てぃーだブログ › スピリチュアル › 2014年10月

【PR】

  

Posted by TI-DA at

2014年10月25日

へりくだった時にうつから解放された

教会生活の中では、色々な出来事がありました。「自我に死ぬ」事の意味も分からないまま言葉だけが先行してしまっていました。みことばを蓄える事が勝利なんだと自分勝手に思い込んで熱心に聖書を読み、みことばで相手を裁いていました。

周囲のクリスチャンは10年以上の選手であり、私はまだまだベビークリスチャンだという思いがあって聖句も聖書解説も当然なことながら私より以上に出来ていると思い込んでいました。その勘違いと思い上がりが他者を平気で裁くようになっていました。

☆沖縄では「サー高生まれ」という独特な呼び名があります。霊的過敏症な人のことを言います。人の心のうちにある闇には非常に敏感に反応します。悪霊・人の霊・諸霊に対しての過敏症だと言った方が解かりやすいかも知れません。

☆ノロやユタ・イタコ・口寄せ・占い師には多いです。その家系にも多くいます。雑草の花は咲かすことが出来るが高価な花は咲かす技術も生かす忍耐も細心さもありません。本人のせいではないのに実に気の毒です。(:^^:)

「さー高生まれ」を特別扱いする一般の人とは違うという認識があるのがこれまた厄介で登校拒否・職場放棄・出社拒否などが赦される沖縄社会です(:--:)聖書を知ればそれが間違いで悪魔の罠だと言うことが解かります。

しかし、自分の非は解かっても直せないと思い込んでいるのも事実です(:><)自分の悪い境遇は親のせい、育ちや環境のせい、こういう体質だから遺伝だから・・・「ノンクリスチャンとの交わりは心穏やかにできる。彼らの方がクリスチャン的だから」との思いがいつもあります。

☆教会は確かに性格の軌道修正所でもありますからぶつかったり、削ぎ落しあったりと痛みを覚える部分もあります。「それでも彼らを赦し、わたしがあなたがたを愛したように彼らを愛せますか?」が教会の兄弟姉妹の関係なのです。☆それらのことが教会生活の中でゆっくりと理解でき、「人が自分よりも偉く」思えてくるのです♬それがへりくだりです。

神を畏れる事がへりくだりです。赦すことも裁かない心もへりくだりです。たとえ、不条理、不合理なことがあっても人にぶつけるのではなくてヨブのように神に感謝の祈りをささげる、人の罪を見た時にも誹謗中傷された時にもモーセのように地面にひれ伏して「とりなしの祈り」ができるかが神からの訓練なのです~♬\(^^)/♬~☆~♬~(^^)~♬~☆「赦す」「受け入れる」「愛する」「とりなす」・・・

神が私たちに望まれている事なのです。この訓練は教会を離れては出来ません。赦せない人と否が応でも毎週必ず会わなければならないからです。これらのことが理解でき受け入れることが出来た時に私は三年半のうつ状態から解放されました。\♬(^^)♬/教会でしか実践できない「隣人愛」をあなたは受け入れて下さい。☆愛するY姉妹がこのことを受け入れる事を心からお祈りしています。シャローム♬  


Posted by 金城米子 at 04:27Comments(0)

2014年10月23日

神に向いて生きている人・水谷修先生

数十年前に水谷修先生のDVDや本などを懇意にしている方から提供
されて拝聴・拝読させて頂いていました。

「偉い難儀な事をよう頑張っている人ですね。」と言うのが正直な気持ちでした。

先生がカトリック教徒であられることもご存知あげていました。
カトリックの教理は良く知らないので神の家族の兄弟である
ことを別段気にもしていませんでした。

私の心の中にはマルチンルターの宗教改革の教えが入っていた
せいもあったかもしれませんがプロテスタントの教理を握っている
自分たちの方が神の教理を全うしているとの高慢がありました。

マザーテレサやカトリックには多くの素晴らしい信仰者がいます
ことも認めてはいましたが本当に不足な者でございます。

そんなこんなで月日も過ぎて行き、ラジオ放送がきかっけで「ドラッグ
からの解放」という講演会にお招きいただき水谷修先生の講演を拝聴
させていただきました。講演後には同席させてもらい交わり会に加えさ
せていただき感謝な時間を共有できました。

水谷先生を見ていて久しぶりに心洗われる思いになりました。
正直に生きていて先生の中には一点の曇りも感じられませんでした。
不思議な思いになりましたが先生の中に世人に対する深い憐憫の情を
持ち合わせておられる方だなあと頭が下がりました。

水谷先生は、四度も癌で手術入院の経験があり、胃の摘出手術をして
いますので胃がないので食事が出来ません。病を乗り越えて、
それでも多くのさ迷える居場所のない子供たちの為に26年間の「夜回り先生」を
継続しておられます。

講演の中で先生は仰いました。「愛していると言っても人の人生は変えられない」・・・
聖書の中に「信仰は実践であり、実践無き信仰は信仰無き者である」との教えがあります。

先生がドラッグ依存症の子供たちにも健常な子供たちにも教えられている事が聖書の
実践なんだと伝わって来ました。聖句は語らなくても先生から流れて来るものが下記の
聖句でした。先生は聖書を実践しておられる方なんだなあとしみじみ考えさせられました。

「人の怒りは神の義を実現するものではありません。ですから、すべての汚れや
溢れる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばをすなおに受け入れなさい。
みことばはあなたがたの魂を救うことができます」ヤコブ1:20~21。

真面目に生きることが命を守り安全でいられる事を最後に話されていました。

良き交わりの時間を持たせていただきました。

水谷先生は「神に向いて生きている」ことが良く見えました。
出会いを「出愛」と呼ぶ水谷先生の人を思う心は主イエス様の御心を思わせました。
いつまでもご壮健でありますようにお祈りします。

  


Posted by 金城米子 at 14:23Comments(0)

2014年10月22日

リバイバルはありがたくない状況下に起こる?

