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2012年02月24日

それでも助けるか。助けないかです。

あるセミナーでのシンポジュウムでの話です。講師は著名人のクリスチャンで素晴らしい働きをしています。弱者支援事業は一つの企業として社会的にも認められている先生です。

セミナーでは、いろいろな弱者の救済についての話が出ました。その時に、ホームレス支援についての質問をしましたがその時の意見が「ホームレスは自業自得だから助けようとは思わない。」と一蹴でした。

私はそれまではその先生を尊敬していましたから非常に残念に思いました。多くのホームレスは自業自得の人も多い事は間違いありません。それでも彼らは同じ人間です。切れば赤い血が出るし、心もあります。

シンポジユウムの終了後に私の心は少し萎えて空しい思いで帰宅しました。

教会でホームレス支援事業をしている山内昌良牧師にその話をしました。山内先生はひとことでした。「そうだよ。その通りですよ。要はそれでも彼らを助けるか、助けないかですからね。僕は神様から任命されて支援をしているだけです。従っているだけです」との答えでした。

「大変な犠牲が伴いますよね。同僚の牧師たちからの批判も受けられたのですよね」と聞いた私です。「何がどうあろうと神様はいのちを与えるほどに私たちを愛したんだから、その愛にこたえる働きですよ」でした。

マタイの9章10節の箇所が思い浮かんできました。「イエスが家で食事の席についておられるとき、見よ。取税人や罪人が大勢来て、イエスやその弟子たちと食卓についていた。するとこれを見ていたパリサ人たちが、イエスの弟子たちに言った「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」イエスはこれを聞いて言われた。

「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です」「わたしは憐れみは好むが、いけにえは好まない」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」マタイ9:10~13のみことばです。

そうなのですよね。「要は助けるか、助けないか」です。SOSを求めている人に向かい合うときに私はその言葉が心の扉を開くカギとなっています。「これら小さい者にしたことがわたし(神)にしたことです」このみことばは障害者の息子の介護をするときに心に迫ってくるみことばでもあります。



Posted by 金城米子 at 14:40│Comments(1)
この記事へのコメント
更生することなく何度も何度も犯罪を起こし
犯罪を犯してからすべて国費が費やされている犯罪者


納税せずに権利だけ主張している反社会的な人間
塀の中で安全安心を受けながら


自己主張するだけの者たち


居場所を提供しながら、猛省を促す
悔い改めに導きながら

寄り添う歩みあうことの重要性


すべての方が、キリストの愛に導かれて欲しいと思うこの頃です。
Posted by ピーチャンピーチャン at 2012年02月24日 22:01
 
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