てぃーだブログ › スピリチュアル › 2011年05月

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2011年05月31日

ぬくもり

母が話してくれた事でした。私が4歳の頃に母は肝機能障害で軍の病院に入院になりました。私はうっすらとしか覚えていませんが母は入院中に家族の誰も見舞いに来ないので私に食事を上げる事が出来ない事で心を痛めていたそうです。

「本当にこんなにも兄弟たちが薄情だったとは思わなかった。小さいお前がどうしているのか気にもならなかったんだねとどんなに辛かったか」と母は話していました。

その頃は入院するのが精一杯で病院食はありませんでした。私も母も暗い病室のベットで添い寝してひもじさを我慢していました。母はすまなそうに私の背中を撫でながら「ごめん。ごめん」と力なく言い続けていました。

一週間後に母は私がずっと食事を取れていないでぐったりしているのでブロクンイングリッシュで病院の看護婦にゼスチャーを交えて伝えました。米軍の看護婦はびっくりしてすぐに母子のために食事を持って来てくれました。ミルクにパンを入れて柔らかくして食べさせてくれました。

母は私が食べ終わるまで自分は食事を口にしませんでした。私の背中を撫でながら「まーさんな(美味しいか)母ちゃんぬ分ぬあぐとうやあ。うりんかめえやあ(母さんの分もあるからこれも食べなさいよ)」母が神様に見えたときでした。

母が病をおして背中を撫でてくれていたあの時の手のぬくもりを忘れる事ができません。あの手のぬくもりは息子が病に苦しんでいる時に私も母がしてくれたように体を撫でます。手のぬくもりは安心を与えます。あの時の母はわたし一人だけの母で私だけを見つめていました。

母の手は神様の手のようでした。あの感触があるから今でも弱った人を優しく撫でてあげられるのです。
自然と手が動くのです。母を思い浮かべながら私は病床に伏せている人を祈りながら撫でてあげるのです。

人が人にやさしくできるのは学習したからだと言う人がいました。人を思いやる心も愛する心も学習するからだと・・・私に人を思いやる心があるとするなら体の弱かった私の体にラード油をぬって一晩中看病してくれた母の手のぬくもりを覚えていたからかもしれません。

先天性の腎疾患を持っていた私は年から年中熱を出していたので母は病院へ連れて行けない罪責感から懸命に民間療法をしていたのかも知れません。

母に「ありがとう」ってようやく言えるようになった私も年なのでしょうかね。いつか天国で会えたら今度こそ母と本音トークで語り合いたいと思います。でも、天国では家族も男も女も関係なくなるといいますからね。どうなるのでしょうかね。こんな考えはやっぱり不信仰かなあ・・・  


Posted by 金城米子 at 22:16Comments(0)

2011年05月31日

嫁とのティータイムから

昭和45年生まれの息子の嫁とのティータイムの時間での話です。嫁のU子との出会いの頃の話になりましたU子が息子に「お義母さんを紹介する前にKが私に行った事は、俺のおかあは浮世離れした人だからびっくりしないでくれ、見た目もそうだが会話も普通の人とは違うからね」と言われたとの事でした。

私は「そうなんだ。それでU子はどう思ったの?」と聞きました。嫁は「その通りだったし、今でもそう思っている」と言われました。嫁のU子の話です。息子がU子を紹介した時に年齢を聞いた私に年齢をはっきりと言わなかったので私は干支はなに?」と聞き返しました。

そしたら息子よりも9歳年上である事が分りました。U子はバツが悪そうにしていました。私はすぐに「私が勝ったね。大丈夫だよ。私はもっと年下の男と付き合っていたんだから。今は良い友達でいるけどね」と言ったそうです。

次に切り出しにくいように息子が言いました。「実は彼女は再婚なんで子供がいるんだけど・・・」
私は「それでその子は何処にいるの?」と聞きますと外にいると言うので「早く家に入れなさいよ。なんで外に待たせているの?私が食べるとでも思っているの?」と私は言いました。記憶にはないけれど(笑い)

3歳の有人に会った時の第一印象は「良い子」でした。片親であっても一生懸命母子で頑張って生きてきたんだなあと感じられました。愛想の良い、無邪気な子ですぐに私達は仲良しになりました。

私が息子に言った事は、「ここまで子供を生んで育てるには精神的にも体力的にも経済的にも負担が大きいのにあんたは儲かったね。何の苦労もしないでこんな大きく育った宝をしかも長男が与えられたのだからね。それに姐さん女房は金の山だって?言っていたっけ?」でした。(笑い)

そして息子のKよりも弟たちが先に結婚していて子供もいたので私は「兄貴として弟に先を越されたようだったけど一気にあんたに長男が来たからこれで長男としての大義名分が果たせたね」と言ったようで・・・

やっぱり、浮世離れしている人だなあ・・・と思ったようでした。今もってそう思っているそうです。
「お義母さんのように物事にこだわらずに生きられたら本当に自由で楽しいでしょうね。」と言われてしまいました。

「こだわらない心。かたよらない心。とらわれない心」で生きることが私の生き方で、これは叔父が生きていた時に「般若心経」を一緒に写経中に学んだ事でした。「たとえ、悪襲怨敵となりて、我を責め苦しめる者ありとても是は是、我が犯せし罪、知られざる罪を赦さんがための仏の慈悲憐憫の情なり、有難や、有難やと感謝し受くるべし」と・・・

この教えは聖書の中にありました。十字架の主イエス・キリストを知れば天地万物の創造主の心である事がすぐに理解出来ました。神様は私が古い性質で教会へ来れば混乱の戸惑いの渦中に巻き込み、巻き込まれるとご存知であり、それで先にある程度の悟りを学ぶ機会を与えたのだと知る事が出来ました。

嫁とのティタイムは、キリストの愛に話が導かれた優しい時間となりました。私は忙しさの時間をくぐって嫁達との時間を持ちます。息子よりも嫁タイムを多く持つようにしています。

「血は水よりも濃い」とあります。しかし、水を「いのちの水」に置き換えて「血によらず肉によらず信じる者」同志でのサムタイムを持っています。(笑い)  


Posted by 金城米子 at 11:22Comments(0)

2011年05月31日

祝福を受ける行為について

メッセージからです。「祝福を受けるには」のメッセージを聞きました。

1、恐れの霊を追い出す
2、ねたみの霊を追い出す
3、批判の霊を追い出す
4、自由の霊を求める
5、主に期待して捧げる

この5つの教えでした。1~3までは「三大悪霊」との教えです。4~5は主に期待して求める事です。

恐れの霊=何を恐れるのでしょうか?十字架で勝利した神・主イエス・キリストを心に向かえたクリスチャンには恐れは無用です。聖書には「恐れてはならない」と宣言している箇所が多くあります。

創世記3:10に「私は裸なので<恐れで>隠れました。

アダムが罪を犯して後に主に対して言った言葉です。恐れの原因には、神や目上の者に対して罪を犯した時にも恐れが来ます。主に対しては不信仰の罪です。悪霊は神の子供とされたクリスチャンを支配する事は出来ません。あなたの心の傷を利用して恐れや疑いをもたらす事はしますが祈りによってマイナス思考は払拭されます。

心の傷も痛みも罪もすべて十字架に縛り付けて消去したのですからその事を信じる事です。過去はイエス様によって燃やされた。私の前に新しく道が造られたと信じることです。

クリスチャンは日々新しくされている事を信じてください。そうすれば過去に自分を傷つけた人も変えられるのですから以前のあの人は、主によって変えられたと信じることです。

そうすれば批判の心は起こりません。『苦手な人が一人もいなくなるように』と内在する聖霊はあなたの心をとりなしています。聖霊は私達の罪を示し、私達に代わって日々とりなしの祈りをしています。信じてください。聖霊の声に敏感になって下さい。悪霊の事は考えないで下さい。主イエス様だけを思って下さい。

恋人の事を一時も忘れる事ができないように、何を見ても、食事をしていても、ショッピングをしていても恋人に結び付けて考えてしまう恋する乙女心をイエス様に向けてください。イエス様に恋してください。

悪霊の事も人の悪も考えないで主イエスだけを求めてください。あなたに平安が与えられます。私達は自ら悪霊を引き込んでいる事に気付かないでいる者です。疑い、高慢、赦さない心など等は悪霊の足場ですよ。

ねたみ=私達は不幸な人には、同情をし涙も流します。継続的か一時的かは別としてです。しかし、他人の上に起きた突然の祝福、宝くじが当たる、我が家の子供は受験に失敗したが隣家の子は合格したとか素直に喜べますか?泣くことはすぐに出来ますが喜ぶ事は難しいですよね。私も実践できるようになるまでには時間がかかりました。

私は以前には、神様からの祝福をよく証しました。ある時、教会の兄弟に「お前は悪霊からのを受け取っている。神はそんな物質面では祝福はしない」と私を非難しました。それが彼のねたみである事は解りましたので「私を見ないで全てを祝福して必要を満たして下さるイエス様を見て下さい」と言いました。

批判を辞書で調べました。幾つかの中から聖書的に説明がつくものを選びました。
「人の言動、仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じる事」とありました。