私の中でリバイバルは何度も起こっていると言えば「何言ってんの?」と
思う方も多いかも知れません。

クリスチャンだけに起こるのがリバイバルではない事を言いたいのです。

全地全能の天地創造主なる神。それがイエス・キリストの御父神です。
エジプトでの奴隷民となって苦役を強いられていたイスラエルの民族救うために、

およそ200万人のイスラエル民族をエジプトから脱出させた時に、目の前に広が
る紅海が逃げ場を失ったかのような絶体絶命の場面でモーセが神に呼ばわると

紅海が真っ二つに分かれてイスラエル民族は海の底だったところを歩いて渡り助
けられました。
そのモーセと共にいて導いた神が私たちの信仰するイエス・キリストの神なのです。

私に起こったリバイバルは、母の胎内にいた時に母は未婚で子供産むことも家族の
働き手となっていた事もあり、自然流産を望んでいて何度も流産する事を試みたが

ことごとく失敗して生まれて来たのが私だったようです。「だから、お前にはきっと強い
神様がついていると思う」と言っていました。これが私に起こった最初のリバイバルです。

母から父親との関係や祖父母の生々しい現実を見て育っていた私は女は男性に依存
しなければ生きる場所がないのかと真剣に悩みました。

私のリバイバルは、父親からの虐待で水タンクに一晩閉じ込められた事があった事、
その時には祖母が発見して助けてくれたけどそれが二度目の私のリバイバルでした。

私には特殊な賜物があります(笑)

水タンクにつけられた時に、非常な寒さが襲ってきた、その時に母親の胎内にいる
羊水の中にいる自分がいる事を想像しました。

窮地に陥った時には、その場所から想像をして逃げるのです。
「私がいる場所は、天国なんだ」と・・・

理不尽なことで怒鳴られたり、叱られたりの時には、私は即座に別世界に逃避します(笑)
すると、目の前の出来事が遠い所の出来事のように見えるのです。
ですから心の底は守られ傷つきません。

神と悪魔がいつも私の前には隣在して戦っていた事を思わされる出来事がありました。
三歳の時には大やけどと「えきり」と言う病気が同時に襲い一週間の意識不明でした。

何度も水災害で命を落としかけたのですがその都度、私はリバイバルを経験しています。
ごく最近は、交通事故で重傷を負ったにもかかわらずに早いスピードで完治しました。

同じころに事故った知人の方は、私よりも軽傷だった筈なのに、まだ、ベッドの中です。
彼女の為に祈る事を忘れていません。彼女がこのことを通してイエス・キリストを信じて
くれることを切望しています。

私は12日で退院して走っています。死ぬほどのけがを負っても病を負っても私は
何度もリバイバルを経験しています。\(^_^)/

そういう訳でリバイバルは有り難くない状況下で起こるものなのです。しかし、
それはまた、神の隣在を深く経験する恵みを味わうと時でもあるのです。

クリスチャン達がリバイバルを望む声が大きく起こる事もありますがそこには、
また、有り難くない事や殉教者が出る事もあるかも知れないのです。
そういう事も理解して受け入れられるような信仰が必要かもしれません。

私がよく言われることですが「米子さんは強い信仰があるから、患難時代には取り残されるでしょう。」
「自分は信仰が弱いからすぐに携挙されます」・・・と。言われたくない言葉を頂戴しています。(笑)

私だって信仰があるのか、ないのかと迷う事も多々あるのですからね・・・(苦笑)

クリスチャンになってからの私の身に起こる奇跡・リバイバルは私が祈る人の身の上にも起こるようになりました。
決して自分を誇っている高慢ではありません。

私は主イエス様が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事に感謝しなさい」と
言われている通りに生きていこうとクリスチャンになった初めに決心してTシャツ(50枚)
にこのみことばを、印字して数年間、Tシャツを着続けて種まき伝道をして来ました。

リバイバルはあなたの中で必ず日々起こる事なのです。「日々新しくされる」と聖書の約束です。
伝道してください!寝たっきりでも出来るのが伝道です。手話でもゼスチャーでも出来ます。

「十字架はあなたの為です」とキリストの十字架の深さを語ってください。

「人が自分に仕える者を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。あなたは再び、正しい人と悪者、
神に仕える者と仕えない者と違いを見るようになる」マラキ3:17。
  


Posted by 金城米子 at 08:34Comments(0)

2014年10月12日

口は災いのもとを聖書はどんなふうに?

