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2012年04月28日

人類の先祖は?

ノアの洪水と箱舟の話は、知っている人は多いと思います。40日40夜の降り注ぐ雨によってノアの家族以外は全員滅びました。ノアの家族に残されたものは、「罪」でした。ノアの長子にセムがいます。人類が滅びた後は、ノアの息子たちから子孫が地上に増えていきます。全地の民は彼らから出て、広がったのである(9:18-19)とあります。

セムから古代世界で活躍したアッシリヤ、アラビヤ、へブル、アラムなどの民族が彼らから出たのです(創世記10:21-31)箱舟に入って洪水の難を免れた8人の一人で(7:13)、洪水後ノアがぶどう酒を飲んで酔いつぶれていた時、ヤペテと寝ている父に着物をかけた(9:18、23,26-27)。セムとヤペテは、父親の恥を覆ったと言う事でした。

洪水の二年後、セムが百歳の時、アルパクシャデが生まれた(11:10)、ルカ(3:36)。ここにはハムとヤペテの系図が省かれてセムの系図だけが記されています。神の選びがアダムーセツーノアーセムーテラーアブラハムというように、多くのアダムの子孫から、しだいに狭まれていっています。

ヤペテとハムの系統はバベルの塔の事件の折、それぞれ自己の神を追って南北へ地って行ったのです。ところがセムは神のさばきを正当として、神のさばきの焦点の近くに立っていました。バベルの塔に関する人々の多くは神からの礼拝から離れていたと思われます。

その事から分る事は、私たちは(キリスト者)はセツの子孫だと言えます。決してカインの子孫ではないのです。アベルの亡きあとにセツが生まれました。セツからノアに続きます。神はバベルの事件からセムを選び出しセムの子どもたちの中からアルパクサデの子どもたちを選び、アルパセデクの子どもたちの中からシラを選び・・・とあります。

テラは川向こうに住んでいて異教的でした。ところが神はテラを選び、テラの中からアブラハムを選んだのです。この系図はそれを物語っていると思われれます。ここにへブル民族の発生をみます。ここに神の選民の民の歴史を見ることが出来ます。

私たちの先祖崇拝の事を考えれば長い歴史の間に、神崇拝の思想が捻じ曲げられ的はずれになって今日の先祖崇拝になっているように思われます。人は死んで33年忌を終えても絶対に神にはなれない。的外れな神観は根強くなかなか軌道修正できないでいます。

先祖崇拝も、薩摩による侵略によるものであり、それまでは死者崇拝は沖縄にはなかったのです。中国との係わりで龍を神ですとした沖縄、台湾との関連で多くの偶像崇拝が入って来た歴史が沖縄のチャンプルー宗教(混合宗教)の基であり、真実は一つもありません。

M子さん。「カインの子孫だから罪人だから仕方がないよね」ではなくてセツの子孫だから神との正しい関係つくりをするのだと決意して、真理の神に立ち返ることをして下さい。お祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 10:41Comments(0)

2012年04月26日

神の御声を聴くデボーション

クリスチャンになった時に私は、それまでの「見える」「聞こえる」「心に入って来る思い」「人の感情導入」などの業を神に返上しました。

見えない、聞こえない世界に私は置かれ、ただひたすら聖書を通して御声を聴くためにデボーションを毎朝欠かさずにしました。聖書を毎朝一章づつ読み静まって御言葉を味わうデボーションです。聖霊は、罪・悔い改め・従う・とりなしの祈り・感謝を導きました。

デボーションを5時間かけても御声を聴くことが出来なくて苦しくて吐く事もありました。今は、5分ほどでデボーションを終えることが出来るようになりました。

聖霊は罪をはっきりと示し、衝動買いさえも止めるように示しました。聖霊の導きに従っている間は、順調でした。困難な事も喜んで忍耐し、待ちわびる喜びも知ることが出来ました。

高慢な者を神は退けます。伝道が順調すぎるくらいに上手くいくことで私は、いつのまにか高慢になっていました。信仰生活10年目に私は、砕かれ、もぎ取られ(名誉)、削ぎ落され、健康が害され、うつ病が逆戻りしました。二度とこの不名誉な誤解は「陥れられた罠」から私は立ち上がれないとボロボロになり、再び親子心中へと心が傾いて実践しようとしました。

「教会は人を殺す」と遺書を書いてです。しかし、実践しようとした時に車が大きく揺れて「止めなさい」と聖霊の大きな厳しい御声が聴こえました。私は自己憐憫に陥っていたことを示され、キリストを二番手にし、トップの人を神としていたことを悔い改めるように導かれました。

キリストから目をそらし、「人に依存する」、「人を神とする」、「人に認められたい」と思った時にキリストが見えなくなり、御声が聴こえなくなっていました。涙の悔い改めと、とりなしの祈りをして半年後に教会に行かなければと思いが起こりました。

万事が神様の御手の中の事であり、神は決して見捨てず、孤児にしないことを私は経験しました。二度と再び「キリストから目を離さない」常に神の御声を聴くことを怠らずに天に橋をかけ昇るこのことを心に刻みました。

「人の言葉に振り回されない」けれど人の心の思いを聴く、「人を見ない」けれど人と人との間の神を見る。「人との比較はしない」けれど「そのままの自分を感謝する」けれど、できるように努力をする。「出来たことに感謝」するけれど高慢にならない。

このことが私の祈りとなりました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけなさい」ルカ22:32.この御言葉が心に入って来て、私は力を与えられました。
再び燃えるような信仰が与えられ、「兄弟を力づけなさい」に重荷を負う事を決心し現在の教会に行きました。

