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2014年10月01日

聖書が教えるものは?

聖書を語る事で拒否反応を示す人がいるのはノンクリスチャンや無神論者ばかりではありません。
クリスチャンの中にも必要以上に拒否反応を示すが人います。

彼らはノンクリスチャンの方がキリスト的に生きている人が多いことを評価しています。
それは間違ってはいません。

しかし、何故、神が不足な者を選び出して神の懐に入れたのかを理解しなければなりません。
真面目に生きる世の人の理解者だとと自負しているかも知れませんが同じ神の家族を
非難しては行けません。

また、聖書を(みことば)を語る事を拒否しないでください。
成長過程にあるベビークリスチャンを非難する事もやめてほしいと思っています。

過去の私も裁く心がありましたが聖書のみことばは生きて働く神の力だとの確信は過去から
今まで一度も揺らいだことはありません。

ベビークリスチャンを神様は幼子と呼んでいます。幼子が成長して紙おむつが完全に取れる
までには三年半くらいはかかります。

三年半と言えば何を思いますか?

そうです弟子訓練ですね。

イエス・キリストが弟子訓練したことで有名なのは山上の垂訓でした。
成長した弟子たちが学ぶのは天国の市民としての学びです。

山上の垂訓は天国の市民としての学びです。山上の垂訓は律法による
救いを説いたものではありません。
山上の垂訓では天国人としてのクリスチャンを「幸いな人」と呼ばれたのです。

(1)貧しい者は幸いです。(自分にとって何が必要かを知る人の事ですね。)
(2)悲しむ者は幸いです。(試練は罪の結果だと考えないで下さい。)
(3)柔和な者は幸いです。(謙遜な人、自己制御できる人の事です)
(4)義に飢え渇いている者は幸いです。(神と人々の前に正しくあろうと願う人です)
(5)あわれみ深い者は幸いです。(助けを必要としている人への配慮のある人のことです)
(6)心の清い者は幸いです。(裏表がなく動機までが清い人です。聖霊に支配された人物です)
(7)平和をつくる者は幸いです(献身・慰め・赦しの人です。真理は人を二分にしますが争いはしません)
(8)義のために迫害されている者は幸いです。(神の国とこの世がある限りクリスチャンへの迫害は必ずあります)

全ての人々が平和でありますようにお祈りします。



Posted by 金城米子 at 04:19│Comments(0)
 
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