私がO君と知り合ったのは彼が芸大生の頃でした。私はクリスチャンになり立てでした。
世界宣教のみことばをメッセージで聞いた後に私は牧師に質問しました。

わたし「世界に行かなければ伝道は出来ないいのですか?」
牧師「今、あなたがいる場所が宣教の場所です。」

という事で私が走ったのは、芸大祭りがあると聞いた場所へ行きました。
一人でお弁当を食べているM君を見つけて私が質問したことはM君に
「あなたの生年月日がなぜ、その日なのかだったのかが解かりますか?」でした。

怪訝な顔をしていましたがM君は「そんなことは誰も解からないでしょう。
自分が日を選んで生まれて来るなんてできないでしょう?」と言い
「おばさんはユタかなんかですか?」と質問してされました(笑)

わたし「そうだよね。自分では何も選んで生まれて来ることが出来ないんだよね。
でも、あなたが生まれる日もあなたがあなたの両親の子供として生まれることを
赦した神様がいるとしたら、どうする?西暦はいつ、だれがどうやって決めたの
だろうかって考えた事はない?」

M君「確かキリストの誕生に関係していると聞いたことがあるけれど・・・」

M君は二時間ほど私の話を熱心に聞いてくれていました。友達は呼びに来ても
友達を振り切って話を聞いてくれました。

みことばと聖書の教えについて質問があったのは、口は災いの元についてでした。
彼の質問で彼が言葉で大きな傷を抱えている事を察知しました。

「軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人を癒やす」箴言12:18。

「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、
唇を閉ざして偽りを語らず悪から遠ざかって善を行い、
平和を求めてこれを追い求めよ」第一ペテロ3:10~11。

のみことばと「自分の口と舌を守る者は。自分自身を守って苦しみに合わない」箴言21:23。
をMさんに告げました。

そして、私が強調したのは、言葉の失敗をした時でも私たちは「心にもない事を言った」と言い訳をしますが、
それは違いますよ。心の底、腹の底にある事が口から出る事を知るようにしなさい。自分の内側にある悪を
神様の前に出て悔い改めてから失言してしまって傷つけた人に何度でも誤って赦してもらう事ですね。

電話やメールがダメなら手紙を何度でも書いて出しなさい。赦すことが出来ても和解は難しいと思うけれど
和解は二番手だからまず、正直に謝って赦すという言葉を求めてください。謝る事には自己弁護や自己正当
の言葉はいりませんよ。それは誤ったことにはなりませんからね。」

二か月後にM君から赦しと和解を得ました。そして、聖書を拝読しています」と報告を受けました。
きっと聖書は彼の人生の羅針盤となることでしょう。聖書を正しく理解する事をするには教会へ行く事と
注解書や信仰書も併せて読むように勧めました。

「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。
なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」ルカ6:45。  


Posted by 金城米子 at 09:58Comments(0)

2014年10月12日

孤独を感じる嵐の夜

台風の日には多くの方々からのメールや電話が入ります。
近くの病院に入退院して1年半になる40代の男性のMさんからも電話が来ました。

「台風の日にはどうしようもなく寂しくなり不安になります。
食事ものどを通りません。お祈りお願いします。神様の話も聞きたいです。」

新約聖書のヨハネ14:18

「わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません」

旧約聖書のヨシュア1:5

「あなたの一生の間、誰一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。
わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいよう」

彼は家族からも学校時代も病院でもいじめを受けて疎外感の中にいます。

yonekoトーク

「たとえ、自分を産んでくれた母親が見捨てる事があっても神様であるイエス様は、
私たちを見捨てたり、見放したりは決してしないのです。

この約束はMさんが生きている間は絶対に変りませんからね。
Mさんが生きている間は、誰もMさんの前に立って行く道を邪魔させないから安心
していなさい。

悪い思いはすべて悪から来るから楽しい事だけを考えてイエス様に感謝しますってね♬
たとえ、人があなたを怒らせるようなことをしてもイエス様があなたを守り、助けるから
すぐに赦しますって言ってアーメンしてね。
イエス様を信じているMさんが誰よりも弱くても強いんだよ。」☆☆☆

時間を作って病室にお祈りに行く約束をして電話を終了しました。

「私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、

どのような苦しみの中にいる人を慰めることができるのです。」第二コリント1:4。  


Posted by 金城米子 at 08:53Comments(0)

2014年10月11日

聖書とは何?

聖書は旧約聖書と新約聖書の双方から成り立っています。
これは小説の前編と後編にあたります。

旧約聖書はイエス・キリストが
誕生する前の出来事について記されています。

新約聖書はイエス・キリストの誕生後の事が記されています。旧約・新約
の「約」とは契約の意味です。

旧約聖書は神とイスラエルの民の間に結ば
れた契約で新約聖書は神と全人類の間に結ばれた契約の事です。

旧約聖書は39巻から成ります。

旧約聖書は神が世界を創造する所から始ります。
そして、神と共に生きる本来の有るべき姿から外れた人間の現実が赤裸々に描かれています。

神に似せてつくられた人間がやがて神を否定し、自己中心的な生活に堕落する事
を聖書は「罪」と教えています。

この罪から如何にして人間を救い、神との正しい関係を回復するかという、神の計画と行いが、
イスラエルと言う民族の歴史から語られているのが旧約聖書です。旧約聖書が意味する、