この箇所では、我が教会の牧師の姿を思い浮かべました。若いけれど我が教会の牧師は決して人の言動や仕事の失敗などを指摘しません。笑顔で忍耐と寛容をもって相手のペースに合わせて指導します。

私はその笑顔に救われています。失敗や仕事の遅れで叱責を受ける人を見ると心が痛みますから「あっ。大丈夫?」と思った時に若い牧師は笑って指導します。私は、安堵して胸をなでおろします。人が叱責されるのを見るのはとても痛いですからね。

期待して捧げる=教会では献げると言う字が多く使われています。捧げるは、神仏や人。与える、供える、動作(挙げる)など・・・

献げるは、神に献げるとありました。私的には捧げるの方が神も喜ばせ、人も喜ばせるから良いかなあと思いました。私達は人と人との間で生きていますからね。人と人の間に神の御言葉が満たされると平和があります。人の言葉が満ちると混乱が起こりますからね。

以上、メッセージからの分かち合いでした。恐れの中にいる姉妹も大丈夫ですよ。万軍の主がともにおられますからね。飢えの中にある求道者の方にも私達は祈り心で捧げる事をしますからね。平安がありますように・・・お祈りします。

「オバデヤは心から主を畏れ敬う人でイゼベルが主の主の預言者を切り殺した時、百人の預言者を救い出し、五十人づつ洞穴にかくまい、パンと水をもって養った」第一列王記18:3~4

パンはキリストです。水はキリストの生ける水です。五十人づつは教会のグループです。五十人はお互いに目が行き届き心を用いる事が出来るからです。主の導きがありますように・・・  


Posted by 金城米子 at 09:40Comments(0)

2011年05月30日

末子の息子と孫達の関係

私の孫たちからすれば末子の息子は伯父にあたります。しかし、末子は重度の重複障がい者ですから赤ちゃんのままです。孫たちはみんなそれぞれが成長していますから孫は伯父の事をTお兄ちゃんと呼んでいます。

息子のTは赤ちゃんと同じで何でも口に入れて感触を確かめるのでTの周りには危険なものは置けないのですがTの周りはTのよだれの匂いや布団などもおしっこのにおいがします。気をつけているのですが消臭に追いつけません。

孫達が訪問したり車での送迎の時にも「ごめんね。匂うでしょ?」と言うと孫たちはみんな「良いよ。Tおにいちゃんの匂いだもの。Tお兄ちゃんは病気だし、大好きだし、何でも赦せちゃうからね」と言ってくれています。なんでも赦せちゃうと言ってくれている孫たちは、Tに関わりながらTに噛みつかれたり、髪の毛を思いっきり引っ張られたりの経験をしてTや他の障がいを持った人達との関わり方を学習しています。

私が「ごめんね。痛かったでしょ?」と言うと「Tおにいちゃんは遊んで欲しいだけだよ。自分の気持ちの表し方が下手なだけだから大丈夫だよ」と返事します。教会の集会で知的障がいの女子に追いかけられまくりで息つく暇もない時がありました。

私が孫達にすまなそうに「ごめんね。赦してあげてね」と言いましたら孫は「大丈夫だよ。Tお兄ちゃんで理解出来ているから、仲良く相手できるよ」と言ってくれた時には、本当に優しい子に育ってくれていると神様に感謝しました。

孫が一歳にも満たない時に末子のTが孫のMちゃんの髪の毛を思いっきり引っ張って離しませんでした。Tは握ると緊張でなかなか手を開く事ができないのです。逆に力が入ってしまうのです。Mちゃんは激しく泣き声をあげていました。周囲の大人達は何とか手を離させようと必死でした。

Mちゃんの父親はMちゃんを目に入れても痛くないほどに可愛がっていましたから恐らく激怒してTを殴るのではないかと私は心配しました。でも、彼は落ち着いていてTをあやすようにして話しかけたのです。Tはすぐに手を離しました。Tは叩かれると思い自分の手で先に自分の頭を叩き続けました

Tが自分の体のコントロールが出来ない事を悔やんでいるように思えました。Mちゃんの父親はどうしたかと言えばMちゃんを母親に抱っこさせてTを抱きしめました。「Tは悪くないよね。誰もTを叱っていないよ。もう、大丈夫だからね。大丈夫だよ」とTを慰めたのです。私は涙が出そうになるほど感動しました。

普段から息子が嫁に対してどのように接しているかよく解る事は、孫達に嫁はいつも「おばあちゃんを大切にしてよ。Tお兄ちゃんの事も優しくしてあげてよ」とお嫁さんが孫達に話している事で納得できます。

Mちゃんの近所の男の子に伯父のTの事を「気ちがいだよなあ」と言われた事で口げんかになったそうでその事を母親に訴えたら「そんな、いじわるな心には関わらないで時間がもったいないでしょ。神様は、Tお兄ちゃんを支える事もMちゃんなら出来るって家族にされたんだからね。良かったんだよ」と言われたとの事でした。

生活は別々なのに「みんな家族で良かったね」と言ってくれている嫁たちと孫たちを心から神様に感謝しています。他人の目から見れば不都合な事であっても煩わしい出来事であっても動機が愛から出発した事であれば万事を益とする神様が導いてくださる事を知る末子の息子と孫達の関係でした。  


Posted by 金城米子 at 10:59Comments(0)

2011年05月29日

先が見えない三年の教会生活から希望へ

人生にはすべて「神の時がある」このことを経験するには、本当に針の道を踏まなければならなかった教会生活がありました。すべては私の楽観主義、空気を読めない私への神の訓練だったと現在は理解しています。打たれ強い私だからこそ立ち直りも早かったのかなあ・・・と思うのは高慢かも知れませんね。私はブラックジョークの名人です。

でも、ブラックジョークが受け入れられないのが教会でした。私のジョークはリーダーへの気付きのつもりでしたがそれが自分が打たれる原因でした。空気を読めない者の愚かさが死刑宣告を受けた訳でして・・・

死刑宣告を受けた私が身も心もボロボロになりましてそれでも暗い顔をする訳にはいかなくて息子たち家族の手前ですね。証にならないでしょう?「神の愛で満たされた教会。癒しの世界の教会」をうたい文句にしているのですからね。

打たれ強い私でも非常に答えました。そんな時に神様は遠方の友のKさんを我が家に呼んでくれて数ヶ月間も私のカウンセリングをして立ち直るようにして下さいました。彼から受けたものは全てにおいて目からうろこ状態でしたね。如何に自分が空気が読めない愚女であったかを気付かせてくれました。

嫁のU子も三日にあけず連絡を密にして御茶に誘ってくれました。私の声のトーンが低くて暗いのを感じていて心配だったらしく電話で「お母さん、大丈夫ね?時間があったらお茶しない?」と誘ってくれていました

息子も会社帰りに寄ってくれて「大丈夫か?何か必要なのがあれば何でも言いつけてくれよ」と優しい言葉をかけてくれていました。慰めと励ましを多くのノンクリスチャンから頂きました。何故か、辛い時にはクリスチャンではない方が本音で泣き言が言えるのですね。信仰を裁かれないで済む安堵があるのですね。

家事が出来ないほどの落胆でしたので近所の方が家事を手伝ってくれたりお弁当を配達してくれたり本当に有難かったです。日ごろから近所の人とは仲良くしておくものだなあと思わされました。

再び息子たち家族を教会から遠ざけてしまった不甲斐なさを悔やみました。嫁は教会での立場が厳しい状況になっていることにいち早く気付いたのでした。でも、何も問いただそうとはしませんでした。

私の希望は伝道の実です。その伝道の実が結べなかったら私の方法を認めてもらえなかったらそれも誹謗中傷が原因であるなら、なお更、絶望的でした。先が見えない三年の時期でした。それでも主イエス・キリストから離れる事は出来ませんでした。主イエスだけが希望でしたから・・・

下記の御言葉は主イエス様が万人に語られている神の御心です。私達クリスチャンが教会生活で疲れてどうするの?です。私達はキリストの御足の跡を追う者です。そのために先にクリスチャンにされた者ですから悔い改めて御言葉を実行する者になりたいと感謝で礼拝賛美を捧げて行きたいと願っていました。

そして、導かれてベタニヤ教会のグループで糸満市阿波根にあります「ベタニヤゆいまーる教会」の枝として再生させていただきました。神様の慈しみに心から感謝しております。

「疲れた者、重荷を負う者は、誰でもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」マタイ11:28~30  


Posted by 金城米子 at 22:06Comments(0)神の計画

2011年05月29日

パパには反抗期はなかったって?