信仰が取り戻せないで苦しんでいる友よ。交わりが苦しくて兄弟姉妹を裁かずにはおれない苦しみの中にある友よ。キリストの十字架での「とりなしの祈り」はあなた自身のためにキリストが叫んでいる祈りであることを覚えてください。

霊的な成長は、交わりの中でしか成長はないのです。だから『互いに愛しあいなさい』なのです。人間は罪を犯さずには生きられないのです。赦すしかないのです。「私たちに罪を犯す者を私たちが赦す如く、私たちの罪をもおゆるし下さい」なのです。あなたが赦されたように赦すこと以外に神に近づく方法はないのです。どうぞ神の御声を聴くことを求めてくださいますように・・・お祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 10:28Comments(1)

2012年04月25日

常に備えよ

使徒の働きに学びたいと思います。初代教会は当時の指導層であるサドカイ人たちが治安を維持し、なんとか平安が保たれているうちに確実にその内的生命を育んで行ったのです。かつてキリストが予告したように、使徒たちは議会や法廷に引かれて行き、そこで伝道がなされていきます。

意外な時に意外な方法でキリストの証をすることになります。「常に備えよ」はこういう事でもあるのです。聖書を擁護できる者となる事はキリストを愛する者として当然だと思います。

使徒たちは「癒し」はあなたがたが十字架につけたイエス・キリストの御名によると明言します。「あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった」というのはこの方のことです。と詩編を引用して言います。イエス・キリストが救い主であること「この方以外には、だれによっても救いはありません」と力強い宣言がなされます。

イエス・キリストの人知を超えた神のご計画であった事を訴えます。もちろんクリスチャンは、人々の間に平和をもたらし、偏見をなくし、聞く耳を持ち、心広く生きるべきです。しかし、排他的と見られようとこの使徒4:12の「この方以外には、誰によっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と明言されたキリストへの信仰は、しっかりと守らねばなりません。

使徒たちはキリストの御名によって教えたり語ったりしてはならないと脅されます。使徒たちは、このことでさえも、人々に聞き従うのではなく、神に聞き従うのだと宣言してひるみません。釈放した信徒たちも、今や聖霊に満たされて大胆に祈り、信仰告白するのです。

人の権威を恐れることなく、かと言っておごり高ぶるのでもなく、謙遜に柔和と寛容をもって忍耐の限りを尽くして教え導くのが使徒たちの熱情的伝道でした。初代教会は、人間の力ではなく、聖霊の力によって使徒たちは強くされ、前進して行ったのでした。私たちも聖霊の力を確信し信仰告白し、行動できる者となれるようにお祈りしたいと思います。  


Posted by 金城米子 at 11:05Comments(0)

2012年04月24日

聖書人物物語から~

聖書に登場するアブラハムとロトから学ぶことは何か考えてみたいと思います。ロトは罪深い町と知りつつソドムの町の豊かさに惹かれてソドムの町へ住みます。その後、町の中に住んで戦禍の巻き添えにあいました。この神の警告とも言うべき災禍にも懲りず、その後も彼はソドムに住み続けた。彼は、町の門に座るほどの有力者になっていた。(門は裁判や取引の場です。ここに座るのは長老格です)

彼はこれを主の祝福と勘違いしていたかもしれません。彼はともかく主を信じていた者です(義人)。しかし彼の娘婿たちは不信仰者でした。彼の家族でさえその信仰の実情は讃嘆たるものでした。信仰者が不信仰者たちの中に住むことは証のために必要というのであればロトがソドムに住んだ動機は証しではなくて別にあったという事です。

だから、彼の証は少しも影響力がなく、アブラハムもそれは知っていましたがロトの証によって悔い改めたソドム人が、20人とはいないと思っていました。しかし、事実は、10人すらもいなかったのです。

私は、沖縄の行事と聖書を通して神様に悔い改めを導き、キリストへの出会いのために背中を押しています。これまでにも多くの人の背中を押してきました。私の信念は、決して誰をも裁きません。神がどれほど人々を愛していて、真理の神イエスを道として門に入るのを招いているかを語ります。

その為の伝道の祈りは欠かせません。朝一番に祈り、神様の赦しがあるまでは、祈り続けています。不必要な外出は避けています。数日間も外出しないで祈っている事はざらです。ロトが信仰があったとしても不信仰な人々の中で生活することは祈りが必要でした。「朱に染まれば朱くなる」という言葉があるように罪過の中にいると罪咎である事に麻痺してしまうのです。

人は、認められたいと自分の存在感を欲します。誰にでもある疎外感と自己憐憫は悪魔のエサなのです。ロトが神の警告を無視し、ソドムに住み続けたゆえに、ロトは妻を失う事になり、娘たちも家族離散という結果を招きました。そして、酔いつぶれて娘たちの策略によって罪を犯すこともなかったでしょう。

娘たちとロトとの近親相姦によって生まれた子が後々には背信の民になるアモン人とモアブ人の先祖となることはなかったのです。

しかし、憐れみの主は、後々、モアブ人のルツから選民のボアズとの間に御国を継ぐ者をお与えになりました。ここに偏愛の神の導きを見ることが出来ます。

旧約の時代から憐れみの主は、私たち異邦人へのご計画をもっておられたのです。「神は実に、そのひとり子をお与えになるほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16のみことばです。

旧約聖書を知ることは、真理の神・主イエス・キリストを深く知ることが出来るのです。十字架を語るならぜひ、旧約聖書を忍耐を持って通読して下さいますように・・・お祈りします。

「これはアダムの歴史の記録である」創世記5:1。

歴史=トーレドース(ヘブル語)。生ませしものの意味。この系図は、人類が如何なる計画を持って創造され、罪を犯し、神の裁きを受けて地上に広がっていったか、そしてその中からイスラエルの民が如何にして選ばれたかを示そうとしています。

逆にいうのなら出エジプトの民が始祖アダムとどのような関連でつながっているかを記したものです。それゆえに、イスラエルに直接関係のないものは系図から切り捨てられています。そしてこの系図は民数記を経てルツ記4:18~22とつながり、マタイ1:1~16の系図とつながってイエス・キリストとつながっています。  


Posted by 金城米子 at 10:41Comments(0)

2012年04月23日

人間が音楽器に目覚めたのはいつからなの?