神がイスラエルの民と結んだ契約とは、神がイスラエルの民族の子孫から、全人類を罪から
救う者を誕生させるというものです。旧約聖書はこの契約が繰り返し語られ、

この契約が果たされることを待ち望みながら幕を閉じるのです。

新約聖書は27巻から成ります。

新約聖書は全人類を罪から救う救い主が現れると言う、旧約聖書で語られた契約が実現する。
その救い主こそがイエス・キリストであるのです。イエス・キリストは全人類の罪を一身に背負い、

十字架にかかり、その死後三日目によみがえられました。このことを信じる人は、誰でも罪が赦され、
永遠の命を得ることが出来ると言うのが新約聖書が語る救いであり、神と人との契約なのです。

新約聖書はイエス・キリストについての報告です。福音書や如何に弟子たちがイエス・キリストを
世界に伝え、教会が建ちあげられていったかの歴史と弟子たちが各地の教会に宛てた手紙などが

記されています。そして、これからの起こることや、新天新地の創造についての預言書を記した
黙示録で完結するのです。

世界の状況を見ますとキリストの再臨は近いことも世界が終末に向かっている事も理解できます。
ひとつの宗教が世界制覇をもくろみ深く静かに世界にその異端の教理が蔓延しつつあることも、
また宗教戦争兵士として多くの若者が駆り出されることも理解しています。

ごく最近になってマスコミでも騒がれ始めていますが聖書を知る私たちはその事を理解していました。
起きるべきことがやがて起こり、災害・事件・感染症の病気・飢餓・戦争・愛が冷える現象が起こる事も
聖書は記してます。神が最も忌み嫌うものは偶像崇拝です。

人間は自分のエゴイズムで沢山の偶像を造りだしてきました。全人類が悔い改めて神と人間との正しい
関係を修復することだけが唯一の救いなのです。

モーセの十戒に「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは自分の為に、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、

下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」出エジプト20:3~5。  


Posted by 金城米子 at 18:09Comments(0)

2014年10月08日

ヨルダン川を渡りなさい

10年前にクリスチャンの女性から「ヨルダン川を渡るという意味は何ですか?」と質問がありました。

「ヨルダン川を渡るという事を知りたければ出エジプトを何度も拝読したら良いと思いますけどね」と
答えてしばらくは彼女の家を訪問して出エジプトを学ぶことにしました。

彼女は教会の中で孤立感を感じていると話していました。
彼女はそうつぶやきました。「私が教会にいて何の益があるのかなあ・・・」
ベビークリスチャンに孤独感や疎外感を感じさせることは正しい事ではありません。

教会は初心者にとっては異次元の世界ですから・・・気配りは大切でしょう。
御霊の実の親切に反しますので気を付けるべきでしょうね。

本題に入ります。

出エジプトの民は、エジプトでは礼拝が出来ませんでした。

エジプトのパロ王は偶像崇拝者でエジプトは罪人の街ですから真理の神を礼拝できなかったのです。
それは主イエス・キリストに出会う前の私たちの姿です。私たちがキリストを知らなかった時代は偶像
崇拝者だったからです。

主イエス様に出会う前は、自己中心的な人生を自分よがりの正義感で生きていた者です。
自分の正義と他者との正義がぶつかりあって敵対する者が出て来るのは当然です。

夫婦喧嘩も兄弟喧嘩も会社での上司や部下との関係もそうです。それぞれの正義がぶつかり合っているのです。
ですから本当の平安は人からは与えられないのです。「わたしの家族とは神の御心を行う者です」と主イエス様は
仰っています。それは教会の群れの家族です。

ヨルダン川を渡るという事はこの世は悪霊が支配しています。そういう訳でみんなが自分の欲望を握って生きている
と言っても過言ではありません。名誉欲・利権欲・金銭欲・策略・嘘・偽り・疑心暗鬼など等、この世の栄えは人々の
目を惑わし、罪の誘惑に満ちています。試みるものは内側にも外側にもあります。罪との戦いに神の武具を付けて
毅然として立ち向かう事を言っています。

教会は罪赦された者たちが救いを受けて真理の神を礼拝できる恵みの聖化された礼拝堂です。
神のみことばが正しく流される宮でラジオ放送局のような働きです。

私達の一人ひとりはテレビ局です。私たち一人ひとりのクリスチャンの生き方に真理の神を観るのです。

でも、それは教会から離れては出来ません。なぜなら私たちは不完全な者ですから出来ません。
聖書には数字でも私たちに語られています。四福音書はキリストを信じた者不完全な者が

キリストの似姿に変えられていく事を伝えています。2000年前で終わったことではありません。
今現在も進行中なのです。

私達クリスチャンを通してです。文字に従う信仰ではなくてキリストに
従う信仰者としての歩みを助けるのは教会での礼拝メッセージを霊で聴く事です。
この世の罪との戦いは一人ではできません。

