からでした。

次の箇所は、クリスチャンとサタンとは決して交われない。クリスチャンとサタンの間に
は敵を置くとイエス様は宣言しています。どこまでも行っても決してクリスチャンとサタン
は一つになれないのです。しかし、思考は縛られる事もあります。でも大丈夫です。
必ずイエス様は介入なされますからね。

「わたしはお前と女との間に、また、お前の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。
彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は彼のかかとにかみつく。」創世記3:15

  


Posted by 金城米子 at 11:16Comments(0)祈り

2010年10月08日

「心を合わせて祈る」


3年ほど前に嫁のU子からの報せを受けて私は息子の帰宅する
一時間前に息子宅を訪問しました。

先に嫁のU子と話しがしたかったからです。

検診で息子に病気が見つかったと言うのです。

私「U子。どういうことなの?」

嫁「お母さん。私は一人では子供達を育てたくない。kがいるから
 出来るんだって。それよりもなんにもいらないKだけが側にいて
 欲しいのよ。子供よりも私はKが大切なんだから・・・お母さん
 分かって。Kがきちんと治療を受けてくれるように説得して」

嫁は息子が元気でいてくれたら何も要らないと訴えました。
私は嫁に生命保険などはどうなっているのか確認しました。
それはきちんと継続している事を話しましたが嫁は泣きながら

嫁「そんな事はどうでもいいのよ。お母さん。私達を助けて欲しい。
  Kを私達から取り去らないでって神様にお願いして欲しいだけ」

必死に思いを訴える嫁のU子の姿に息子をこんなに愛し慕っている
事を知らされて感動し感謝しました。どこに自分の姑に夫への思慕の念と
愛を切々と訴える嫁がいるのかと感動しました。
このU子が嫁で良かったとイエス様に心から感謝しました。

帰宅した息子に
私「検診で病気が見つかったって?一体どう言う事なの?」

息子「う〜ん。おかあには、絶対に言うなと言ったのになあ。
   心配かけたくないって言ったのに・・・」

私「何を言っているの。どっちみち、あんた達の身の上に起こる事は
  私の身の上に起こる事と同じなんだと言う事を分かりなさいよ」

息子は黙って自分の着ているシャツをまくり上げて私の手を腹部の
上をなぞらせながら言った
息子「なんか硬いしこりがあるだろう?これって肝臓に腫瘍が出来ているんだって
   肝臓がんらしい・・・若いからなあ・・・厄介だよな・・・」

私「いつからそんなもの出来たの?なぜ、黙っていたの?ひどいじゃない。
  あんたは私の大切な息子なんだよ。私が命をかけて生んだんだよ。
  黙っているなんて・・・ひどいよね」

息子は無言でした。とにかく祈ろうと言う事で祈って私は帰りました。
帰りの車の中で涙が止まらず進行方向が見えずに車をわきに止めて
「主よ。」と一言だけで後は嗚咽に変りました。

息子は私には、死を恐れていない事を言いました。

息子「神様が来なさいと言うならそれに従うしかないと思っている。
   けれど、U子とおかあがおかしくならないかとそれだけが心配だ。
   子供達は、環境に順応できるがU子とおかあは弱いからな・・・」

一週間の徹夜祈祷の明け方、ベランダが私の祈りの場所でしたが
突然、空から賛美歌が聞こえてきました。虹色の雲の中から聞こえて来た
賛美歌を生涯忘れません。

その後、奇跡が起こりました。息子は完璧に癒されました。
何故かは分かりません。しかし、彼は癒されたのです。

イエス様は聖書の中で多くのやもめや女性や子供達の祈りに答えられています。
イエス様が憐れんだのは、嫁のU子と母親の私であったと思わされます。

嫁と姑が神の前に心を注ぎ出して一つになりイエス様に涙の祈りをささげた
ゆえに憐れんで下さったのでしょうか。分かりません・・・

「もし、あなたが熱心に神に求め、全能者に憐れみを請うなら、
もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたの
ために起き上がりあなたの義の住まいを回復される。」ヨブ8:6



心に戸惑いのある方、お気軽に連絡下さい。
  


Posted by 金城米子 at 17:08Comments(0)祈り

2010年09月28日

「神に見放された?」



「エル・グレコ 悔悛する聖ペテロ」


多分、多くの人が神に見放されたのではないかと
言う不安や失望を体験しているのではないかと思います。

今から14年前の事です。息子の「心外導管」心臓手術
の時が来て本土の病院へ入院しました。

手術に際しての様々な細かい検査がありました。
その数日間に今回の手術の危険性が高い事が分かりました。

まず。本人が知恵遅れがある事で体中の器具を外す可能性
がある事、前回の手術で要らない毛細血管が多発している事、

血管が多いと出血がどの血管からしているか突き止めて
その血管を切らなくてはならない事、そのためにはICUで数日間、
術後胸を開いた状態で置かなければならない事のために感染症
で死ぬ危険性など・・・