孫が自分の父親の「パパの子供の頃はどうだったの?」と聞きました。孫は心にもない事を言って親に反発したくなる時があると言いました。

三番目の息子の頃の事を話します。三番目の息子Tと言います。昭和49年生まれです。彼は非常にわんぱくでした。機械いじりが好きで何でも解体したり組み立てをしたりでしたが組み立てが上手く行かないことが多かったですね。

その息子の事は中学生の頃から滅多に自分から話をする事はしなかったので勉強も落ちこぼれ組みだろうと思っていました。上の息子二人はずっと成績も内申も上だったので心配はしてなかったのですがこのTだけには追い込んではいけないと思い成績や学校生活の話は避けていました。

ある日のことでした。Tの同級生のクラスの女子たちの話を小耳にはさみ聞き違いかと思い聞きなおしました
そのクラスの女子が話していたのはその女子は学年でいつもトップだったのですがその彼女が言うにはライバルは「T・Kがライバルなんだ」と言う事でした。

帰宅して私はTに「Tは勉強は出来る方なんだって?なぜ、その事を言わなかったの?」と聞き返しました。
Tが言った事は「何も自分が優秀な訳ではないさあ。授業時間に先生の言う事をきちんと聞いておけば誰だって出来る事だよ。特別でもないし、自慢する事でもないし。普通だよ。普通」でした。

Tは決して自分を自慢しない子でした。私の息子たちは全員とも自分を自慢しませんけれどTは特別に語らない子でした。アルバイトをしていましたが熱心で真面目なのを経営者に認められ店長になりましたが彼は決して媚を売らない性格でした。

客には押し売りでもかまわないと上司が言って息子に助けを求めるように話を息子に振ったそうですが息子はその時に売るのは「正直と誠実」な仕事であるべきで押し売りは「ジ・エンド。そして客は誰もいなくなった」になるからと言ったそうでした。

後日、息子の上司から「息子のTは普段は口数が少ないのにここぞと言うときには鋭い事を言いますよ」と話がありました。何と言ったら良いのか言葉が返せなかったのですけどね。

「あなたがたのパパはね、決して怒らず、反抗もしなかったよ。反抗してどうするんだ?反抗するのは自己中心で幼稚だと言っていたよ」と話しましたら孫たちは「パパは今でも誰にも怒らないよ。どんな人の話でも黙って聞いているよ。そして、相手を癒す言葉で相手を励ましているパパは凄いって思うよ」と話していました。

親の教育が良かったと言う事では全くありません。むしろ、息子たちは逆境で育っています。母子家庭で一時期は父子家庭でと言う境遇で育って来たのですが自分の境遇を嘆く様子もなく淡々として愚母の私を助けてくれていました。

アルバイトの給料も封を切らずにテレビの上に置いて「ここに置いてあるからね」と優しく声をかけて渡してくれていました。このまま甘えるわけには行かないと考えた私は車で15分くらいの所にアパートを借りて大学入学後に住まわせました。将来に向けて息子たちが兄弟で自立して生活をする事でしっかりと展望を計って欲しいと願ったからでした。

再び末子との生活は助け人がいなくなり経済的にはお互いに苦しい状況でしたが後になってその経験が彼らにはとても良い結果になっています。彼らは家庭を大切にし酒、タバコもせず、一人遊びもせず、家族で健全娯楽で父親の模範を生きています。

孫達に聞くと自慢の両親だそうで「ラブラブ夫婦だよ」と言い、自分たちも同じようなパパと結婚してラブラブで暮らしたいと話しています。今日も教会からの帰りの車の中で「おばあちゃん。私のパパを生んでくれてありがとうね」と言われました。

私も嫁に恵まれた息子たちのおかげで孫達との深い交わりをさせてくれている事に感謝しています。神様は私が手に入れる事が出来なかった家族の愛と絆を息子たちの上に実現させてくれた事を心から感謝しています。クリスチャンにならなければ決して和解が与えられなかった母子の関係を整えてくれ確認をさせてくれた主の愛に感謝の祈りを捧げるばかりです。

「妻達よ。主に仕えるように夫に仕えなさい。」エペソ5:22。「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」エペソ5:28。

「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しい事です。」「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です。そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」と言う約束です「父親達、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」エペソ6:1~4。  


Posted by 金城米子 at 20:38Comments(0)

2011年05月28日

看護士を辞退してから

アルコール依存症の主人との復縁を決めたときには、看護士として寄り添って行こうと決めて復縁をしました。会話も的外れで会話にならない事がほとんどでした。振り返ってみたらノンクリスチャンだったら決して出来なかっただろうと思うような歳月でした。感情の起伏が激しい主人との生活は、経済的に精神的にも忍耐の限りを尽くし、力を使い果たしました。

どんなに頑張っても報われない、私だって支えて欲しい事と私の人生は誰のための人生だったのかと思うと少しくらいお金も時間も自分の労をねぎらうように使っても責められないだろうと思いました。カウンセリング伝道も家事もそつなくこなしながらヘビースモーカーの主人のタバコに公私ともに煙に巻かれた日々でした。タバコの煙は喘息のある私にはかなり辛い生活でした。

患者と看護士の関係に終わりを告げても神様は赦してくれるのではと祈りながら別居して二年の歳月が過ぎました。ヘビースモカーは本人が止める気持ちが起こらない事、日に千円のタバコ代金は無収入の私には苦しい事を神様の御前に告白して別居をしました。

私の持病が暴れだしたからです。体力にも限界を感じたからです。別居や離婚は聖書的ではない、不信仰だとの言葉に長いこと縛られていました。

別居すれば喘息も良くなり、息子の心疾患のためにも良いかなあと思えたのですが金銭管理が出来ない主人からの小遣いせびりには正直言って泣き出したくなります。

それでも食費がないと言われれば心配で眠れなくなり何とかしてあげなくてはと手助けしてしまい結局は自分が窮地に追い込まれてしまうので自分が情けないです。別居すれば主人の経済感覚も整えられるかなと期待しましたが無理でした。

でも、別居してからお互いの関係が穏やかになりました。そしてお互いに納得の上で離婚届けを出しました。必要な時に必要な事を手助けすれば良いと言う関係が出来たのです。「YES」は「YES」で「NO」は「NO」で大丈夫な楽な関係になりました。

根本的な事が解決されなければ夫婦として生活できない事をある方に指摘され「自分と息子を守る方法を選び取る事を神様は赦してくれると思う」と言ってくれた人もいたから勇気が出ました。

この事実を証するのには勇気が要りました。ブログに載せる決心が出来たのは私が初めて自分のための祈りをした事からでした。自分のための祈りをした事がなかったのです。やせ我慢をしていたのです。偽善者でした。神様の前で見栄を張っていました。お利口さんを装っていました。

私は初めて自分の本音を神様に祈りました。「愛と慈しみに富みます天の父なる神様。どうぞ、私を精神的にも体力的にも金銭的にも助けてくれる人を側に置いて下さい」と初めて根をあげる祈りをしたからでした。神様の前に正直に助けを願いました。

重複障がい者の息子との暮らしもアクシデントの連続です。怒っても泣いても落ち込んでも決して変える事の出来ない状況ですから笑うしかないのです。笑って何もかも吹き飛ばす以外にはないのです他者に言わせれば大変だなあと思われるでしょうがこうなったら笑うしかないのですね。

他教会の姉妹のMさんも母子家庭で就職浪人中で経済に苦しんでいますが彼女も「もう、笑うしかないよね」とお互いに励ましあっています。彼女の笑顔にいつも励まされています。

私達は互いに「私達母子はサレプタの母子だよね。だから『エリヤを遣わせて下さい』って祈っているのよね」と笑っています。彼女との交わりも後日にブログに載せたいと思っています。私の近況報告でした。

「主よ。わたしの叫びが御前に届きますように。御言葉をあるがままに理解させて下さい。わたしの嘆願が御前に達しますように。仰せのとおりにわたしを助け出して下さい」詩篇119:169~170

  


Posted by 金城米子 at 22:09Comments(0)

2011年05月28日

遠腹巡り(とうはらみぐい)

この言葉はユタが良く使う手段です。問題の原因がわからない場合にはこの言葉で恐怖信仰に導き拝みをさせます。どうしても拝みに誘いたいからです。遠腹巡りの意味は遠い先祖や遠い親戚の因果応報説を話します。あなたがたが拝みをしなければならない事を告げます。

血縁関係の死者の罪の為にまたは、この世で果たせなかった事の為にあなたに降りかかっているとか「あなたが神様から指名された」「選ばれた」といいます。「何々をせねばならない」信仰です。強迫観念信仰と私は言っていますけどね(笑い)ユタや教祖は人の心を追い込むのは上手ですからね。

恐怖信仰と理不尽さだけの教えについて真理の神である主イエス・キリストは、次のように、はっきりと宣言しています。
「しかし、この方を(イエス・キリスト)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。この人々は血によってではなく肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである」ヨハネ1:12~13.とあります。

ユタや拝み人、占いが拘束と恐怖信仰なのに対し、唯一神の主イエス・キリストは自由と解放と喜びを、誰がも与えることは出来ない心の平安を与えます。あなたは真理の神様を受け入れますか。それともニセの神様に人生を翻弄させられるのか選ぶのはあなたです。

先祖供養の拝みをする人たちは先祖が死んで後も苦しみの中にあると信じているのですがその罪咎ゆえに子孫が苦しみを受けると本気で信じていますか。それは悪魔の罠ですよ。悪魔はあなた方を仏壇で縛り火の神で縛り自由を奪って喜んでいるのですよ。神様の最上級の作品の人間を騙して多神教に導き惑わし地獄へ陥れるのが悪魔やその弟子の悪霊の目的です。先祖のたたりなどありません。