孫たちからの質問でした。彼女たちが突然ピアノとバイオリンを習いたいと言ったのです。私は驚きを隠せませんでした。長い間、主の奏楽者を孫から起こしてくださいと祈っていたからでした。数十年前に買ったバイオリンが寝たままになっていたのでそれを孫にギフトしました。ピアノは教会のを使わせてもらう事にしました。

孫たちから「人間が音楽器に目覚めたのはいつごろからなの?」の質問を受けたので聖書の創世記に出てくるレメクの話から始めました「レメクは二人の妻をめとった。一人の名はアダ、他のひとりの名はツィラであった」創世記4:19です。

アダの子のヤバルとユバルの話をしました。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった」創世記4:20。

「その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった」創世記4:21。

「ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹はナアマであった。」創世記4:22.

「レメクはふたりの妻をめとった」という箇所からも一夫多妻の始まりを話し、この出来事は創世記の2:24の「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである」という神の教えに対しての謀反になった話をしました。

神様は、一夫一婦制を守るように人間に教えました。違反した時から人間は「混乱・無秩序・妬み・嫉妬・敵対心・懐疑主義」になったことを話しました。

孫娘は静かに聞いて何かを感じたらしく「音楽と一緒だね。♬音譜を頼って音を出すことで本当の綺麗な音が出せるという事だね。ルール違反では不協和音で聞く人に平安がないという事だね。神様のルールが守れるようにイエス様にお祈りしなくちゃあねえ・・・・自信はないけれど自覚しよう。自分の力ではできないからね。神様助けて、ってね。悔い改めですってね」と全員は「アーメン」と言い、話は幕を引きました。  


Posted by 金城米子 at 12:51Comments(0)

2012年04月23日

学校生活はどんな?

孫のS君が小学校に入学して間もないころに「学校生活はどんな?」と聞きました。S君はじっとできない子でしたので学校で先生の話をじっと座って聞くことが出来ているのか不安があったからでした。

S君「大丈夫だよ。教会で訓練受けているからじっと話を聞けているよ」でした。

私「訓練?どういうこと?」

S君「教会ではメッセージをちゃんと聞く事、聞いたみことばを覚えて発表するからそれが訓練になっているから大丈夫だよ」

私「S君。教会は訓練の場所になっているの?」

S君「そうだよ。教会は静まって話を聞く訓練。何が正しくて、何をするかを考える訓練。頭で考える場所が教会。暗唱聖句が出来なかった時には罰される。僕はドジだったし頭が悪かったからいつも楽しい事から先生に仲間外れさせられていた・・・」

私「じゃあ、学校はどんな場所なの?」

S君「勉強だけじゃなくて仲良くしたくない人と仲良くするところ、僕の事を解ろうとしない先生の話を静かに聞く訓練の場所」

これが小学校一年生の言う言葉なのかと驚きで私は言葉が見つかりませんでした。彼が言いたかったことは、一方的にしか子供たちを見ることが出来ない教師に対する視線、教師たちの経験による生徒たちへの上から目線のことでした。それでも教師がいう事を教師の心情や思惑を別にしてしっかりと聞くことが生徒としての自分の立場を守る事なのだと孫息子は言いたかったのです。

私はS君が生まれて間もない時期から教会生活をさせていた一つ一つの出来事を思い起こしました。そして、教会学校の教師の責任の重大さを思い知らされたのです。現在は、良かったのかどうなのかの判断は別にして懲罰制度が学校では見直されています。しかし、教会では、カリキュラムをこなせなかった子には、ご褒美は与えられません(お菓子など)・・・

今、S君は教会にくることが出来ていません。祈りの課題でもあります。他の孫たちと教会学校の話をしました。現在の教会は、三度目の教会です。「ゆいまーる教会」ですが私にとっては少し不足もありましたが(笑)今は、感謝で一杯です。

孫たちは、今までで一番癒される。先生の顔を見ているだけで元気が出てくるし、琴美先生は、みんなの話をちゃんと聞いてくれる、しかも興味を持って聞いてくれているのが解かるよ。妄想話にもうまく乗ってくる。でも、それは楽しい妄想だよね?って・・・ね。受けるでしょ?。だから、凄く癒されるし、大好きだよ。最高のカウンセラーだよね」でした。

幼児の心を侮るなかれ!これが私の言いたいことでした。親だけでなく、幼児期の経験が大人になっても影響を残す事を理解してほしいのです。教師の言動が子供たちへ与える影響は、光になるし、影を落とす事もあるという事でした。事故の加害者になりかねない教師役でもあることを知ってほしいのです。神の祝福がありますように・・・



  


Posted by 金城米子 at 07:42Comments(0)

2012年04月18日

幽霊の正体は悪霊?