教会信徒の一致の祈りで一人一人が罪の誘惑から逃れることが出来るのです。
断言しますが霊的戦いは一人では決してできません。

ヨルダン川を渡るのは信仰の覚悟です。教会での礼拝を守り、神と人々の前にへりくだり、謙遜になる事です。
へりくだりとは、神を畏れる者のことをへりくだりと言うのです。

「神は高慢な者を退け、へりくだった者に恵みをたもう」なのです。

自我に死ぬこともヨルダン川を渡ることなのです。
死んだ者は何もできません。蹴飛ばされても唾を吐かれても何の反応しません。

主イエス・キリストと同化する事です。イエス・キリストの霊と一つになることです。

モーセは罪の世界から民を救い出しました。私たちはモーセの働きを完成するためにこの世に存在すのです。
モーセからヨシュアに代わりました。ヨシュアはキリストの姿です。私たちはキリストが十字架に死なれたように、
自我に死んでキリストに生きる事なのです。ヨルダン川を渡るという事はそういう意味なのです。

その学びをした日から彼女は他者の前では不平不満を口に出さなくなりました。
彼女が心の怒りや嘆きを訴えるのは私と二人で祈る時だけになりました。
真の信仰の友は大切です。守秘義務を守り、どんな時にも決して友を陥れません。

私は誰にも彼女の事を話さないからです。10年間の信仰の友であります。
彼女の存在を神様に感謝しています。神の憐れみによって私には信仰の
友が多く与えられました。心から主イエス様に感謝しています。

あなたも是非に決心して聖霊に満たされてヨルダン川を渡ってください。
決心した時から全てが変る事を経験してください。

全てのキリスト者の為にお祈りしています。  


Posted by 金城米子 at 05:58Comments(0)

2014年10月06日

言うは易し行うは難し

時々、私は言われることがあります。「神様との意思疎通が出来て羨ましいです。
私が神様の意思が解かったらどんなにか幸せか。すべてが順調に行きますからね。
幸せですよね。」・・・と。

神様との意思の疎通が出来るのは自分を開け渡している人なら誰でも出来ます。
神様の御思なら聖書を拝読すれば一目同前・単純明確です。

あなたが人にしてほしい事をあなた自身が人にする事ですし、あなたがしてほしくない
事は絶対にしない事です」。出来る限り生活費も人に借金はしない生き方をして下さい。

負い目を作らない生き方です。私の生活は自分の収入を超えては買い物もしない、
たとえ、食料が切れても人には借金の申し込みをしません。その時には断食祈祷を
神様が導いているのだと感謝します。

借金を申し込まれたら力があるなら貸して差し上げなさい。しかし、強制的に取り立てをして
はいけません。

断食祈祷の際には愛息子の事が不憫だと祈った時に神様は不思議なみわざを成されました。
主に賛美をささげていると愛息子はとても喜びに満たされてひもじさを訴えませんでした。

平安で満たされて両手を上げて踊りだしました。「不思議な預言者」の神様です。
神様に感謝をささげると神様は人を用いて食料も経済も備えてくださいます。

つぶやかずに神を礼拝賛美することが幸いにつながる事を私たち母子は経験しています。
だからと言ってすべてを神様に委ねて生きているわけではありません。
人間ですから人間は何処までも人間の領域を超えられない弱い者です。

こんなこともありました。台所のカーペットを掃除機をかけようかと思った時に
「針があるから気をつけなさい。」と示されました。私は他のことに気を取られて
その事を忘れてしまいました。そして、1時間後に私は針を踏んづけて痛い思い
をして「あ~そうだった。神様ごめんなさい」と後悔しました。

そして、すぐに聖霊の御声で「もう一か所に針が刺さっているから気をつけなさい」とあり、
私は内心で「まさか?ここへ引っ越してきてから裁縫はしていないのに何処から針が来る
のよ」と抵抗しました。

でも、さっきの件があるので目を凝らしてカーペットの上を探しました。ありましたよ。
針がカーペットの中にありました。これが私の現況なんですね(笑)。

生活の細かい所にまで聖霊は介入して下さいますが私はいつも自分の思いを優先
させることが多くて大失敗をします(苦笑)

どこまでも人間です。自分の経験や知識を優先させている者で失敗の連続です。

危険を示して下さるのは愛息子への神様の憐れみだと感謝しています。
生きて働いておられる神・主イエス・キリストは恵みと慈しみの神様です。

すぐに従う事が出来ない私でさえも変わらずに微に至り細に至るまで導いて下さいます。

あなたの心に主イエス・キリストを迎え入れたならあなたはいつも愛に満たされた神様
のみわざを経験します。花も実もある人生になります。

どうぞ、今、行き詰って苦しんでいる方がおられるなら、もう、立ち直れないと思っている方
がいましたら教会に足を運んで下さい。

いま、幸いの中にあるお方もその幸いが神によって守られますから教会に来てください。

「わたしは永遠の愛を持ってあなたを愛する」と声をかけられている主イエスの御許に

勇気をもってきてください。あなたのお越しを心から歓迎します。シャローム♬  


Posted by 金城米子 at 08:05Comments(0)

