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2012年02月19日

私が愛した四人のお姑たち

シングルマザー19歳で男児を生みました。既婚者とは知りませんでした。それどころか私の親にも会って「娘さんを下さい。幸せにしますから」と言ったのですからね。既婚者だと知った日に私は実家の二階の部屋に引きこもっていました。投身自殺までしたのに無事に男児を出産することが出来ました。

その後は相手の母親が訪問して来たり私が糸満市の姑?宅を訪問したりして仲良くお付き合いをさせてもらっていました。というのは、彼の女性関係が尋常ではなく、腹違いの子供が数人いたのでお姑がみんなをケアしていたのです。お姑はとても心優しく気さくな人でした。沖縄の行事専門の私の事が気に入ったらしく家の行事があるたびに私を呼びつけていました。

三年間、私は何かあるたびに糸満市までお姑を訪問しました。いつも、あたたかく迎えてくれました。私がKと結婚すると聞いた時にもお祝金をくれて「何かあったら相談に来なさいよ。私はあんたが他人になるとは思っていないからね」と言ってくれました。二度と再び会うことはないと思って感謝してお姑の家を後にしました。

Kと結婚する前にKの両親に会いに大宜味村のKの実家に行きました。小さな養豚業をしながら一人で苦労しているお姑さんに最初に言われたのは「私はkが選んだ人だから心の優しい人だと信じているから反対はしないけれど自分がお腹を痛めた子供を手放してKと結婚するんだからとても辛いと思うけど誰よりも幸せな女だねと言われるようになるんだよ。Kにもそう話したからね」でした。

お姑のS子さんは、働き者で苦労人でした。人の心がとてもよく理解できる人でした。私は嫁としては大切にされてお姑さんといるときには本当の母よりもお姑のS子が実の母のように思えました。離婚後もお姑の関係は続けていました。支えになってくれていました。山原まで二人の息子を連れてお姑を訪問したりしていました。

Aと知り合い再婚することになりました。Aの母親も素晴らしい人格者でした。首里の旧家の娘で利発で謙遜な女性でした。戦争未亡人で一人息子を育ててきたしっかり者の母親でした。博識家でもあり、いろいろと教えてもらいました。

それからOと再再婚になりましたがOの母親も苦労人でした。若いときに未亡人になり一人で五人の子供を育て上げた人でした。人生の酸いも甘いもかぎ分けた素晴らしい女性でした。私が遠慮気兼ねなしで喧嘩が出来たたった一人のお姑でした。二人の間には他人とは思えないほどに垣根がなくて本音で付き合えたお姑でした。

Oと離婚すると打ち明けた時には「仕方がないね。Oが大人になりきれないんだから、私の育て方が悪かったんだね。本当にごめんね」と言ってくれました。孫の入院中には、腰痛と足の痛みを抑えながらも病院に見舞いに来てくれていました。が、孫の退院後にお姑は毎日のように電話をして来て買い物を頼んだり、外出の際には私が運転手役でした。第三者には母と娘のように見えたようでした。

四人の女性はみんな立派な女性なのに息子たちには非常に甘かったようです。どの息子もマザコンでしたが私はマザコンは大いに歓迎でした。マザコンは彼らの優しさだと思えたからでした。自分を生んでくれた母親を愛してやまない心優しい男性との子供をもてたのですから多少のぐうたらは許せます(笑い)

私にもたくさんの非はあったのですし時効ですので今、私が愛した四人のお姑さんたちを語ります。彼女たちは沖縄の女性そのものでした。強く、しっかり者、働くことの大好きな女性、子供たちを真剣に愛し、人を愛する心で満ちていた、謙遜で柔和な女性でした。いつか、私が召天した後に私の嫁たちは私の事をどのように語るのだろうかと思いをはせています。

精一杯、私も嫁たちを愛して助けていきたいと思っています。聖書の「ルツとナオミ」のような嫁姑を祈りつつ思いは私が愛した亡きお姑たちへと静かに浸っています。






Posted by 金城米子 at 21:51│Comments(0)
 
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