Bさん「家内が亡くなって7年にもなるけれどサー高生まれの義妹から家内の幽霊が出てきていろいろと支持するらしいけれどそれってあるのですか?」

Bさんからの相談でした。Bさんは一応はクリスチャンです。しかし、霊の事については解からない事があるようで亡くなられた奥さんの実家の義妹さんからずっと幽霊が出てくる話を聞かされて行事を強いられているとの事でした。

私「それは奥さんの幽霊ではないですよ。恐らくその義妹さんと奥様は仲良しの姉妹だったんじゃあないですか?義妹さんの中ではお姉さんの死を受け入れられない痛みがあると思うのですよ。人の心の傷には悪魔は容易に働きますからね」

聖書の中に伝道の書の12章7節に「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る」とあるように人は死んでも地上には残れません。神に帰ると言われていますからね。創世記2章7節に「その後、神である主は。土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」とあります。

土地のちりで人を形造り(古代近東や日本の神話では神と人間とが血縁関係にある場合が多いのですがしかし聖書の人間観は、人間は土のチリからできており、神と人間との間に血縁関係を認めません。しかし、神はいのちの息を吹き込むことによって人をご自身の形に似せて造られた。ここに人間の尊厳性と危弱性が見事に描き出されています(チェーンバイブル注解)危弱性=危なかしっく、もろいこと)。

これらの事から人間の根っこにあるものがいかに人を混乱と恐怖を起こし無秩序にするのか理解できますが人は自分の力では、誘惑にも勝てない、混沌状態から抜け出ることも出来ないのです。噂に流され、思考を縛られ、目を覆われ、闇のものに手を繋がられている歩いていることさえも知らないでいるのです。

「わたしはおまえの子孫(悪魔)と女の子孫(イエス・キリスト)との間に、敵意を置く(何がっても悪魔とキリストとは妥協しない)。彼(キリスト)はおまえの(悪魔)の頭を踏み砕き、おまえは(悪魔)彼の(キリスト)かかとにかみつく」創世記3:15.

頭を踏み砕くは、悪魔とその力に対する完全なキリストの勝利を表します。キリスト者は決して悪とは仲良くなれない、内住する聖霊によって罪を示され悔い改めに導かれます。悪魔は「盗み」「偽証」し「責める」「殺す」です。決して悔い改めません。人の罪を「赦す」と「許容」「愛する」事は、聖書の語っている事です。

  


Posted by 金城米子 at 19:05Comments(1)

2012年04月17日

土曜日の子どもチャーチ

土曜日には我が家は子どもチャーチになります。子供たちは教会と言う意識はありません。「お腹空いた。喉が渇いた」と部屋に入って来る子どもたちのお腹を満たし喉を潤わせて後に子供たちの遊びを静かに見守りながら心の内でこの子たちにキリストを伝える方法を祈ります。

この方法が我が家の子どもチャーチです。家の教会も不定期で訪問者の二ーズに合わせて、まず食事と飲み物を与えて会えなかった間の出来事を聞きます。生活の中での信仰ではなくて、信仰の中の生活へと導く働きが私の家の教会です。

礼拝していると意識は客人?にはありませんが聖書を輪読して、福音を静かに聞き賛美をし、最後に祝祷をしますがコーヒーとお茶は自由に飲みながら気楽にしています。ここでは他者批判や教会批判は全くありません。みんな生きるのに疲れ気味の人たちだけで癒されたい思いで訪問してきますから・・・たった一人のためにも同じことをしています。

先日の土曜日にも子どもたちが訪問してきました。ワイワイガヤガヤの騒ぎの中で私が聖霊に導きを、トイレで祈っているとテレビのスイッチを入れなさいとの思いが来ました。

その番組ではある女性の家に4人を殺害した男が押し入って来たが不思議な方法で殺人鬼を悔い改めに導いた勇気ある女性の番組をしていました。その女性の名前はアシュレーと言い、幼い娘との二人暮らしです。

アシュレーの夫は、4年前にスーパーの駐車場で悪にからまれて心臓を刺されて死にました。彼女は,殺人鬼が押し入った時に「娘のために死ぬわけにはいかない」と命乞いをします。拘束され命の危険を感じながらも冷静な対応をしその殺人鬼を回心させ自首をさせたのでした。

彼女は、リック・ウオーレン著書「人生の5つの目的」の本を読み神様があなたに持っている計画がある事、この状況で出会ったことも偶然ではない事、すべては神様の計画である事をシンプルに語って聞かせたのです。

殺人鬼の男性はアシュレーに対して「あなたは神が遣わした天使だ。」と言って自首することに同意しました。この番組を見終わってから子供たちとディスカッションをしました。

孫娘「あの本は?聖書ではないよね?」

私「聖書を解りやすく書いた本だよ。神様が私たちのためにどんな計画を立てているのかがよくわかる本だよ」

私は本棚から同じ本を取り出して子供たちに見せました。子供たちは本を欲しがりましたが一冊だけなので次回にと言って話を勧めました。

子どもS「でも、自首しても終身刑になったら死ぬまで刑務所でしょ?それじゃあ自由はなくて辛いじゃん」

私「刑務所の中で彼が出来ることがあるんだよ。聖書を読み、賛美をし、他の囚人に対して神様が自分にどのように関わってくれたかを証する働きが与えられたんだからね。彼の人生の目的は、伝道だったこと、しかも、刑務所での伝道師として神に遣わされた事を彼が知るときに彼は刑務所でも喜びを持って生きることが出来るんだよね。終身刑であってももしかしたら出所できる機会があるかも知れないしね。失望することはないんだよね」

子どもR[殺されるかもしれないのにどうして強盗殺人にあんなことが出来るの?」

私「それはね神様を握っている人とそうでない人との違いがあるんだよね。クリスチャンには内住する聖霊があって知恵が与えられることもある。アシュレーは4年前に旦那さんを事件で亡くした悲しみがあったんだよね。でも、それはこの事件の日のためにだったんだよね。被害者側の苦しみと悲しみをストレートに訴えることが出来たんだよね。」

孫娘「『苦しみに会ったのは私にとってはよかったのです』って言う事だね。アシュレーの旦那さんは突然に事件に巻き込まれて死んだけど神様の国で働いているんだよね。死んだままではないんだよねクリスチャンはね」