2014年10月06日

人の心に潜む闇

20代前半の頃の事です。忘れられない女性の一人に美恵子さんと言う女性がいます。
彼女は桜坂のスナックで働いていました。美恵子さんは弟と妹との三人暮らしでした。

両親は離婚してまだ学校へ通う子供たちを置いて父親に続いて母親も家を出ました。
美恵子さんは弟と妹の学費と生活費を稼ぐためにスナックで働き始めました。

美恵子さんは16歳で年齢をごまかして19歳という事で働いていたのです。
世間知らずの彼女が男に騙されるのは当然の事でした。

美恵子さんに同情したふりして妻子ある男性が独身だと言って彼女を騙して、
彼女の心も体も自由にしました。半年後に彼女は妊娠したので交際相手に、
告げました。

翌日、男性は当時の2百万円を持って来て美恵子さんに
「手切れ金だ。子供は降ろしてくれ」と言って二度と会おうとはしなくなりました。

美恵子さんは結婚できると信じていた男性から妊娠を機に別れを告げられて
途方に暮れて苦しんで寝込んでしまいました。そんな美恵子さんを何とか助け

る方法はないのかと美恵子さんの弟妹と叔母と名乗る方が相談しに来ました。
美恵子さんが付き合っていた男性の身元が実は嘘だったことが解かったので
何とか居所を知りたいという事でもありました。

当時はそういう男女間のトラブルが多かったのであまり、人はそんな事は気に
も止めないのですが無責任な男性を糾弾する事もありませんでした。

男性の居所は三日間で探し当て、私は美恵子さんの弟妹、叔母とで会いに行きました。

男性は「水商売をしている女の子供が俺の子供だって言う証拠はない。
誰の子供か解からないだろう。迷惑だ。帰れ!俺には妻も子供いるんだから。帰れ!」
取り付く島もありませんでした。

美恵子さんは絶望の中で男の子を産みました。美恵子さんがした事は、
当時は私の家の近くには川があったのですが彼女がその川に入り大声で叫んだのです。

「神様!神様!私はこれからどうやって生きていけばいいのですか?なぜ、私だけが
こんな惨めな思いをしなくてはならないのですか?助けてください。助けてください」と

方言で嘆きの声をあげていました。私は彼女が川に身を沈めないように彼女をつかんで
いるので精いっぱいでした。彼女の悲しさや苦しさに私も一緒に泣くだけで何もしてあげる

事も助言も出来ませんでした。悔しかったですね。何一つとして慰めたり励ましたり立ち直る
ことが出来る言葉も力もなかったです。

「あ~あの時に私がクリスチャンで聖書を知っていれば適切な助言が出来て聖書のみことば
で彼女を立ち直らせることが出来たのに・・・」非常に悔しい思いがこみ上げて来ます。

美恵子さんは精神統合失調症になり、入院して若くして亡くなりました。自殺でした。
その知らせを受けた時、私は悔しさで大泣きしました。本当に先祖の神様は先祖霊はいるの?
守護神は存在しているの?火の神や干支の神はいるの?

でも、自分の修行が足りなかったのだなあ・・・と思い直して私はユタ修行に励みました。
多くの女性の理不尽で不条理の悲しみの涙の訴えを聞きました。家庭内暴力。ギャンブル亭主、
女狂いの亭主からの迫害に耐える妻たちの訴えに私は話を聞くだけで何一つ適切な言葉がなかった、
あの時、クリスチャンだったら真理の神様・イエス・キリストのみことばに出会っていたら救うことが出来
た女性がいました。

そして、自分自身の心も救うことが出来たのです。人の悩みを聞きながら自分の身の上の問題として、
聞く私には問題解決の方法はあちらこちらの神場参拝でした。問題解決は全くなく一条の光もありませんでした。

現在も、道を見つけることが出来なくて戸惑いの中で翻弄されている女性たちがいます。
私はその女性たちの為に安心して生活できる場所を提供したい。と祈り続けています。

「あなたのみことばは私の道の光私の歩みを照らす道のともしびです」詩編119:105
シャローム♬な人生を全ての人々に・・・♬  


Posted by 金城米子 at 00:53Comments(0)

2014年10月05日

この世は二霊政党です。

火の神信仰や先祖崇拝・ユタ信仰が主な沖縄県民性であることを思います。
また、各家や各個人がそれぞれの方法での信仰の持ち方がある事を思います。

人に従う事を嫌う県民性、かと言っても自己確立で揺るがない信仰が
あるかと言えばそうでもないように思えます。

御利益信仰が根っこにあることをいつも感じています。
(信じて得するか。損するかで神を自分に合うか合わないかを判断する)

神様はいつも天から自分の行動を見ているから悪い事をしたら罰が当たる。
との考えは結構根強く残っています。

恐怖信仰がはびこるのも理解できます。木の葉一枚を盗んでも泥棒だと
神様は罰するとの言い伝えが受け継がれています。

だからと言って沖縄の県民は熱心な信仰者かと言えば全くそうではないのです。
「誰が言ったか~知ららないが噂が噂を産んで行き~♬私もそうすることになりました♬」(笑)
人がそういうからそのようにしなければならないのだと言う祭儀主義でもあります。

このつかみどころのない愛する県民にどうやって真理の神を伝えるか?が非常に難しいところです。

先ず、教会の有り方を変えなくてはならないのかなあと思います。
県民性を受け入れて教え導く働き人が教会には必要ですね。

少数民族ならぬ。少数派乱立教会の有り方も頑固教会もここらで視点を
変えてみる必要があるのではないでしょうか?