「見よ。すべてのいのちはわたし(創造主)のもの父のいのちも、子のいのちもわたしのもの。罪を犯した者は、その者が死ぬ」エゼキエル18:32。と天地創造主の神は言っています。

「死」の意味は肉体だけの死ではありません。「死」は永遠からの断絶です。神からの断絶です。死んでから裁きの座につきますがクリスチャン以外は火の池に投げ込まれます。イエス・キリスト以外を主神とした者達は裁かれます。霊は悪魔たちと共に火の池に投げ込まれます。しかし、苦しみと痛みはあると言っています。火の池での苦しみは1000年間続きます。死にたくても死ねませんからね。(苦笑)

聖書には、はっきりと記されています。教会の牧師たちはその真実を語るのに躊躇していますが私はバッシングされてもかまいません。沖縄人は、はっきり言わなければ理解できないからです。宗教と信仰の行いが理解できていない人が多いからです。

主イエス・キリスト以外はすべての信仰が悪魔から来るものを知らないからです。拝んでおけば正解の世界観です。偽りの教えの刷り込み教育が沖縄人には根強いですからね。沖縄人は学ぶよりも口伝民族だからです。悪魔は話術の名人ですからね。歴史を学べば真理の神が主イエスであるとすぐに理解できますが(アダムとエバのエデンの園を創造した神、アブラハム、イサク、ヤコブの神。モーセの神。十戎の神)ですね。

その他はすべて人間の都合で政治的な絡みなどで作り上げた神であり、宗教である事を学習してくださればと望みます。しかし、「わたしの名につまずく」と主イエス・キリストは宣言しているように悪魔にあやつられた世界にいると主イエス・キリストを否定します。

異邦人の間で神の名前が汚されるとありますからね。よの行く末までも見通されている創造主はやがて宇宙を絨毯のようにぐるぐる巻きにして投げ捨てる時がある事を示唆しています。

しかし、憐れみと慈しみ満たされている神様は次の言葉を人類に語られています。

「神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」ヨハネ3:16

お近くの教会を訪問してくださいますようにあなたをこの世に送り出された神様はあなたが真実の親元に帰ってくるのを「我が子よ。よくぞ帰って来た」とあなたの帰りを今日も待っていますよ。
  


Posted by 金城米子 at 10:07Comments(1)先祖崇拝とキリスト教

2011年05月27日

主の花嫁がゴスペルフラで

昨日はハンガーゼロ対策機構の働きで「ハノハノイカハク」(主の栄光)のチームの一人として主の御用を務めさせて頂きました。総勢約30人の主の花嫁たちが心を一つにしてこの日のために祈りに支えれながら大役を果たせました。

私も二年ぐらいの体調不良を抱えながらリハビリのつもりで練習に加わったのでまさか本番まで用いられるとは、そして孫二人が一緒になって貧しい人たちのために自分達が出来る事で奉仕をしたいと共にゴスペルフラダンスを学校の宿題や行事の中で時間を合わせて頑張ってくれ舞台に立てたことは大きな恵みでした。

孫たちは大人のフラダンスチーム全員に支えられながら主の働きを成し遂げたことに神様の愛を感じて嬉しかったと言っていました。チームの一人の方は、孫達が下着の代わりにジーパンや黒の短パンを穿いているのを気遣ってくれて二人分の白のパンツをギフトしてくれました。

孫たちの「こんなにおばちゃんやお姉ちゃんたちに優しくされたことはなかったから嬉しい。イエス様の愛だね」との言葉に「そうよ、みんなイエス様の花嫁だからね。だから愛が一杯あるんだよ。これからも一緒にイエス様の花嫁としてフラ伝道師としてジーザスを証しようね」と約束しました。満たされた心で帰路に着いた昨夜でした。

沖縄の将来の発展のためには真理の神の愛を伝えて行きたいとやる気満々の幼い少女たちの情熱に勇気と希望が与えられました。忍耐と寛容を持って指導してくださった照屋直美先生と当間あつ子先生に心から感謝すると同時にフラチームの姉妹たちの限りない寛容を持って多動の孫達を支えて下さった事を感謝します。

また、それぞれの教会での祈りの支えと会場に足を運んで下さいましたお一人おひとりに神様からの祝福と導きが豊かにあたえられますように感謝してお祈りします。

主の導きに心から感謝してこのブログをお借りしてお礼をします。ありがとうございました。
ハレルヤ。主に栄光あれ・・・

「ハレルヤ。新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみで生きる人の集いで賛美の歌を歌え。イスラエルはその造り主によって喜び祝い、シオンの子らはその王によって喜び踊れ。踊りをささげて御名を賛美し、太鼓や竪琴を奏でてほめ歌を歌え」詩篇149:1~3  


Posted by 金城米子 at 17:04Comments(0)

2011年05月27日

聖書を擁護するために

クリスチャンになって私が思った事は、聖書を知る事も大切ですがその聖書を誰にもおとしめられたくない、どの箇所でもきちんと解き明かしする事、擁護することでした。随分と甘い考えだとお叱りを受けるかも知れませんが。誰にでも十字架のイエス・キリストを伝えたいとの情熱からでした。それで三年間は書店通いでした。おかげさまで少しは聖書を知る事が出来ました。

伝道にあったては年齢層が広いために切り出し方や言葉で苦労しました。標準語が上手くなく口の中で喋っているようだと注意をされていたので「あえいおう」の発声練習もしました。

家庭訪問のコツは保険会社で訓練を受けた経験が生かされています。話し方は絵本から偉人伝などを読みました。朝から晩まで聖書と一般の書物も読みました。言葉の勉強のためです。そして、話題がないよりはあるほうが聖書への導入がしやすいと考えたからでした。

友人や公園で出会った人に誰かまわず話しかけて行き、話し方を訓練しました。しかし、神様はそれ以前に息子を通して医療関係やマスコミ関係など多方面の方々との機会を与えて下さっていました。話し方教室の場所を準備してくれていたのだと感謝しております。

障害者支援事業について行政の方々との話し合いで代表者として語った事がありました。その時に取材に来てくれていました琉球新報社の女性記者に「お話が具体的にわかりやすくて良いですね。いつか、ご自分の伝記を書かれたらよいと思いますよ」と励まされた事がありました。

すべての事を通して神様はキリストを伝えるために訓練していたのだと確認しています。先駆けて備えてくださる神イエス・キリストです。それに鈍感な私は打たれ強いです(笑い)子供の頃からいじめられっ子でしたからね。でも、めげない子でした。

それは、祖祖母の教えがあったからです。「雑草は踏まれてもすぐに立ち上がる。おまえは自分の事を雑草だと思って強く根を張って生きて行きなさい」といじめにあって帰宅した私に祖祖母の叱咤激励の言葉でした。

今は、万軍の主が背後におられますから勇気百倍です。120歳現役を祈って聖書を擁護するために伝道の為に前進あるのみです。私の神。主イエス様は、難儀な事の多い私に大きな喜びを与えてくれています。

孫達が信仰の継承者となって一緒に伝道や行事を喜んで手伝ってくれている事です。時々、孫は私に確認をします。「おばあちゃんの喜びって何?」私は「あなた達と神様のお仕事が出来る事だよ。」と。毎回同じ質問と答えです。孫達とおばあちゃんの愛の確認です。

確信があれば確認も必要なのです。確信は目には見えませんけど確認は見えます。家族同士でもお互いにその質問をしていると孫たちは話して笑っていますけどね。私は嫁達に心から感謝しています。

世間では嫁姑の問題がありますが私は一度も気まずい思いをしたり問題が起こった事はありません。全員が私の天然ボケを受け入れてくれています。孫たちも嫁の言いつけで私を労わってくれてます。「おばあちゃんを大切にしなさい」標語があるのかと思わされます。

伝道も聖書を擁護するには知識だけでは補えないものがあります。家族の愛に満たされた暮らしが一番の力です。家族が一致するには「自我を捨てる」事です。難しいように見えても案外それが楽な生き方だと解ったら実践できるものですよ。

自分中心の量り縄があるゆえに対人関係にひずみが出来てしまうからです。学校生活では、孫たちもノンクリスチャンの中での生活ですから精神的な戦いはあるようです。しかし、聖書が言っているように「苦手な人が一人もいなくなりますように、神様の心で私が赦せないと思っている人を赦して愛する事が出来る様に力を下さい」と祈っているようです。

そんな話を聞くと心や思いを一つに導いて下る平和の神。キリストに感謝です。せねばならない信仰ではなくて我が家は何でもどんなアクシデントが起きても「大丈夫だよ。信仰ですからね」お金があってもなくても「大丈夫だよ」の信仰家族です(笑い)

家族って本当に良いものです。素晴らしいです。年老いて来るに連れて実感しています。神様のギフトです
たとえ、あなたに血縁のある家族がいなくてもあなたは一人じゃありません。あなたにはあなたを兄弟、姉妹、父と母、祖父と祖母と呼んでくれる家族がいますから大丈夫ですよ。