子どもたちはいろいろと質問攻めでした。最後に私は「あなたたちが一日も早く神様に出会えるといいね。今日は、イエス・キリストという神様と聖書の事が分ったからね。この話を忘れないで家に帰ったらお母さんにお話しして聞かせてあげてね。」

孫娘は「人生の5つの目的」の本を興味深く読んでいて「おばあちゃん。この本が欲しい」と言いました。4月23日の誕生日にギフトする約束をして土曜日の子どもチャーチは終了しました。  


Posted by 金城米子 at 08:55Comments(1)

2012年04月15日

職場での嫌がらせにうまく対応して

嫁の話です。職場でいつも嫌がらせする人に言われたそうです「私はあなたが嫌いで気に入らないのよね」その女性に対して嫁は「そうなの?私もそう思っていたのよ。同じ気持ちだったのね。私達って気が合うんじゃないの?」でした。

相手はそれから嫌がらせが無くなったそうです。どう思いますか?孫たちに言わせれば「おばあちゃんもほかの人とは全然違ってポジティブだけど、ママもほんとに凄いよ。頭の切り替えが早いし言葉で人を傷つけないようにしているけれど仲直りも上手だよ」です。

私の口癖は「十字架の縦は神と自分との長い関係を象徴しているけど横の短いのは人間同士の関係を象徴していると言います。人間の齢は、頑張っても70~80年だからね、短いよね。短い人生をネガティブに生きてもしょうがないでしょ?人生は思いっきり喜んで生きる事だよ。神様は私たちが楽しんで仲良く生きていくのを喜んでいるのだからねです。

持病があっても感謝、貧しさも感謝、出来損ないの自分にも感謝、神様は不足も不出来も万事を益にして下さるんだからどんな時にも感謝でいるといいね。職場や学校で嫌がらせがあっても悲しいけれど感謝の祈りで乗り越えられると良いよね
クリスチャンはどこでもいじわるする人に出会うからね。ドンマイドンマイ。キリストオンリーだよね。ハレルヤ」という私に孫
たちは苦笑して「アーメン」でした。

「また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出た事です」ピリピ1:28  


Posted by 金城米子 at 20:52Comments(1)

2012年04月14日

会話が通じる友を感謝

友人から食事に誘われました。末子が体調を崩しているためにデイサービスには行けないので自宅療養だったので彼にやんわりと断る事と祈りに覚えてほしい事を合わせて彼のセンスに期待して言いました。

私「今は息子と一緒にバビロンにいるの。捕囚の民になっているよ」

F兄弟「捕囚の民って?なんでバビロンなの?」

私「バビロンだと希望があるでしょ?帰還できる日程も礼拝のための神殿も城壁も見える。でも、エジプトじゃあね。400年の奴隷生活になるでしょうが・・・」

F兄弟「それってなんの話?」

私「今の私の状態の事を言っているの。城壁造りを手伝ってね。じゃあ、ありがとう、また次回にね。帰還したら誘ってね」

F兄弟「・・・食事や買い物はどうしているの?大変じゃあないですか?」

私「御心ならエリヤのカラスをってお祈りしているしね。忙しいんだからね。バビロンとサレプタとイスラエルをワープしているんだからね」

電話を切って30分ほどして玄関をとんとんとノックの音、ドアを開けるとドアの前に食料と飲み物が置かれてあり、書置きがありました。「エリヤのカラスより。息子さんの癒しを祈っています。祈りは積まれていますからね。城壁はクリヤですからね。アーメン」  


Posted by 金城米子 at 08:37Comments(0)

2012年04月13日

ジーハードに勝利して・・・

三日三晩、カウンセリングしているH子さんからのSOSのメールと電話が三分おきにありました。事情が理解出来ないので私のほうから電話を入れても電話がつながらず夜中もずっと一方的にメールと電話ストーカーされていました。

今朝、彼女は精神安定剤を処方してもらうために病院に来ていると言いながらも相変わらずSOSのメールと電話です。
とりあえず時間を作って病院へ訪問して話を聞くことにしました。要するに彼女は彼女の事業所の所長に携帯電話を無理やりに取り上げられて勝手に使いたい放題されているとの事でした。

電話料金の請求が自分のほうに来て困っているとの事だが所長が尋常ではない人格者なので関わりたくないと言う彼女はどうして良いかわからないとの事なので「あ、そう。分った、じゃあ早く車に乗って」と声をかけて近くのAUショップに行き、機種変更の手続きで問題は解決です。

H子「こんなに簡単に解決するなんて、それに誰ともトラぶらないで出来るなんてやっぱり米子さんだね」

私「何も感心されることじゃあ無いさあね。普通に生きている人なら、常識だよ。マイナスな人と解かったらさっさと捨てること。関わらない事、非常識な事、犯罪まがいな事を平気でする所長とは関わらないで何も言わないで機種変更して忘れる事だよ。」

H子「仕事が失くなったらと考えたら頭が混乱してしまって・・・」

私「あなたの職場の所長はジーハードだから、ジーハードには自分からは飛び込まない事、分かった}

H子「ジーハードって?」

私「関われば自爆テロにされるってことよ。自爆したくなかったら関わらない事よ」

ようやく三日間の戦争に終わりが来ました。今晩からはゆっくり眠れるかなあ・・・主よ。憐れみを感謝します・・・  


Posted by 金城米子 at 22:40Comments(0)

2012年04月13日

地域に希望の花を咲かせよう・・・

桜祭り、本土では友人、知人がそろってお弁当を持ち寄って桜の花祭りを楽しみます。でも、沖縄では歩きながらで終わってしまう。イベントなど屋台での楽しみも遠出しなければならないのが実情です。私は体の不自由な息子が遠出は無理があるので花見などは楽しめないのが現実です。

私は、山内牧師と地域に貢献する教会を目指すなら教会の周辺に桜や季節お花を植えてほしい、コスモスには「小さきは小さきままに、折れたるは折れたるがままに」と言葉を入れて、聖書の御言葉も花畑に入れて、花見見物にお年寄りや周辺施設の方々を招待したりするのも一計でしょうね。

そして、教会員が車いすや80代以上の視覚の目の不自由な方々の体験をしたりのイベントを持ってみるのも良いのではとこれからの教会の在り方を話し合いました。キリスト者が自己憐憫になってばかりでどうするのでしょかね?

