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2012年04月26日

神の御声を聴くデボーション

クリスチャンになった時に私は、それまでの「見える」「聞こえる」「心に入って来る思い」「人の感情導入」などの業を神に返上しました。

見えない、聞こえない世界に私は置かれ、ただひたすら聖書を通して御声を聴くためにデボーションを毎朝欠かさずにしました。聖書を毎朝一章づつ読み静まって御言葉を味わうデボーションです。聖霊は、罪・悔い改め・従う・とりなしの祈り・感謝を導きました。

デボーションを5時間かけても御声を聴くことが出来なくて苦しくて吐く事もありました。今は、5分ほどでデボーションを終えることが出来るようになりました。

聖霊は罪をはっきりと示し、衝動買いさえも止めるように示しました。聖霊の導きに従っている間は、順調でした。困難な事も喜んで忍耐し、待ちわびる喜びも知ることが出来ました。

高慢な者を神は退けます。伝道が順調すぎるくらいに上手くいくことで私は、いつのまにか高慢になっていました。信仰生活10年目に私は、砕かれ、もぎ取られ(名誉)、削ぎ落され、健康が害され、うつ病が逆戻りしました。二度とこの不名誉な誤解は「陥れられた罠」から私は立ち上がれないとボロボロになり、再び親子心中へと心が傾いて実践しようとしました。

「教会は人を殺す」と遺書を書いてです。しかし、実践しようとした時に車が大きく揺れて「止めなさい」と聖霊の大きな厳しい御声が聴こえました。私は自己憐憫に陥っていたことを示され、キリストを二番手にし、トップの人を神としていたことを悔い改めるように導かれました。

キリストから目をそらし、「人に依存する」、「人を神とする」、「人に認められたい」と思った時にキリストが見えなくなり、御声が聴こえなくなっていました。涙の悔い改めと、とりなしの祈りをして半年後に教会に行かなければと思いが起こりました。

万事が神様の御手の中の事であり、神は決して見捨てず、孤児にしないことを私は経験しました。二度と再び「キリストから目を離さない」常に神の御声を聴くことを怠らずに天に橋をかけ昇るこのことを心に刻みました。

「人の言葉に振り回されない」けれど人の心の思いを聴く、「人を見ない」けれど人と人との間の神を見る。「人との比較はしない」けれど「そのままの自分を感謝する」けれど、できるように努力をする。「出来たことに感謝」するけれど高慢にならない。

このことが私の祈りとなりました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけなさい」ルカ22:32.この御言葉が心に入って来て、私は力を与えられました。
再び燃えるような信仰が与えられ、「兄弟を力づけなさい」に重荷を負う事を決心し現在の教会に行きました。

信仰が取り戻せないで苦しんでいる友よ。交わりが苦しくて兄弟姉妹を裁かずにはおれない苦しみの中にある友よ。キリストの十字架での「とりなしの祈り」はあなた自身のためにキリストが叫んでいる祈りであることを覚えてください。

霊的な成長は、交わりの中でしか成長はないのです。だから『互いに愛しあいなさい』なのです。人間は罪を犯さずには生きられないのです。赦すしかないのです。「私たちに罪を犯す者を私たちが赦す如く、私たちの罪をもおゆるし下さい」なのです。あなたが赦されたように赦すこと以外に神に近づく方法はないのです。どうぞ神の御声を聴くことを求めてくださいますように・・・お祈りしています。



Posted by 金城米子 at 10:28│Comments(1)
この記事へのコメント
キリストから目をそらし、「人に依存する」、「人を神とする」、「人に認められたい」と思った時にキリストが見えなくなり、御声が聴こえなくなっていました。

・・・という金城さんの言葉が、そのまま今まで、そして今の私に当てはまります。まだ、主との関係が回復した状態ではありません。

でも、どんなに立派に見える思える信仰の先輩方も、失敗があり、肉的なことのみならず、霊的な悩み苦しみ失望があり、それでも、主との関係の回復、以前より強い絆が与えられた・・・という生きた証は、私にも希望を与えてくれます。ありがとうございます。
Posted by haru at 2012年04月30日 22:25
 
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