イエス・キリストにあって教会は全員が神の家族です。兄弟、姉妹、父親、母親、祖父、祖母がいますよ。
教会には活動の原動力の基とする火の聖霊が隣在しています。私達の罪を焼き尽くし活力を与え、進むべき道を示し、恐れを消し真っ直ぐに生きる喜びを与えます。

「だれでも、天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である」マタイ12:50

あなたが幸いでありますようにお祈ります。  


Posted by 金城米子 at 08:21Comments(0)

2011年05月26日

地球外生命体の来訪について

中学生を伝道していて質問された事ですのでアンサーズブックより答えたことを記します。

聖書では「地球外生命体」の来訪については触れていません。
神の御言葉が文字となって啓示されている聖書は、創造の過程を通じてのみ、生命は生まれると教えています。仮に、地球に非常に似た惑星を持つ銀河が他にあったとしても、創造主が生命を造った場合のみ生命が存在するのです。

神がその事をなさり、これらの生命体がいつの日にか私達を訪れるとすれば、神はその事に関して私達を無知蒙昧なままに留めておくような事は、決してなさらなかったでしょう。神は将来について大変具体的で詳細な事を教えて下さいます。

~例えば、イエス様の再臨、世の終わりに関する具体的な事柄などです。宇宙は、将来のある時点で巻物のように巻き上げられます(イザヤ34:4。黙示6:14)
仮に神が他の場所で生物を創造なさったとしたら、その生物の住む場所もまた、自動的に崩壊してしまう事になります。

アダムの罪のために被造物は全てのろいの影響を受けました。では、アダムの罪深い子孫ではない種族も神の被造物の一部分であり、その一部分がのろいの影響を受け、最後のアダムであるキリストによって回復されなければならないとしたら、そのことに正当な理由があると言えるのでしょうか。

これらは全て、度を越した奇妙さがあります。創世記6:2~4に記されているネフィリムあるいは「神の子ら」は宇宙人だったと主張する人もいます。この主張は「人の娘たち」と結婚した「神の子ら」は堕落した天使であり、ネフィリムはこれらの「結婚」の産物であったという一般的見方を、無理やり引き伸ばしています。

ヨブ記38:7では、「神の子ら」は明らかに天使を射すものとして使われています。七十人訳はここでは、「神の子ら」を「神の天使」と訳してあります。このことは、邪悪な天使あるいは悪霊が実際に女性とともに住んでいたということを必ずしも意味していません。

イエス様は少なくとも天にいる天使は性的行為を行わないことを明白に述べておられます。(マタイ22:30)。しかしそれでも、地上にいた邪悪な天使たちは、邪悪な世代を生み出すと言う邪悪な計画を達成するために悪霊となって不敬虔な男に取り憑き、その体を利用したと言う事は考えられます。(創世記6:12)

「神の子ら」ネフィリムの正体については、他にも合理的な考え方がいくつかあります。興味深いことに、ネフィリムという言葉は、この箇所と民数記13:33でのみ使われており、民数記では明らかにアナクの子孫を指しています。

アナクの子孫は背が高い人達でしたが、それでも人間でした。さらに「神の子ら」は天使だけを指すものとして使われているわけではありません。

~ホセア書1:10ではイスラエルの子らは「生ける神の子」と呼ばれています。詩篇73:15。80:17を参照して下さい。  


Posted by 金城米子 at 07:00Comments(0)

2011年05月25日

あなたの履物をぬげって?

質問にお答えします。

モーセが柴の中の神と出会った時に、「足から履物を脱ぎなさい」と言われました。ヨシュアには「あなたの履物を脱ぎなさい」と言われました。同じように聞こえますが微妙に違います。。「足から履物を脱ぎなさい。「あなたの履物を脱ぎなさい」この違いは何でしょうか。

モーセには足です。モーセは40歳まで王子として育てられ当時のエジプトでは最高の学問教育を受け、天文学、地質学、海洋学知識も学び豊富だったと思われます。それらの知識、学問、経験がモーセを強くしていました。モーセの誇りだったかも知れません。王宮生活はモーセの体の一部の足となっていたのです。

40年間の羊飼いの経験はモーセの心が砕かれました。羊飼いの役割は命がけですからね。狼が襲って来ても飼い主は狼に立ち向かって羊を守ります。モーセに神が与えられた杖はいのちを守る杖なのです。モーセが200万人のイスラエルの民を引率する力となりました。モーセが学んだ学問や知識は荒野で生かされました。万事を益とする主ですからね。


一方ヨシュアはどうでしょうか。ヨシュアは荒野で生まれ育っています。荒野育ちなので戦力、知力、体力があります。そしてリーダーに従順でなければチームを守れません。

モーセが神に服従したようにヨシュアはモーセに従順でした。リーダーに従順するのは、荒野で生きる方法である事を知恵者のヨシュアは知っていました。

「あなたの立っている場所は聖なる土地だから」はモーセへの主の御言葉です。神の杖を使って聖霊の靴を履いて世界の土地を祈りながら歩く姿を思わされました。創造主は、土地の支配をモーセに許可されたのです。土地は糧である作物を収穫できます。土地は全ての生活する上での土台になります。

ヨシュアには「あなたの立っている場所は聖なる所である」と言う御言葉でした。ヨシュアは所ですから教会を示されています。祝福された土地、荒野の土地の上に建つ教会です。ヨシュアの子孫から教会組織の祝福の継承が思わされました。

「モーセが成人したころのこと、彼は同胞の所に行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人がヘブライ人の一人を打っているのを見た。モーセはあたりを見回し、誰もいないのを確かめると、そのエジプト人を撃ち殺して死体を埋めた」出エジプト2:11~12の記述です。

モーセは同胞を助ければ自分を受け入れてくれると思ったのでしょう。しかし、それは肉の思いで実践した事ですから受け入れられず逆に自分のいのちを危険にさらすことになりました。殺人に及ばなくてもモーセのような経験は私達にもあります。

あの人の為に善をすれば自分を受け入れてくれると思ってしまう。人に自分を受けれて欲しいと言う思いが私達の動機なのです。善を行っていても結局は自分を誇っているのです。

以上、私のデボーシャンからの解き明かしでした。少しは理解できたでしょうか?主の導きがありますようにお祈りします。

  


Posted by 金城米子 at 11:38Comments(0)

2011年05月25日

旧約聖書ヨシュア記から

「ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男が向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、彼は答えた「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に「我が主はこの僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍は言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」ヨシュアはそのとおりにした。」ヨシュア記5:13~15

昨夜はヨシュア記5章から6章を拝読し、この箇所が深く心に留まりました。旧約聖書は私の一番解りやすい箇所で深く入って来ます。旧約聖書を知れば新約のイエス様の実体がよく解ります。初めからおられた神であり「わたしがアルファであり、オメガである」黙示1:8を理解できます。

朝と夜に聖書を分けて通読(デボーション)をすると自分の罪?や不足が示されます。神様は私達が削ぎ落とされ、砕かれ、練られて成長して人格を軌道修正なさるのです。

モーセが神の人と呼ばれたのは、モーセは誹謗中傷には耳をかさなかった。つぶやく民の為にも地にひれ伏して主の御前に出て、とりなしの祈りをしました。主が「顔と顔を合わせて語られた」と言われるモーセです。イスラエルには再びモーセのような預言者は現れなかった」と記されています。

モーセが全イスラエルの目の前で、あらゆる力ある業とあらゆる大いなる恐るべき出来事を示すためであった」申命記34:10~12。と聖書は語られています。

ヨシュアは知恵の霊に満たされた人でありました。モーセガ彼の頭に手を置いて祈ったからです。ヨシュアは、常にモーセを通して創造主なる神を見ていました。ヨシュアの信仰はモーセを通して強くされたのです

モーセが神に服従して仕えたようにヨシュアも師であるモーセに従順に仕え、そしてモーセの神に服従する幸いを自分のものとしました。ヨシュアの師はモーセでした。では、モーセの師は誰だったのでしょうか?