社会は厳しい状況になり、巷では多くの人々がメンタルケアを必要としている時代に突入しているにもかかわらず、クリスチャンがいつまでも自己憐憫の状態から抜け出せないのもおかしいので問題はあっても他者を顧みることが出来るように弟子訓練に重きを置いてほしいです。

黙って聞いてくれていた山内牧師は、そのために共に祈り、啓蒙啓発のために動く事も山内牧師の召命であることを語って下さいました。この先生となら教会を通してキリストの枝としての実をつける働きが出来ると熱くなりました。

教会が地域の人々に希望を与えなければ情熱の火をつけなければ誰がするのですか?教会が火付け役になって地域に就労の場も与え、地域のニーズを祈りで支え、目に見える動きもするのです。五月にはゆいまーる教会の敷地内に保育園を設立します。保育士の就労者の税収が与えられます。

保育園児に対しておばあの私が出来る事は沖縄方言を教えます。昔、おばあたちが語ってくれた物語や聖書物語を方言版で語りたいと思っています。夢が膨らみます。平日には、教会でお年寄りのために拝みの風習を聖書に移行していく話を語りたいと思っています。

神様の導きを感謝します。神が語られた神の自己啓示は、必然的なものではなくて主イエス・キリストの主権的恵みに基づくものであることを昼も夜も教会に身を置いて語り続けたいと願っています。神の恵みは、自然の中において(詩編19:1)人間の良心の中に(ローマ2:15)受肉されたみことば主イエス・キリストの中に啓示された(ヘブル1:1・21)事を分りやすくかみ砕いて語って行きたいと思っています。ウチナーンチュには、すぐに理解できると確信しています。アーメン  


Posted by 金城米子 at 20:44Comments(0)

2012年04月12日

キリストに出会った人々

新約聖書に登場するパウロはダマスコでキリストに出会いました。(使徒9:3~5)キリストとの出会いはパウロが殉教するまでにキリストに喜んで服従する伝道者と立てられ、神と人々にキリストの愛を持って仕える人に変えられました。

キリストに出会った人々は世界中にいます。キリストと出会った人々の多くが名もない人々です。キリストに出会ったからと言っても彼らの人生はバラ色になったという事ではないでしょう。しかし、彼らは完全に変えられたのです。揺るぐことのない信仰と信仰に基づく愛の人に変えられたことを確信します。そして、全てのキリスト者にある「平安」が彼らのうちにも与えられているのです。

「わたしはある」と仰ったイエス・キリストに出会った私に主は、ヨハネの福音書を勧めました。高慢な私への学問の勧めが「ヨハネの福音書」でした。キリストに出会うまでは罪悪感で押し潰され壊れた私がいました。「死」がすべてを解決するのではなく、死後の世界が永遠にある事はユタの時から確信はしていました。

ですから母子心中事件は、私自身の霊が地獄での苦しみを永遠に受けることになることを覚悟しての事でした。この地上での生活では真理の神を見ることが出来ないのなら生きていても希望がないと言う絶望感でした。私の人生は初めから「神がいなければ生きてはいけない」という刹那的な人生でした。

大罪人の私がどのような死に方をしても(自殺や自然死)天国へは行くことはあり得ないと思っていました。聖書は救いについてキリストの心と不変の愛、偏愛の神を私にはっきりと示されました。

ヨハネ8:15「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしは誰をも裁かない」

(神を知らない人々は、外見や一面的な人間的な基準で他者を判断するけれど、イエス・キリストは、世的な基準で人を判断したり、裁いたりはしないことを仰っているのです。イエス・キリストがこの地上に来られたのは人を裁くためではなく救うために来られたのです)

ヨハネ8:24「だから、あなたたちは、自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである『わたしはある』という事を信じないならばあなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」

(このみことばはイエス・キリストを抜きにしては罪の暗黒から逃れられないことを示されました。キリストを信じる以外には罪の赦しを得る方法が他には全くないこと。罪を赦されないままで死ぬ者が天国に入る事は絶対にないのです。もしあなたがたが「わたしはある」という事を信じなければあなた方は自分の罪の中で死ぬのです」とここでも神の神性を主張しておられるのです)

「初めからあなたがたに語っている通りです」ヨハネ8:25   主は約束のメシヤだったのです。アーメン






























































































































































































  


Posted by 金城米子 at 14:58Comments(0)

2012年04月11日

幽霊噂?

