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2013年11月28日

デボーションの証しから(ヨハネ10:1-19)

これは私がクリスチャンになって三年目のデボーションからの証です。デボーションでは「罪」「慰め」「叱咤激励」などが示されます。

ここでは9~10のみことばに心がとまりました。
「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」10節「盗人が来るのは、盗んだり、滅ぼしたりするにほかならな。わたしが来たのは羊が命を受けるため、しかも、豊かに受けるためである」

(教会はどのような働きがあるのだろうか。週に水曜日と日曜日に教会に通っているが礼拝の日曜日だけでも良いのじゃあないか?また、神様はイエス様だと知っているのだし、強いてまでは教会に通う事はないのじゃあないのか・・・」

私はそう思っていました。礼拝主義者じゃあないし、祭儀主義ではないしね」・・・

この思いはある程度、熱心に教会に通っている時期に私の思いに入って来ました。他の先輩の信徒も孫の行事などには礼拝に来ないし、それほど熱心にならなくても・・

この箇所から「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」は教会の事を示されている事がすぐに解かりました。

教会はイエス・キリストのみことばを聞く場所です。教会の門がイエス様ならイエス様は良い牧草は門の中で見つけると仰っています。羊にとって牧草は唯一の糧です。

牧草はみことばです。門とイエス・キリスト。教会と牧草とみことばが一つにつながって来ました。そして、私の中に油断という隙間隙、安穏な信仰生活が示され、私は悔い改めに導かれました。

10節ではイエス・キリストが地上に来られたのは羊が命を得るためと仰っています。私たちの周りにはいろんな正しいと思われる悟りに導く教えや教団は沢山溢れています。

しかし、どんなに悟りを得たとしても救いはありません。救いはイエス・キリストだけです。救いがなければ悟りは意味を成しません。私たちにはイエス様の永遠の命と永遠の愛が必要であってその他の物はパウロが言っているようにチリ、あくたに等しいのです。

私に示されたのは「油断して安穏な信仰生活に引き込まれては伝道と言うイエス様の働きが出来なくなること。

みことばを蓄えるには祈祷会での祈りの中で賛美によって力が与えられ霊の成長を見ることが出来ることでした。

私は賛美と祈りに熱心になりました。その熱心は自分の力ではありません。喜びにあふれる熱心でした。賛美で御言葉がどんどん私のうちに吸収されて来て蓄えられてきました。

そうすると黙ってる事が出来なくなって伝道に熱心になりました。キリストの福音をどこでも誰にでも語りたくなったのです。喜びをもってです。




Posted by 金城米子 at 08:22│Comments(0)
 
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