モーセは常に創造主を見ていました。雲の柱、火の柱となられ導かれた主だけがモーセの師であったのです
ヨシュアは知恵に満たされた者でしたので従順ではなくて服従する事が幸いである事をモーセの生き方から学びました。

現代はどうでしょうか?神に選ばれた多くの先駆者が辿った神と人との歴史書である聖書が私達の人生の師です。誰でもありません。主イエス・キリストの御言葉である聖書を通して唯一神を知るのです。私達のまねるべきお方は人となって地上に来られた主イエス・キリストです。

天の父神の右に座したまう主イエス・キリストだけなのです。人じゃありません。賜物でもありません。
あなたは賜物信仰者になっていませんか。人格と賜物とは比例しません。どうしてあんな人にと思うような人にでも神様は賜物を与えます。

私は、親しいクリスチャンには注意します。「賜物に仕えてはいけません。主にだけ仕えてください」と。
そして、「他人の賜物を羨ましいと思ってはいけません。その賜物信仰になってはいけません」と。

旧約聖書は、どれほどの力、賜物があっても主に絶対服従をしなければ継承されない事を知る事が出来ます
旧約の神は「憐れみ」の神、新約の神は「恵みの神」と言われ現代は恵みの時と言われて私達はルンルン気分でまるでカルチャー教室の聖徒のようなクリスチャンもいますが「畏敬の念」をもって神の御前に膝をかがめる祈りも出来る様になりたいと思います。

こんな事を言うと「また、あのhanna7が偉そうに・・・」と思うイエス様の弟子の方もいると思いますが主にある忍耐で不足な者の小さな意見として流して下さいますように・・・

「鬨の声をあげよ。主はあなたたちにこの町を与えられた」「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼしつくして主にささげよ。」ヨシュア6:16~17

地域伝道に御手が差し伸べられ神の栄光がすべての教会、信徒の上に満たされますようにお祈りします。  


Posted by 金城米子 at 07:24Comments(1)

2011年05月24日

生きたいと声なき声に励まされ

妊娠4週目にバイク事故で入院しました。病院に運ばれる救急車の中で意識を失いかけながら産婦人科病院に行くように頼んだ私に救急隊の方が「妊娠しているのですか?」と聞きました。私は「子供を助けて下さい」と言って少しの間意識を失っていました。

病院に着いた時に声をかけられて「妊娠しているのでお腹の子供に影響がないように治療をして下さい」と頼み込みました。

まず、切迫流産予防の点滴をしてもらいました。一週間後に妊娠反応がありましたが出血をしてしまいました。何度も流産の憂き目にあって今日から七ヶ月に入ると言う日に出産になりました。

生まれた我が子は全身真っ黒い皮膚をした赤ちゃんでした。全身がチアノーゼなので翌日には琉球大学病院へ連絡をしてそれから子供の心臓病の専門の先生の診察を受けました。生後4ヵ月目に琉大病院の移転が落ち着いたのをきっかけに息子は琉大病院に入院しました。

息子は4年間で4回の手術を受け本土の病院と県内の病院での入退院の繰り返しでした。2歳前に息子が心臓停止で重度の障がい者になった時に前後して夫婦の関係が悪化して行きました。人目をさけて病院の中にあるプレイルームで夜に息子を抱きしめながら泣いている時もありました。

息子が生きている間、私は生涯息子からは離れる事は出来ないだろうと覚悟していました。自由はないものと決心していました。ですから、養護学校への入学許可がおりた時は天にも上がらんばかりに嬉しかったです。少しは厳しい条件もありましたがそれは、後でなんとかクリア出来ると思っていました。

いよいよ待ち侘びていた晴れの入学式の当日の事でした。入学式は体育館でした。その日は真夏が一度にこの体育館に来たのではないかと思うほどに暑苦しかったです。息子が暑さに我慢できずに泣き出しました。

若い男性の教師が気遣ってくれて息子を抱っこしてあやしました。しかし、どんなにあやしても泣き止まないのです。男性教師も上着を脱いで息子も服を脱いで二人で体育館がディスコ?かいと思うほどに賑わせていました。

それが男性教師のT先生との出会いでした。養護学校での新しい世界が私達母子に広がっていきました。
出会いは違う世界観が与えられ色々なことを再発見をします。養護学校の土地が戦没者の遺骨がトラック満杯に出た場所と聞いたので私は学校の敷地を回りながら祈りました。

子供達にのろいが降りかからないために祈りました。「アシェル」その時に私の中に入って来た言葉でした。仏像の名前なのかと色々と考えましたが解らず終いでした。このブログを立ち上げるに至って思い起こし辞書を調べて感動しております。皆様と分かち合いたいと思いましてここに証とさせていただきます。

「アシェル」それは『神は創造主』と言う意味なのですね。神様は私に気付きなさいとその言葉を発したのではないでしょうか?「障がいを持って生まれた子供たちも神様の大切な作品だとして祝福しているよ。子供たちの上には、呪いは置いてないよ」と神様は伝えたかったのかも知れません。

「主の祝福がその土地にあるように。天からは露の賜物。下は横たわる淵の賜物。太陽がはぐくむ賜物。月ごとに生み出される賜物。いにしえの山々のもたらす最上の物。とこしえの丘の賜物。地とそれに満ちるものの賜物。柴の中に住まわれる方の慈しみ。それらすべての恵みがヨセフの頭に臨むように」申命記33:13~16







  


Posted by 金城米子 at 15:06Comments(0)

2011年05月24日

被災者の痛みに思う事・・・人は弱い

東北地方の被災者では一緒に逃げながらも家族を救えなかったと自分を責めている方々もいる事を聞きました。知人のカウンセラーにも同様な事を聞きました。「祖母を置き逃げた自分を呪う」と言う記事を見ました。被災者の方々の痛みの癒されることを心からお祈りします。

私はホスピスカウンセリングで「子供を殺した」と苦しみを訴えていた老人の事を時折思い起こします。

その老人は、去った第二次大戦で歩き始めたばかりの息子を避難先の防空壕で自分の手で口を押えて窒息死させたと話していました。防空壕では子供の泣き声が敵に聞こえたら皆が巻き添えになって敵に殺されると恐れていたからだそうです。戦争は人を悪魔に変えます。

他の人に「子供連れて壕から出て行け」と言われて父親である老人は我が子の口を押えて窒息死させたそうです。彼は妻にも他の子供達にもその事実はずっと話せないでいたそうです。

この事は墓場まで持って行くと決めていたそうです。しかし、彼は一日も末子を手にかけて死なせた事を忘れた事はなかったそうです。その老人は自分自身を呪って悔やんで生きてきたそうです。孫が重い障がいを持って生まれた事も自分自身が肺がん全身転移で苦しんでいるのも天罰だと話していました。

その頃は私はノンクリスチャンでしたからその方を慰める術を知りませんでした。天罰はあると信じていたからです。私も自分の子を病院へは連れて行けずに死なせてしまった経験がありましたから私自身も自分を呪って生きていました。ですから老人の気持ちが痛いほどに解りました。

私は手を握ってあげて「OOさん。物事にはすべて時効と言うのがありますからね。もう大丈夫ですよ。戦争中の事でどうしようもなかった事だから、不可抗力ですからね。大丈夫ですよ。神様もとっくの昔に赦されていますよ。だからもうご自分を責めないで下さい」と言う事だけでした。

私は過去の記事で両親が船酔いのために海に落ちた我が子を助ける事が出来なかった話を知りました。子供は幸いにも同船していた二人の大学生によって救助されました。その記事を読んだ友人と私は「何ていう親なの?」と非難しましたがそれからしばらくしてから私は末子の息子を連れて離島に行く事があり船に乗りました。

その日はいつもより海は荒れていました。私と息子はひどい船酔いで死ぬかと思うほどでした。息子は自力では体を支える事も何かにつかまる事もできません。息子は嘔吐をしながら苦しみを訴える事も出来ずに船が傾く方向にコロコロと転がって行くのです。声を上げる事も出来ない息子を見ながらも身動きが取れない自分が情けなかったです。

「何て親なの?」と自分を呪いました。普段は難病児の息子愛おしく宝物のように世話しているにも関わらずにこんな時に親として何もして上げられない自分が情けなかったです。人は本当に弱い者です。どうしようもないほどに弱い者です。他人様の事を批判したり誹謗中傷したりする資格は誰にもないのです。

クリスチャンになってから私の祈りは変りました。「私がイエス・キリストの十字架の愛を持って息子を愛する事が出来ますように・・・神の愛を持って息子の介護が出来ますように・・・」と毎日この祈りをしています。自分自身の弱さを誰よりも私自身が知っているからです。「女は弱い。されど母は強し」の言葉は手前勝手な男達が母親に対して呪文のように刷り込んだ教えだと思っています。

痛みや後悔の中にある方々にお伝えします。自分自身を呪う必要もないのです。神様は弱い私達の事を一番ご存知であり、心の痛みも傷も癒さしてあげたいと願っています。

私達の側から神様の方には近寄る事は出来ないと思っているでしょうけれど大丈夫ですよ、神様の方から弱っている方、病んでいる方、痛んでいる方、自分を愛せない痛みの中にある方、人間関係で苦しんでいる方、経済的に困窮して心の落ちている方々の隣に来て下さるのです。

主イエス・キリストの十字架は、全ての人々の救いのためなのです。イエス様が十字架にかからなければ人類の救いのみわざはなかったのです。永遠のいのちを与えるための十字架でお供え物となりました。究極的な愛の御業です。あなたが呼び求めればすぐに来て下さる神様なのです。

難しい言語で祈らなくても、お供え物をする必要も何もないのです。ただ、「イエス様。助けて」と呼べば良いのです。あなたの心のうちを深く探って下さり慰めと癒しが与えられる愛そのものの神様です。心砕けた者と共にいて下さる神様なのです。

決してあなたを見離さず。見捨てません。私達を友と呼んで下さり「わたしはあなたを孤児にはしない」と仰る神様です。どうぞ、心に悩みを抱えておられる方々は教会を訪問して下さい。カウンセリングを受けに来るだけでも良いのです。カウンセリングは無料です。あなたを心から歓迎します。

「彼は(イエス)は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」マタイ12:20  


Posted by 金城米子 at 06:46Comments(0)