「幽霊が出るって噂のビルがあるけれどお墓を撤去した後に建てられたビルだからって見た人は言うけれどね。どう思う?」と数十人の方々からの情報と質問を受けました。私も何度もそのビルへは足を運んでいます。それで私は、幽霊に遭遇した人たちは幽霊に何か頼まれたのかなあ?と聞き返しています。

私「何の用事もないのにただ出てくるわけ?」

噂は噂でしかない事を話しました。人には思い込みがあり、前情報がありますからね。そのビルの場所が墓地の後だと誰も知らなければ噂にはならないのです。誰もですよ。悪意と言うのは、悪霊と一緒です。誰か一人でも情報を持っている人があれば必ず幽霊や事故現場に出てくる幽霊話も広がって行きます。

人の心は不思議な力を持っていることを知っていますか?人の心の中には、天国を引き寄せる力もあり、悪魔を引き寄せる力も備わっているのです。幽霊や悪霊にはまず関心を持たないようにして下さい。私は孫たちが学校で聞いた噂話を持ち帰ると注意をします。

「そんな話には興味を持ってはいけないよ。そこに心が行くと闇の力に支配されるようになるからね。それは悪魔の罠だよ」と・・・

恐怖、災い、分裂、破壊、悪意の噂などを持ってくるのが悪魔の力なのです。幽霊はいません。子供のころから幽霊と遊んでいた私が言うのですからおかしいかも知れませんが幽霊はいません。幽霊の正体は悪霊です。事故現場に出てくる者も幽霊も悪霊です。同じ事故が起きるのは、道路状況や天候やその本人の心理状況によるものです。
人は死んだら神の定められた場所に行きます。(伝道の書12:7を参照)

悪霊の力は、その人の持っている心の傷や自己憐憫、疎外感、疑心暗鬼、高慢、傲慢には非常に密着して働きます。悪霊を引き込むのはその本人の傷なのです。

神様と断絶させ人を滅びに至らせるのが悪魔の目的ですからね。人の心は広くて大きな門に流れて行きやすいです(安易に自分自身を受け入れて、スペシャルな人であるかのように扱ってくれる世界)

占い師も教祖もユタも「飴とムチ」を上手に使い分けますからね。居心地よくさせて持ち上げて迎えます。「霊感があるから素晴らしい、神様と先祖から選ばれた人があなたなのですよ」「あなたじゃあなければ出来ないのです」と妙な使命感で追い込むのですね。

大切な事は、「感謝の心」「祈り」「使命」を知って生きることです。

謙遜で柔和で洗練された人ほど多くの感謝を持っています。幸いな人、平和を愛する人、他者のためにも「祈り」の出来る人です。

この世での「使命」感をもっている人は、自分にできる限りの事で社会への貢献を望んで生きています。どのような些細な事でも良い自分にできる事で貢献しようと動きが見えます。

私の近くの人に団地が出来たころから一人で清掃をし、花を植えて手入れをしている男性がいます。彼は、「ここを通る人の目を喜ばせることが出来ればと思っています。退職してから自分がみんなのために出来ることはこれくらいしかないので、でも出来ることが感謝ですよ」と話されました。

思考や視点を変えて光に向かった時に私たちは真理を行うことが出来るのですね。闇の持つ力に招待されて喜ぶ者にならずに「世の光・地の塩」になれるように人生を導く「使命」を持って生きる幸いを知ることが出来ますように祈ります。

「もし、あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる」イザヤ58:9~10  


Posted by 金城米子 at 10:32Comments(1)

2012年04月10日

祖先崇拝・ユタ問題公開講演会

「闇から光へ」

先の 那覇聖書研究会主催の基で行われました。お証から


なぜ私はユタからクリスチャンになったのか


四、五回目のUP

http://youtu.be/4uyoQA85Dps

http://youtu.be/NcOY0X9S6Bc

  


Posted by 金城米子 at 07:14Comments(0)キリスト教

2012年04月09日

祖先崇拝・ユタ問題公開講演会

「闇から光へ」

先の 那覇聖書研究会主催の基で行われました。お証から


なぜ私はユタからクリスチャンになったのか


三回目のUP

http://youtu.be/uFWXXqFdHuM


更に、続きは次回に・・・・・・  


Posted by 金城米子 at 23:43Comments(0)ユタ時代(サタンの働き)

2012年04月09日

祖先崇拝・ユタ問題公開講演会

「闇から光へ」

先の 那覇聖書研究会主催の基で行われました。お証から


なぜ私はユタからクリスチャンになったのか



http://youtu.be/RKBb5c4_IgE


http://youtu.be/-FgB6yq6dYM


続きは次回に・・・・・・  


Posted by 金城米子 at 23:38Comments(0)ユタ時代(サタンの働き)

2012年04月09日

誰が偉いのか?

一番上の孫の入学式に出席しました。帰りに昼食をと誘ったら嫁っこがいったんは「帰宅してラフな服を着なくちゃあ」と言うので夫である息子が「どうして着替えないといけないのか」と聞いたので「だって、この服で食事をしたら服がパンクしちゃうでしょ」に「お前なあパンクする前に食べるのをやめればいいじゃあないか」と彼女の夫・・・

嫁っこは「そんなあ・・・ねえ」と私にSOSを求めたのでいったんは帰宅を決めて車中での会話をしながら昼食を買って帰宅して子供たちと一緒に家で昼食をすることになったのだが・・・

私「ねえ。あなたは今、会社での役職は何?昔は主任だったけど今は何?従業員?」

嫁っこ「会社員だよね・・・?ところでお父さんは何しているの?」

息子であり夫のK「一応は課長代理だけどね。」

私「主任と課長とどっちが偉いの?」

息子であり夫のK[課長じゃないかなあ・・・ふつうはね。」

嫁っこ「何で、代理なのめんどくさいよね。代理はやめて課長か部長になれないの?」

息子であり夫のK「代理でいいんだよ。残業手当がなくなるんだよ。長になるとね。逆に月収が減るんだよ」

嫁っこ「今でも会社人間してるのに長が付いたら割が合わなくなるんだったらすれすれで良いんよお父さん」

私「人間は高いと風当たりが強くなるし、ハリケーン人間になったら見渡す限り渦巻人生だしね」

息子であり夫であるK「二人と話していると俺の頭が洗濯機状態になるよ。会話が意味わからん」

嫁っこ&私「大丈夫よ。クリーンな人生。悪と罪の刈取りのない人生だから最高よね。仕える者が偉いのですだからね」

息子であり夫のK「・・・」

平凡が一番という意味でしたが私と嫁っこの会話は、Kには理解不能だったようで・・・

嫁っこ&私「はい。仕える者が偉いのですが言いたかったのです」

「あなたがたの間ではそうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい」マタイ20:26  


Posted by 金城米子 at 17:39Comments(1)

