てぃーだブログ › スピリチュアル › 2017年10月

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Posted by TI-DA at

2017年10月18日

自給伝道者

皆さんは自給伝道者と言う事を聞いたことがあるでしょうか?私はこの言葉を聞いた

時に心が躍りました。私は伝道者学校を二年で卒業して神学校を出ましたが学びは、

確かにプラスにはなったのですが私が望んでいる伝道者のイメージがどうにも既存の

教会での考えとは折り合いがつかなかったのです。クリスチャンになってから息子を

支援学校に送りだしてから、帰宅する間際まで、試行錯誤しながら私は、一人で家庭

訪問をし、友人宅や知人に道行く人にも福音を伝え歩いていました。そん時に牧師から

聞かれたことですが「米子さんは、伝道師として生活の保障をしてほしいの?」とありま

した。驚きと怒りがわきました。私の中では主の働きをするのには自分の生活の保障の

ためではなく、主を愛するが故の働きだと信じていましたし、主に全く忠誠を尽くせば必要

の全ては満たされるとと言う信仰ですから、そこで出会った自給伝道者の言葉にさらに燃

える私でした(笑)エレンGホワイトの著書から紹介します。

「自給伝道者」エレンGホワイト

自給伝道者は多くの場所で成功することが出来る。使徒パウロが全世界にキリストの

知識を広めたのも自給伝道者としてであった。彼はアジアとヨーロッパの大きな都市に

毎日福音を宣べ伝えながら、自分と共労者を支えるため、職人として働いていた。

エペソの長老に対するパウロんの別れの言葉は、その働きぶりを物語り、全福音伝道

者に尊い教訓を与えている。「彼らに言った。『わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた

最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存知である。

すなわち、・・・あなたがたの益になる事は、公衆の前でも、また家々でも、すべてあます

ところなく話して聞かせ、また教え・・・わたしは、人の金や銀や衣服を欲しがったことは

ない。あなたがたが知っている通り、私のこの両手は、自分の生活の為にも、また一緒に

いた人たちのためにも働いて来たのだ。わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者

を助けなければならない事、また、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた

主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事ついて教え示したのである。」

(使徒行伝20:18、20、。33:ー35)

今日、多くの人がこれと同じ自己犠牲の精神にあふれているならば、同じように良い働きが

可能である。ふたりまたはふたり以上で伝道の働きに出かけなさい。人々を訪問し、祈り、

賛美し、教え、聖書の説明をし、病人に奉仕しなさい。ある者は文書伝道者として自らを支え、

そのほかにもパウロのように何かの手仕事をし、あるいは別の働きをすることが出来る。

自己の無力を認識し、神に謙遜に頼りつつ、その働きを進めて行く時、尊い経験が与えられる。

主イエスは、こうした人の前に立ってその先に行かれるため、貧富を問わず、人々から行為と

助けを受けられるのである。

賛美の家ではキリストの心と弟子たちの従順の姿を通して私たちの歩みに力を与える学びをし

ています。キリスト教えと弟子たちの心の動きがとてもリアルに解り、楽しくなります。

毎週日曜日 午前10時半~12時迄 美味しいカレーを準備しております。

賛美の家 西原町我謝123番地 電話 090-9782-1946 金城米子迄。
  


Posted by 金城米子 at 08:54Comments(0)

2017年10月16日

喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。

主イエスは「喜ぶ者と喜び、泣く者と泣きなさい」と仰っています。よろぶものと先に

言っておられるのは、私たちは、他人の上に起こる祝福を素直に喜べない心があ

るからだと思わされます。例えば、自分の子供と隣の家の子供が同じように受験し

て自分の子が落ちて隣の子が合格した時に素直に本当に喜べるでしょうか?

不妊症の女性が親友の女性に次々と子供が生まれた時に出産を喜べるでしょうか?

私は親友だったのに親友が幸せな結婚生活をいつも自慢げに話しているのを聞く度

に心が痛くなってその親友から遠ざかってしまった経験があります。私の結婚生活は

悲惨だったからです。妻思いの夫とお利口の娘さんたちとの何不自由のない暮らしを

している彼女が羨ましくて眩しかったからです。顔で笑って心で妬んでいました。(笑)

「泣くものと共に泣きなさい」は、私たちは人様の悲しい話を聞いてもすぐに理解します。

ニュースなどで他者の災害や不幸を見聞してもすぐに同情出来ます。しかし、その事に

対してすぐに援助の行動にうつすことが出来るはそう多くの人はいませんし継続も出来

ないのです。「可哀想」という事は出来ますが継続しての支援は出来ません。

私たちの心に常に寄り添って必要を満たして下さることのできるお方がいます。そのお方

のお名前がイエス・キリスト唯一お一人です。目には見えませんが主イエスは、御言葉で

私たちを祝福して下さり、嘆きの時は、必要な人を傍に寄り添って下さり、励まして下さいます。

みことばで心を励まして立ち直らせて歩ませてくださいます。主は生きて働かれる神です。

イエス・キリストは私たち信じる者たちの為にお祈りしておられる事があります。私たちが

キリストの実をつけるようにとお望みでおられます。それが「愛・喜び・平安・寛容・親切・

善意・誠実・柔和・自制」と言う実をつけるようにとのことです。その実がキリストの神格です。

キリストに似た者となれるようにと私たちが臨んだときにそこには、疑心暗鬼もなく、妬みも

ありません。忍耐が与えられて親切にする事にも飽きません。他者の幸福を心から喜び、

自分の不幸や災いが起きてもキリストを見上げ感謝する心が与えられるのです。

「わたしが与える平安は世の誰がも与えることが出来ない平安です。」と主イエスは平安を

あたえます、。苦悩の時には「私の名を呼べ」とあなたがたにも御声をかけておられますよ。

賛美の家  金城 米子 098-9782-1946

  