2011年05月23日

ハンナの祈り

ハンナの祈りに心動かされてハンナと息子のサムエルの母子を霊的に私と末子の息子に重ねました。末子の息子は私の祈りを深めるために私の側に神様が置いたのだと示されました。

私達母子は毎日が綱渡りの生活です。息子も祈りの中で生かされているからです。クリスチャンにとっては祈りは息だと教えられていますが私にとって祈りは命そのものなのです。

息子と私の命なのです。以前、祈りの時間を五時間は普通に祈っていると証をしましたら間違っていると怒鳴られた事がありました。その先生はきっと私達母子が地獄からの主イエス・キリストによって引き上げられて蘇生させられた経験がある事を知らなかったからだと思いますけどね(笑い)。

人は知っているようで知らない事ばかりですからね。十字架が示しているように人との関係はこの世での短い時間だけの事であって、神との関係が永遠である事を私達は知っていますから感謝なのです。

毎日の祈祷課題は山積しています。一向に減りません。自分自身の事、家族のこと教会も牧師とそのご家族、信徒、他の教会の祝福の祈りは当然ですが日本の祝福、政治家のこと、リーダーの事、友人知人まで祈っていると時間はどんどん過ぎて行きます。

祈りはエレルギーを使います。祈り終わった時にはぐったりするかなと思いきやその疲れは真か不思議な力で癒されて元気百倍に回復します。喜びと平安のうちに次の計画が満たされますから幸いです。

ハンナは不妊で子供が耐えられるように祈りました。「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」サムエル1:18とあります。祈りとは自分の状況をすべて神様の前に注ぎだす事です。ありのままの自分を訴えるのです。ハンナは心に悩みを一杯抱えて神殿に来ました。

祭司のエリがハンナは酔っているのではないかと見間違うほどに一心不乱に泣きながら体をふるわせて祈りました。祈りの中では、様々な悲しみや苦しみ人生の悩み、対人関係での寂しさをすべて神の前に注ぎだしゆだねた時に私達は自分の問題を受け入れる事ができるのではないでしょうか。

祈りには犠牲も伴います。ハンナはサムエルを手元から離さなければなりませんでした。可愛い盛りに祭司のエリのもとへ行きました。「主は私の祈りをかなえて下さいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたのです」こうして彼らはそこで主を礼拝した」第一サムエル1:26~28の記述です。

私も末子が18歳の頃に不正脈で厳しい状況を宣告されました。私の祈りは、息子を主にささげる祈りでした。どのような結果になろうとも主を愛し、主に従って生きる事、息子は主のものだからです。神様が息子を返しなさいと言うのならお返しする事を否みません。しかし、息子が私の元に置かれたのは、主よ。私の霊的成長の為にですよね。私の信仰が強くされ、高嶺に引き上げられるためですよね。それなら私は不信仰の者です。どうぞ。あなたの目に適う者とされるまで息子を私の手元に置いて下さいますように・・・」と祈りました。息子の不正脈は癒されました。

しかし、祈ったからと問題が自分の望んだように解決されると言う訳ではありません。
私達は結果は神に委ねて問題を受け入れて主による平安が与えられるのです。

私がクリスチャンに変えられたきっかけは借金と息子の障がいと難病に失望しそれまで信じていた神に絶望して「真の神。唯一の神がおられるならと叫けび声を上げて祈りながら息子と共に海に入ったからでした。唯一の神は「あなたの泣き叫ぶ声を聞いた」「わたしはあなたの祈りを聞いた」「わたしの助けが必要か」

主は私に確めました。「はい。必要です」私は即座に答えました。それから神様は暗い空に光り輝く十字架と共に「信仰。希望。愛」の三文字を示しました。それは私がこれからの人生の柱として実践して生きる事が出来ると神様は啓示してくださったのだと確認した出来事でした。

クリスチャンになってから講壇の説教台の前には、ずっと「信仰・希望・愛」の文字が見えたので私は教会での標語として講壇の説教台にはその文字が彫ってあるのだと信じていました。ところが五年後にその文字が見えなくなったので説教台を変えたのかと思い聞きました。違いました。説教台は同じものでした。私達の主イエス様は不思議をなさる神様です。

「悪を行う者よ。皆私をはなれよ。主は私の泣く声を聞き。主は私の嘆きを聞き、主は私の祈りを受け入れて下さる」詩篇6:9~10  


Posted by 金城米子 at 10:54Comments(0)

2011年05月23日

エリコの城壁は我がうちにあり

土曜日の夕方にN・Kさんの訪問を受けました。彼女がぜひ聞いて欲しいとの事は、個人で小さなお店を経営していたが二千万近くの負債を抱えてしまい弁護士を頼んで破産宣告の最中だとの事でした。

彼女は、自分の牧師にも祈ってもらっているが周囲の人は破産宣告が社会的に抹殺される事だとは理解していないので私の苦しみも痛みを理解してくれていないと泣き出しました。彼女はこれまでのいきさつを語りながら迷惑をかける事になる友人達に誠意を持って会いに行って「謝罪して来たけどね・・・」とぽつりと話しました。でも結果は散々だったのは聞かなくても解ります。

私「それで結局は罵られて罵倒され惨めな思いをしただけでしよ?」
N「そうです。親友だと思って数十年間も一緒に頑張ってきたのに・・・」

私は、たとえ話で話しました。「あのね、男女が別れる時には、別れ話をしている間は決して別れられない、逆に最悪な状況を引き起こしかねないのよ。別れる時は間に第三者のプロを入れて一切かかわらない事なんですよ。交通事故もそうです。車同士の事故なら保険屋さんのプロに任せる、何事もプロに任せなさいと言う事ですよ。『自己過信は破滅のもと』私の持論ですけどね。」(笑い)

私が通過して来た道のりを証しました。私自身、破産宣告を経験したからです。しかし、私はクリスチャンとしての証が出来る様に祈った事、個人的に迷惑をかけた友人や知人に必ず証が出来る様にと祈った事そしてその祈りが聞かれた事を彼女に証しました。

5年間で不思議な方法で5百万を業者に支払った事、各個人にも百万円の負債を支払う事が出来た事を証しました。5年間ですよ。5年間私はゼロ円生活をしました。神様が収入の全てを負債に充てなさい」と言われたからです。私は一抹の不安はありましたが従う事にしました。

従った時に、玄関に食材や野菜や調味料が置かれました。電気やガス料金も公園ですれ違った人からも(息子の車椅子のポケットに差し込んでくれた)与えられました。クリスチャンからだと思いますが必要なものが届きました。

私達の神様は必ず祈りに答えられる神様です。祈って下さい。自分の痛みや傷を神様にするのではなくて十字架の主イエス・キリストを一番にして祈って下さい。「あなたはどうしたいのか?」イエス様はいつも私達に聞いておられるのですからねと・・・

私達の人生のプロは「主イエス・キリスト」です。日々のデーボーションで神の声を聞きながら用心して生きる事は必要不可欠なんですよ。どんな些細な事でも祈る、聖書に聞く、そして自分本位に聖書を解釈していないか?自分の状況や動機を吟味する事はとても大切なんです。

彼女と聖書を通して話をしました。「エリコ」の城壁は、私達の心のうちにあると言う事を理解する事は自分を守る最も必要不可欠な事だと話しました。それは、クリスチャンになってからの私の歩みの中で私自身が高慢になり自己過信になり、自力で歩んだその結果、大怪我をし教会を出て行く事になった経験がある事をN・Kさんに証しました。彼女は「え~。hanna7さんもそんな事があるのですか?」と聞き返しました。

私は「私も肉なる者です。肉は何処までも肉なる者なのだと日々悔い改めていますよ。パウロさんの気持ちがとても良く解りますよ。罪を犯したくないと思っても罪を犯してしまう肉の思いがあるからね。不信仰な者ですよ。」と答えました。

私達は2時間ほど聖書を語りながらお互いのうちにあるエリコの城壁を陥落するために悔い改めの祈りを導いてくださいと聖霊の導きが与えられますようにと祈りました。

失敗も成長の段階です。擦り傷、やけども大小に関わりなく万事を益として下さる神が私達にはいます。悔い改めて「立ち直ったら兄弟を助けなさい」とペテロを励まされた主イエス・キリストは今日も私達のために『信仰がなくならないために祈っています』からね・・・「どんな時にもハレルヤです。クリスチャンは雨が降っても晴れてもハレルヤです」これも私の持論です(笑い)

「主を愛する人は、悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り、神に逆らう者の手から助け出してくださる。神に従う人のためには光を心の真っ直ぐな人のためには喜びを種蒔いてくださる。神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ。」詩篇97:10~12

  


Posted by 金城米子 at 08:03Comments(0)

2011年05月21日

ベタニヤゆいまーる教会紹介&ゴスペルフラダンス案内

5月26日の木曜日の午後7時からうるま市の市民劇場の響ホールでアフリカの飢餓を救うためと東北災害で被災された方々のためにハンガーゼロと銘打って大会が開催されます。フラダンスチームの「ハノハノイカハク」(主の栄光)からも協力出演をします。そのために小学校5年生と3年生の孫ほ二人が一緒にゴスペルフラダンスで協力します。孫達の初デヴューです。