2012年04月09日

あの星を見てごらん・・・

働きに出ている母親のために孫が家事を手伝う事と春休みの宿題?に取っ組んでいる所へ帰宅した母がベランダへ出て声をかけたのは「ま~ゆ。空の星を見てごらん。あの夜空の星を見たら宿題なんかもう、どうでも良くなるでしょ?」だった・・・

周囲の教育ママの渦に巻き込まれることなく、塾に行くのも止めるのも本人の意思を尊重して自由奔放に育てている肝っ玉母さんよろしくの嫁のK子と子供たちのトークには、いつもホンワカ気分を味わっています。

家庭はどこまでも家庭で家族はどこまでも家族であり続ける息子たちの関係は崩壊と言う言葉とは全く無縁で「城壁の家族だね」と言う私の言葉に(それ、今度は誰の名が飛び出すかな・・・)と興味津々な真顔を尻目に私は自分の聖書界の中に突入した。

城壁を積み上げるという事は聖書のネヘミヤの物語の話であるが比喩的には、祈りを積み上げるという事です。嫁のK子もその夫は私の息子のTですがこの夫婦は生まれる前から(多分)家族という枠とは無縁な中で生まれ育ったのであろう・・・

この夫婦の中には、家族の絆が祈りだったのかも知れないと思われます。親子、夫婦間の会話をとても大切にし「ほうれんそう」の家族と私は呼んでいますけれどね。ほうは報告、れんは連絡、そうは相談です。会社で出世する方法はこのほうれんそうを守ることだと聞いています。

孫たちに聞いてみました。「パパとママとは、どんな関係でいたいかなあ・・・」すると孫たちから「絶対にどんなことがあっても敵にしたくにない大切な家族」と答えが返ってきました。この夫婦の城壁の祈りはしっかりと積まれているようです。

今晩あたりは★空を満喫して見ようかなあ・・・アブラハムの星のように増える子孫とネヘミヤの城壁の祈りにハレルヤと賛美の手を挙げて・・・  


Posted by 金城米子 at 16:30Comments(1)

2012年04月07日

本性ってどうやって知るの?

「本性をどうやって知るの?」お見合いを勧められた32歳の女性からの相談でした。彼女はユーモラスの人なので私の意図を理解してくれると思ったのでストレートに聞きました。

私「あなたはこれまでの男性歴なしの数十年間は、尽くしたいと思う人には出会えなかったの?」

D子「そうねえ。いい人だねと思っても付き合いたいって思わなかったです。」

私「それはどうしてかしらね。きっとその時には、たくさんの可能性があると思っていたからかも知れないね。でも、女には子供を産む時期があるので少し焦りが出てきたのかあ・・・」

人間の本性なんて同じ釜の飯を食わなければ解からない、10年間一緒にいても解からない場合もあります。最低限譲れないもの許せない事が譲れる、許せるようになるのが結婚生活を継続する事かも知れません。

私の近所にいた母方の叔母は、因習に縛られている家に嫁ぎました。男子継承を守り続けた家系ですから叔母は女の子を5人続けて産んだものですからお姑の嫁いびりは傍目にも辛いことが分るほどでした。

まるで家畜扱いでした。そのうちにある日、叔母は念願の男子を出産しました。その日を境にお姑の態度が180度変わりました。二男が産まれた時には、お姑は「これでOO家は安泰だね。あんたもようやくこのOO家の家族になったね」でした。

叔母が私に言ったことは「私はね、ずっと我慢してきた。あのお姑に負けたくなかったからね。でもね、一番許せないのは夫のTだよ。私はTのご飯を食べるときの箸の上げ下ろしも口の音も体中の毛が立つほど嫌いだよ。触られるんも嫌だったけど男の子を産まなければと意地になっていた。これからはゆっくり復讐して行こうと思っているよ。楽しみが出来たよ。お姑はこれから年を取る一方だからね」でした。

まだ、10代の私はこの叔母の形相を忘れることが出来ませんでした。この時に嫁姑問題は根が深い事、夫婦には倦怠期が必ず起こること、それでもそれらを踏み越えなければ結婚生活は維持できないのだと悟りました。

年老いたお姑は、叔母に思いっきり気を使って生活していることが数十年後に分りました。クリスチャンになってからその叔母の家を訪問しました。お姑さんは90歳を超えて私の事も理解できずにいました。

私は叔母に福音を語りました。私より5歳しか上ではなかったので年齢差は感じなくなっていました。お姑に仕えているときにはとても年上のお姉さんに見えたのですけれど・・・

福音を受け入れた叔母は、今現在は、お姑さんは一年後に亡くなりましたが叔母は、亡くなる前にお姑を赦して介護できたことを感謝していました。

お姑と夫に対する許せない心で叔母は、趣味に走り、その道を究めましたが競争世界で心の平安はなかったそうでそんな時に私が訪問してきたことに不思議な思いを感じたそうでした。

現在は趣味の教室の先生をお休みして、病床のご主人を娘たちと助け合いながら介護しています。5人の娘たちが集まった時には、ひまわりの花畑を見るようだと話していました。

結婚生活は、バラ色人生ではないけれど継続したら大輪の花を咲かせた喜びを子供や子孫の上に見ることが出来るかも知れないとD子さんにこの話をしました。  


Posted by 金城米子 at 09:45Comments(0)