Posted by 金城米子 at 09:30Comments(0)

2017年10月06日

クリスチャンは泣き人の一隊ではない。

イザヤ58:5-7。(エレンGホワイトの著書より)

「私たちには感謝すべきあらゆる事があります。クリスチャンは葬式の行列における

泣き人の一隊と同じように行動すべきではないのです。クリスチャンは葬式の行列に

おける泣き人の一隊と同じ行動をすべきではないのです。神はそのような事をご自分

に従う者たちに要求されていません。彼らに荒布を被り、灰をかぶる事をお求めになっ

ておられません。

「このようなものは、わたしの選ぶ断食であろうか」と主は尋ねられる。「人がおのれを苦

しめる日であろうか。その頭を葦のように伏せ、荒布と灰とをその舌に敷く事であろうか。

あなたは、これを断食ととなえ、主に受け入れられる日と、となえるであろうか」。神はどの

ような断食をお選びになるかを、我々に告げておられます。「わたしが選ぶところの断食は、

悪の縄目をほどき、くびきの紐を解き、しえたげられる者を放ち去らせ、すべてのくびきを

折るなどのことではないか」。これが神が我々に守るようにと望んでおられるところの断食

です。これらの言葉の中に、我々の義務が要約されています。神は何処に我々の宝を置く

べきかを示されています。貧しい者や苦しんでいる人を助け、克己と自己犠牲の道をたどる

とき、私たちは神の御座の前に宝を積む事になるのです。

私の証しです。「毎朝のデボーションの集会での事した。ある牧師が『一週間の断食祈祷会に

参加を勧められたのですが僕は今、持病があって定期薬を飲んでいるので不安な事を話した

ら『信仰によって参加しなさい。一週間くらい薬を切らしたからと言って死にませんよ。だいたい、

牧師が病院や薬に頼るのはおかしいですよ。』と言われたんですよね。お祈り下さいね」と言わ

れましたので私は断食祈祷したからなんだって言うの?おかしいんじゃあないですか?だいたい、

医者も薬も病院も神様が『良し』として置かれているのじゃあないですか?」と言いこのイザヤの

58章7節のみことばを示しました。未熟な者で解説は上手くできなかったですが最近になって

エレンGホワイトのこの箇所の解説に出会って感動を覚えています。小さな証しと大きな解説を

主に感謝します。イザヤ58章は私が神学校に行く事を主が良しとするなら、主が私にお望みに

なっている事があるのでしたらみことばを下さい。と祈って与えられた聖句でした。感謝❤
  


Posted by 金城米子 at 10:13Comments(0)断食論争の中で・・・

2017年10月02日

個人的宗教の真の精神とは?

キリスト教会も牧師も数多くいます。私は神学校を希望して祈った時に主に祈りました。

「主よ。あなたがキリストを愛する者としての私に臨んでおられることを教えてください。」

イザヤ書58章が示されました。下記はエレンGホワイトの注解書を引用したものです。

イザヤ58章は「現在の我々の働きは、人々を覚醒させることである。サタンは全ての悪天

使と共に大いなる力を持って、神の働きを邪魔するため、考えられる限りのあらゆる欺瞞

を持って働こうとして降りてきている。主はご自分の民への使命を持っておられる。この

使命は人が受け入れても拒んでも、もたらされるであろう。キリストの時代のように、闇

の力の深い企てがあろうが、その使命は、神から離れ去っている人々に対して、平安が

ないのに「平安、平安」と叫ぶなめらかな言葉や、あるいは耳に心地よい演説で包み隠さ

れてはならない。「我が神は言われる、『よこしまな者には平安がない』と。この章全体を

地上歴史のこの時代に生きている全ての人々にあてはめることが出来る。この章を注意

深く考慮しなさい。何故ならそれらは成就するからである。

58:1-4「イスラエルの罪は今日の罪」であるとの啓示もある。」早く言えばクリスチャンは、

世の人々に神の義を現す使命と偶像崇拝にいる人々を真理に導く働きがある事です。

「見よ。あなたがたの断食するのは、ただ争いと、いさかいのため、また悪のこぶしを持って、

人を打つためだ。~」

「私が選ぶところの断食は悪の縄目をほどき、くびきのひもを解き、虐げられる者を放ち去らせ、

すべてのくびきを折るなどのことではないか」イザヤ58:6。

教会によってはくびきをつけて縛り、虐げられている者たちを更に苦しめているクリスチャン達もいます。

願わくば主イエス・キリストの愛で世の人々を真理に導くクリスチャンであってほしいと祈ります。  


Posted by 金城米子 at 18:59Comments(0)