共に神様の栄光の為に奉仕が出来る事はこの上もない祝福です。私達は現在は糸満市阿波根602番地の「ベタニヤゆいまーる教会」の枝として主の栄光を現すために用いられるようにと祈りながら礼拝を守っております。信仰の継承は主の恵みです。

母教会のベタニヤチャーチ(山内昌良牧師)の働きはホームレス支援事業、障害者支援事業などをですが生活指導訓練をしながら就労の場所つくりも目指しています。中城にも土地を借りて農業を指導しています。

一般の人たちでさえ就職は困難です。ですから自分達の力で就労の場所を作って税収で沖縄県を潤わす事が希望なのです。私の構想は沖縄県がキリスト県になり日本国中からリタイヤした方々や高齢者が安心して暮らせるようになればと望んでいます。

キリスト県には病院もデイサービス事業も障害者支援事業所も必要です。そこで働く人々が増えれば税収があります。農業や酪農畜産関係も将来的にはクリスチャンと一般就労者も交えて出来れば感謝です。

クリスチャン墓地も必要になります。冠婚葬祭事業も職を失った方々がマスターして就労できればと思っております。これは私の希望であり祈りです。平和で豊かな沖縄県つくり(キリスト県)です。

山内昌良牧師とならきっとこの希望が叶えられるそんな思いが与えられました。末子の息子が産まれてから私は、社会的弱者の就労場所や居場所つくりを願って草の根的な働きをして来ました。困難の日々でしたが神様は絶対に諦めないで希望に向かって進みなさいと示されました。今、神様は山内昌良牧師を通して私達を巻き込んで大きな力の束をご準備してくれたのだと思いがあります。

「ベタニヤゆいまーる教会」の牧師は新里翼牧師(30歳)です。若い翼牧師はなかなかの人物です。年齢は若いのに酸いも辛いも嗅ぎ分けた、潮波にもまれて来たように砕かれています。波にもまれたガラスは角が取れて丸くなり人を刺せないという事でもあります。輝きもあります。

御言葉の剣(人を生かす剣)を上手くしがらみや重荷となっているものを削ぎ落とす剣です。師である山内昌良牧師の砕かれた心と慈愛に満ちたキリストの心をそのまんま新里翼牧師が受け継いでいる事が伝わって来ます。

だからと言って情熱がない訳ではありません。新里翼牧師は情熱と勇気と知恵を持ち合わせたりっぱな若者です。息子のような牧師ですから将来が楽しみです。イエス様を通して期待して祈っております。

ゆいまーる教会が幾重にも神の祝福と導きがありますように祈って下さい。下記の御言葉を実践しているのがベタニヤチャーチとゆいまーる教会です。沖縄県がキリスト県になりますようにお祈りください。

「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を絶ち、くびきの結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折る事。更に、飢えた人々にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人々を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。そうすればあなたの光は曙のように射し出であなたの傷は癒される」イザヤ58:6~8(新共同約)  


Posted by 金城米子 at 19:05Comments(0)

2011年05月21日

教会にいなければ解らないこと

教会での経験や学びでは精神の成長をする事は多くあります。霊的成長とも言います。まず、世俗的な人生をチョイスして行くと平安が失われていく事を知ります。人間関係が一番の私達の問題です。家族、友人、隣人、職場の人間関係などです。人との関係と人の言葉に支配されている事が一番の苦しみの原因です。

私はよく対人関係で悩んでいると言う相談を受けます。「あの人にこう言われた」「職場の人は私のことを疎外している」「本当の友達がほしいけど出来ない」など等です。

私はその人たちに話します。「あなたは誰の支配の中にいたいのですか?他者の言動で傷を受けたと悲しんだり怒ったり、喜んだりしたらそれはあなたはその人の支配の中にある事を認めていることになります。

いつでも他者の思惑や言動に振り回されてしまいますよ。人の心はいつでも自己中心です。一定していません。絶対に変らないものそれは十字架のキリストの愛です。多くの宗教や教えはあります。しかし、十字架で人類の贖いのために死なれ、復活した神はイエス・キリストだけです。

キリストの尊い教えに導かれて生きて『平安』を得る生き方を選ぶのか、人を中心に生きて振り回されて生きていくのか、選びはあなた自身にあります」

疎外感は目に見えない闇の声を聞きあやつられる危険性があります。『わたしの目にはあなたは高価で尊い』とお仰って下さる神、主イエス・キリストがいます。偏愛の神で偏在する神です。イエス様との会話を聖書を通してなさって下さい。勇気と生きる力と喜びが与えられます。

本当の友達は、この世の友、親友は一人いれば十分です。祈る事です。祈れば必ず与えられますからね。
しかし、があります。人は変ります。いつまでもあなたと一緒にいる事は不可能でしょう。

私自身過去に、人依存症がありました。気心の合う友人や親友と思っていた人との交流は楽しかったです。
日々、マックやA&Wなどで集まってにぎやかに時間を過ごしていました。でも、人の集まりは最後には愚痴や噂話で盛り上がり空しさだけが残りました。

人の言葉が満ちると混乱が起こるのです。人の思惑を気にしたり、気まずい事を言ったのではないかと後に不安になり、埋め合わせとして何かをギフトをしたりするのです。滑稽ですよね。友人に善を行うときには何かしらの負い目がある事を知りました。寂しいけれど・・・

私達の心を満たし世の誰がも与える事の出来ない平安と犠牲の愛をもって愛して下さるのは唯一の神、十字架のイエス・キリストだけです。血肉を分けた兄弟姉妹でもあなたの生き方を批判したり、支配する事はしてもあなたの為に犠牲を払って継続的な愛の施しは出来ません。

クリスチャンになって10年過ぎた今になってその真理をしみじみと実感しているのが不足な者で不信仰者の私です(笑い)

キリストが与えられる家族愛、人間愛があればホームレスや自殺者や貧困で苦しむ人はいなくなるでしょう

あなたは今日、誰の支配の中で歩みますか?神様の豊かな導きがありますように・・・

「わたしは、平安をあなたがたに残し、わたしの平安を与える。わたしはこれを世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」ヨハネ14:27  


Posted by 金城米子 at 08:14Comments(0)

2011年05月20日

教会って?イスラエルとの関係って?黙示録って?

伝道をしていると色々と質問を受けます。教会って何?なぜ教会に行かなければ祝福や恵みが受けられないの?教会とイスラエルとの関係は?黙示録って何?と言う具合です。

大切な事は、教会とイスラエルの違いを常に念頭に置いて行かなければなりません。
教会とは天の国民であり霊的祝福を受け、キリストの花嫁としてキリストの栄光に預かるように召された者たちの事です。

イスラエルとは古代から地上に置ける神の民であり、神がイスラエルの土地とメシヤの支配のもとに文字通り地上の王国を約束された民なのです。

黙示録とはやがて消え去るもののために生きる愚かさを教える書物です。黙示録は滅びに向かっている人々に証しをするように私達を駆り立て主の再臨を忍耐して待つようにと私達を励ましています。信仰を持たない人にとって救いを拒絶する全ての人を待ち受ける恐るべき破滅について厳粛な警告をする書物です。

主の再臨が来る時にはすべてのキリスト信仰者は新天新地での生活が約束されています。すべての労苦もなくなり、愛と慈しみに満たされ天国人としての永遠があります。

未信者は新天新地を見る事も入る事も出来ません。ユタ、シャーマニズム、占い師、魔術師、偽りの宗教家、ニセ預言者など等はルシフアー(悪魔のニセ天の父神)と悪霊たちと共に消えない火の池に投げ込まれます。

しかし、霊は滅びません。耐えられない痛みも苦しみも永遠に続きます。選択する心や福音を聞いたり教会の十字架を目にしたりしているので言い訳は出来ません。人間には神を求める心、捜す心、永遠を思う心が与えられています。求めない者には新天新地での祝福はありません。

悪魔自身は滅びを知っています。ですから神様の最高の作品である人間を引きずり下ろし地獄へ連れて行く事が悪魔の目的です。人間はどんな罪も神様の前に悔い改めれば赦されます。悔いた心をイエス・キリストは受け入れます。本当の罪は天地創造主の父神とそのひとり子イエス・キリストを知らなかった事です。

万物の上にイエスの御名を置いたとありますから全ての権威と権限は主イエスにあるのです。イエスが十字架にかけられ三日目によみがえった神、人類の代表者として人類の罪を担って十字架刑を受けられた神はイエスだけです。なぜ?イエスかと言われたらイエスの聖い肉と血を父神は受け入れたのです。動物でもなく、誰でもなくイエス・キリストでなければ受け入れられなかったのです。

人間イエスは罪を犯すことは無かったのです。信仰の完成者であったからです。霊においても神の子であり、その実体は愛であったからです。イエス・キリストご自身の実体が愛だからです。

「あなたの正しいさばきを学び、真っ直ぐな心であなたに感謝します。あなたの掟を守ります。どうか、お見捨てにならないで下さい」詩篇119:7~8  


Posted by 金城米子 at 22:28Comments(0)