だが、手術しなければ命そのものが保証出来ない状態でした。
体力的に非常に酷である事を宣告されました。

私は必死に祈りました。それまではユタの神様は、即座に返事をして
くれたのに全く反応がありませんでした。どんなに祈っても無駄で、
私は不安になりました。

沖縄のユタの相棒にも連絡して神が答えられない事を告げて祈りを
頼みました。しかし、誰も「答えがない」との事でした。
沖縄の拝み仲間の言う事は「あなたが祈ってもどうしようもないなら
どうしようもないさねえ・・・」でした。

「はい」「いいえ」の即答があるのがユタの世界です。沈黙は不気味でした。
祈れば祈るほどに不安になる状態をはじめて体験しました。神に見捨てら
れた不安でした。自分の祈りの手さえも見る事が出来ない深い暗闇の中の
底なしの穴に落とされた気持ちでした。

結局、手術をするか,否かは母親の判断に委ねると言う事になり、私は
息子とそのまま帰って来ました。宣告された一年の余命の時間を息子と
後悔しないように懸命に生きようと決意しての帰沖でした。

その後からの私達母子に待っていたのは凄まじい現実でした。
傷心の思いで帰ってきた私の前に立ちはだかっていたのは金融会社
の悪質な取立てでした。

家におれず仕方なく息子と車上生活でした。シャワ〜の時だけ帰ると言う
状況でした。どんなに祈っても答えられないユタの神、周囲の人に見捨て
られた疎外感からとうとう母子心中事件を起してしまったのです。

助かった後からも私は、ずっと考えていたのは何故、あの時、突然、ユタの神は
答えられずに私達を見捨てたのか?と・・・

私は、一つの真実に気づかされました。その時には、私の周りには数名の
クリスチャンがいた事でした。彼女達は、聖霊の宮です。彼女達に霊的な力や
操作する力はなくても彼女達はキリストの霊の中にいます。

ユタの神は(悪魔)はどんな策略をもってしても熱心に我が子に対する祈りを
真理の神キリストにささげる母達の愛の前には、何もなす術が無かったのです。

しかし、彼女達は私がユタ、シャ〜マニズムである事を知っていても柔和に
親切に対応してくれて私達母子のためにも祈りを捧げていたと知りました。

神に見捨てられたと絶望しないで下さい。
今、暗闇の中にいて神などいるもんかと
思うような状況にあってもあなたを愛し、
あなたのために死んで下さった神がいます。

「あなたは高価で尊い」
「救うに力強い者それがわたしだ」イザヤ63:1
と母の胎内であなたを組み立てられた神様が
あなたに声をかけられています。


「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者がひとりとして滅びることがなく、
永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16


心に戸惑いを持つ方不安で眠れない方お気軽にご連絡下さい。  


Posted by 金城米子 at 12:15Comments(0)祈り

2010年09月20日

「応えられる祈り」



エルグレコ
『受胎告知』
1590-1603年頃

「功績を立てようと、神に祈り求めたのに、謙遜に服従するようにと弱さを与えられました。
より大きな事をしようと、健康を祈り求めたのに、より良い事をするようにと病気を与えられた。

幸福になるようにと、富を祈り求めたのに、賢くなるようにと、貧しさを与えられた。
人々の賞賛を得ようと、権力を祈り求めたのに、神の必要を感じるようにと、弱さを与えられた。
人生を楽しもうとありとあらゆるものを祈り求めたのに、実は私が望んでいた全てのものが与えられた。

このような私にもかかわらず、私の言葉にならない祈りは応えられ全ての人に勝って、私は最も豊かな祝福を与えられたのだ。」


第二 コリント5:5-9(聖書)
「わたし達をこのことにかなう者にして下さったのは、神である。

そしてその保証として御霊をわたし達に賜ったのである。だからわたし達はいつも心強い。そして、肉体を宿している間は主から離れている事を良く知っている。

わたし達は見える者によらないで、信仰によって歩いているのである。それで、わたし達は心強い。そしてむしろ肉体から離れて主と共に住む事が、願わしいと思っている。

そういう訳だから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが心からの願いである。」
  


Posted by 金城米子 at 22:18Comments(0)祈り