世の悪には対抗しなくてはなりませんが世の人を上手く取り込むことに知恵を
働かせることは必要かと思います。今、人々が本当に必要としている助けは、
世の権力や金力ではなくてメンタル面の強さなのです。
ぶれない生き方を教えるのが教会なのです。

その為にはクリスチャンが本当の意味でキリストのみことばを深く悟り、実践する事です。
なぜ、聖書を知っているはずのクリスチャンが問題を抱えている人々のカウンセリングが出来ないのか?

そして、私が言いたいのはこの世は二霊政党だという事です。聖霊につくか悪霊につくか?
真理の神を信じて「祝福」を選ぶか?偶像崇拝を継続して「のろい」を選ぶか?

最近の教会ではグレーゾーンまで作ってしまっていることも問題です。

「正義を語り、救うに力強い者。それはわたしだ(イエス・キリスト)」イザヤ63:1。

正義は必ず世界を変えます。その前にクリスチャンがぶれない信仰と祈りと賛美、
そしてキリストの教理を心に植え付ける事ですね。中途半端はダメ・ダメ・ダメです(笑)

ペンテコステの教理とバプテスマの教理の本を拝読する事もお勧めします。
神様の平安と祝福が皆様の上にありますようにお祈りします。シャローム♬
  


Posted by 金城米子 at 11:04Comments(0)

2014年10月04日

良い実を刈り取る人生をあなたに

部屋の本棚を整理していたら手紙が何通か出て来たので一通を開いてみました。
中部に住んでいる40代の女性のT子さんからの手紙でした。

「拝啓。私は2003年に中部病院で米子さんにお会いしたT・Mです。覚えていますか?
あれからイエス様を受け入れて私の人生は変わり平安で満たされています。

自律神経失調症も癒されて息子たちもおかげさまで順調にいっています。
苦しかった時に毎月、お米や食料を配達して下さり、私達親子がどんなに助けられ、

励まされたか、感謝の気持ちは生涯忘れません。本当にありがとうございました。
先月、本土で働いている息子夫婦が孫を連れて来ました。息子のお嫁さんは裕福な

家の方で息子夫婦に子供が出来た時に家を与えられたそうです。嫁さんはとても優しく
て謙遜な人で有り難たかったです。その息子夫婦から私にとっては大金ですがプレゼント

されました。私がこんなに幸せなのはイエス様の憐れみです。心から感謝しています。
十分の一はイエス様に献金して、わずかではありますが米子さんにもお役に立ててほしい

と思いまして同封しています。お時間がある時や中部に来られた時にはお会いしたいです。
では、お体に十分にお気をつけてくださいね。敬具」

T子さんには一度だけ連絡をしてお互いの近況報告をしました。

彼女は夫の暴力と女性関係で長年苦しんでいました。
そのために、いろいろな宗教に飛び込みました。拘束感だけを感じて体調は悪くなるばかり、
どこに私の心のやすらぎがあるのかと思い悩んでいるときに、私と出会ったのでした。

出会ったと言うよりは、当時、私は一人で沖縄市の家を訪問伝道をしていました。
その時にT子さんの家も偶然に訪問していたのですが神様を伝える事は出来ないでいました。

あまりにも彼女の悲惨さが伝わって来たので私は彼女に「ご飯食べた?一緒にご飯を食べに行く?」
と言ったのです。彼女はびっくりした顔をしていましたがお米が欲しいと言ったので私は近くの
スーパーに走り10キロのお米とお肉とかを全財産をはたいて買いこんでT子さんに届けました(笑)

三年間、お米を配達していました。そして、彼女が夫との離婚を機に生活保護申請をしてあげて、
大丈夫になったので、それから彼女とは疎遠になっていました。

偶像崇拝をしていた時には平安もなく、夫には悩まされ続けていたのにイエス・キリストを信じた時
から彼女の人生は光へと変えられました。

二人の息子さんたちは進学をあきらめていたのを少しのアドバイスをしました。
「高校からは奨学金で学校に行けるよ。成績が優秀なら特待生でいけるし、

特待生になったらお金は返済しなくても良いんだよ。だから、自分の人生を諦めたらだめだ!
あなた一人の人生じゃあないんだよ。神様が一緒の人生なんだよ。

諦めるという事は幸運の神様を捨てるという事だよ。がんばって!
特待生を狙いなさい!」と叱咤激励したことで頑張れたと言っていました。

真面目で誠実で柔和な性格は誰にも受け入れらていると話していました。

彼女たち親子はイエス・キリストの良い実を刈取りしたんだ・・・心から神様に感謝しました。
私も再び当時の事を思い起こして伝道に頑張って一人でも多くの人に良い実を刈取りできる
人生を教えていきたいと思いました。

苦しみの中にある方、人生の先が見えない、方向が解からないと言う方は勇気を出して
どうぞ教会へ足を運んで下さい。あなたが訪ねて来られることを心からお待ちしています。  


Posted by 金城米子 at 07:02Comments(0)

