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2011年05月23日

ハンナの祈り

ハンナの祈りに心動かされてハンナと息子のサムエルの母子を霊的に私と末子の息子に重ねました。末子の息子は私の祈りを深めるために私の側に神様が置いたのだと示されました。

私達母子は毎日が綱渡りの生活です。息子も祈りの中で生かされているからです。クリスチャンにとっては祈りは息だと教えられていますが私にとって祈りは命そのものなのです。

息子と私の命なのです。以前、祈りの時間を五時間は普通に祈っていると証をしましたら間違っていると怒鳴られた事がありました。その先生はきっと私達母子が地獄からの主イエス・キリストによって引き上げられて蘇生させられた経験がある事を知らなかったからだと思いますけどね(笑い)。

人は知っているようで知らない事ばかりですからね。十字架が示しているように人との関係はこの世での短い時間だけの事であって、神との関係が永遠である事を私達は知っていますから感謝なのです。

毎日の祈祷課題は山積しています。一向に減りません。自分自身の事、家族のこと教会も牧師とそのご家族、信徒、他の教会の祝福の祈りは当然ですが日本の祝福、政治家のこと、リーダーの事、友人知人まで祈っていると時間はどんどん過ぎて行きます。

祈りはエレルギーを使います。祈り終わった時にはぐったりするかなと思いきやその疲れは真か不思議な力で癒されて元気百倍に回復します。喜びと平安のうちに次の計画が満たされますから幸いです。

ハンナは不妊で子供が耐えられるように祈りました。「彼女の顔はもはや以前のようではなかった」サムエル1:18とあります。祈りとは自分の状況をすべて神様の前に注ぎだす事です。ありのままの自分を訴えるのです。ハンナは心に悩みを一杯抱えて神殿に来ました。

祭司のエリがハンナは酔っているのではないかと見間違うほどに一心不乱に泣きながら体をふるわせて祈りました。祈りの中では、様々な悲しみや苦しみ人生の悩み、対人関係での寂しさをすべて神の前に注ぎだしゆだねた時に私達は自分の問題を受け入れる事ができるのではないでしょうか。

祈りには犠牲も伴います。ハンナはサムエルを手元から離さなければなりませんでした。可愛い盛りに祭司のエリのもとへ行きました。「主は私の祈りをかなえて下さいました。それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯、主に渡されたのです」こうして彼らはそこで主を礼拝した」第一サムエル1:26~28の記述です。

私も末子が18歳の頃に不正脈で厳しい状況を宣告されました。私の祈りは、息子を主にささげる祈りでした。どのような結果になろうとも主を愛し、主に従って生きる事、息子は主のものだからです。神様が息子を返しなさいと言うのならお返しする事を否みません。しかし、息子が私の元に置かれたのは、主よ。私の霊的成長の為にですよね。私の信仰が強くされ、高嶺に引き上げられるためですよね。それなら私は不信仰の者です。どうぞ。あなたの目に適う者とされるまで息子を私の手元に置いて下さいますように・・・」と祈りました。息子の不正脈は癒されました。

しかし、祈ったからと問題が自分の望んだように解決されると言う訳ではありません。
私達は結果は神に委ねて問題を受け入れて主による平安が与えられるのです。

私がクリスチャンに変えられたきっかけは借金と息子の障がいと難病に失望しそれまで信じていた神に絶望して「真の神。唯一の神がおられるならと叫けび声を上げて祈りながら息子と共に海に入ったからでした。唯一の神は「あなたの泣き叫ぶ声を聞いた」「わたしはあなたの祈りを聞いた」「わたしの助けが必要か」

主は私に確めました。「はい。必要です」私は即座に答えました。それから神様は暗い空に光り輝く十字架と共に「信仰。希望。愛」の三文字を示しました。それは私がこれからの人生の柱として実践して生きる事が出来ると神様は啓示してくださったのだと確認した出来事でした。

クリスチャンになってから講壇の説教台の前には、ずっと「信仰・希望・愛」の文字が見えたので私は教会での標語として講壇の説教台にはその文字が彫ってあるのだと信じていました。ところが五年後にその文字が見えなくなったので説教台を変えたのかと思い聞きました。違いました。説教台は同じものでした。私達の主イエス様は不思議をなさる神様です。

「悪を行う者よ。皆私をはなれよ。主は私の泣く声を聞き。主は私の嘆きを聞き、主は私の祈りを受け入れて下さる」詩篇6:9~10



Posted by 金城米子 at 10:54│Comments(0)
 
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