2014年10月02日

自己との出会い

クリスチャンにある平安は、自分が何者であり、何処から来て何処へ帰るかを知っているからです。

聖書の箇所です。「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者でしょう。あなたがこれを心に留められるとは」詩編8:3,4)

自己とは不可解な者です。自己矛盾に悩み答えを探そうとさ迷いますが結局は自分では明確な
答えを見つけられません。

新約聖書の中にパウロと言う人物が登場しています。彼がいなければ新約聖書は成り立たなかった
かもしれません。と思われるほどに神様に用いられた神の義を追い求めた信仰者です。

パウロも自己矛盾に悩み次のように言っています。「私には自分のしている事がわかりません。
私は自分がしたいと思う事をしているのではなく、自分が憎むことをしているのです」(ローマ7:18,19)

「私は私のうち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたと願いが
いつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、
かえってしたくない悪を行っています」(ローマ7:18,19)

パウロは人の心のうちにある悪を正直に告白しています。人は善を行おうと思いつつも他者を憐れみ必要を
満たすために行動できないでいる事を言っています。苦しみにある人を優先できずに自己優先していることを
告白しています。聖人パウロと呼ばれた人でさえそのように言っているのです。

神を知らなければ人は悔い改める事は出来ません。反省と悔い改めるの意味は全く違います。
神と人との成り立ちを少し語りたいと思います。

1、人は神のかたちに似せて創造されました。
人は天地創造主の神のかたちに似せて最高の作品として造られました。
他の動物には見られない性質を持っています。

*知性・・・人は理性的に物事を考え、環境を支配し、創造的な仕事をすることが出来ます。
*感情・・・人は芸術に感動し、愛し愛されることに充足を満たします。
*意志・・・人は自らの決断によって、自らの人生を選び取ることが出来ます。
*霊性・・・宇宙の絶対的人格(神)と交わり、この神を喜ぶことが出来ます。
(中川健一の著書より)

人は他者の悲しみや喜びにも心を添える事の出来る心を持っています。
(哀悼の心)と(祝祷のの心)は人間だけにあるもので他の動物にはありません。

人は神の代理人として地上で生きる者として創造されたことを覚えてください。
エデンの園を追われたアダムには地上を統治する権利が与えられていましたが、

神に逆らったために地上の統治権が悪魔(悪霊)に奪われてしまったのです。
(善悪を知る知識の木の実を食べた事と見つかった時に責任転嫁したこと)

統治権を奪われた人間はあらゆることに拘束され、偽証と偽善、疑いと利益を
貪る生き方に翻弄されます。

何によって自己を知ることが出来るのでしょうか?創造主以外には自己を知り、
自己確立は有り得ません。

「あなたが若いうちにあなたの創造主を知りなさい」聖書。

幸いな人生を願うなら教会での聖書生活を学んで下さい。
神様は御手を広げてあなたを待っておられます。
  


Posted by 金城米子 at 07:10Comments(0)

2014年10月01日

聖書が教えるものは?

聖書を語る事で拒否反応を示す人がいるのはノンクリスチャンや無神論者ばかりではありません。
クリスチャンの中にも必要以上に拒否反応を示すが人います。

彼らはノンクリスチャンの方がキリスト的に生きている人が多いことを評価しています。
それは間違ってはいません。

しかし、何故、神が不足な者を選び出して神の懐に入れたのかを理解しなければなりません。
真面目に生きる世の人の理解者だとと自負しているかも知れませんが同じ神の家族を
非難しては行けません。

また、聖書を(みことば)を語る事を拒否しないでください。
成長過程にあるベビークリスチャンを非難する事もやめてほしいと思っています。

過去の私も裁く心がありましたが聖書のみことばは生きて働く神の力だとの確信は過去から
今まで一度も揺らいだことはありません。

ベビークリスチャンを神様は幼子と呼んでいます。幼子が成長して紙おむつが完全に取れる
までには三年半くらいはかかります。

三年半と言えば何を思いますか?

そうです弟子訓練ですね。

イエス・キリストが弟子訓練したことで有名なのは山上の垂訓でした。
成長した弟子たちが学ぶのは天国の市民としての学びです。

山上の垂訓は天国の市民としての学びです。山上の垂訓は律法による
救いを説いたものではありません。
山上の垂訓では天国人としてのクリスチャンを「幸いな人」と呼ばれたのです。

(1)貧しい者は幸いです。(自分にとって何が必要かを知る人の事ですね。)
(2)悲しむ者は幸いです。(試練は罪の結果だと考えないで下さい。)
(3)柔和な者は幸いです。(謙遜な人、自己制御できる人の事です)
(4)義に飢え渇いている者は幸いです。(神と人々の前に正しくあろうと願う人です)
(5)あわれみ深い者は幸いです。(助けを必要としている人への配慮のある人のことです)
(6)心の清い者は幸いです。(裏表がなく動機までが清い人です。聖霊に支配された人物です)
(7)平和をつくる者は幸いです(献身・慰め・赦しの人です。真理は人を二分にしますが争いはしません)
(8)義のために迫害されている者は幸いです。(神の国とこの世がある限りクリスチャンへの迫害は必ずあります)

全ての人々が平和でありますようにお祈りします。  


Posted by 金城米子 at 04:19Comments(0)